ラーザリ・カガノーヴィチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 13:38 UTC 版)
ラーザリ・カガノーヴィチ Ла́зарь Кагано́вич | |
---|---|
| |
生年月日 | 1893年11月22日 |
出生地 | ロシア帝国、キエフ県ラドムィーシュリ郡カバヌィ |
没年月日 | 1991年7月25日(97歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
所属政党 | ウクライナ共産党 |
配偶者 | ローザ・カガノーヴィチ |
サイン | |
在任期間 | 1925年5月 - 1928年7月 |
在任期間 | 1947年3月3日 - 12月26日 |
ソビエト連邦運輸人民委員 | |
在任期間 | 1935年 - 1942年 |
首相 | ヨシフ・スターリン |
在任期間 | 1943年 - 1947年 |
首相 | ヨシフ・スターリン |
生い立ち
ロシア帝国時代のウクライナキエフ県ラドムィーシュリ郡カバヌィの村で、ユダヤ人の両親の元、1893年に生まれた。人生の大部分において、彼は頑強な無神論者だった。形ばかりの教育は決して受けず、独学で靴職人となって働いた。
1911年、ボリシェヴィキに入党した(兄のミハイル・カガノーヴィチはすでに党員であった)。1915年末、カガノーヴィチは逮捕され、カバヌィに送還された。1917年3-4月は、革鞣工組合の組合長、そしてユーゾフカ・ソビエトの副議長であった。1917年5月、サラートフにおけるボリシェビキの軍事組織の指導者となった。1917年8月、彼はベラルーシのボリシェビキ党ポレーシエ地区委員会の指導者となった。十月革命時はホメリの反乱指導者の役割を果たした。
共産党官僚
1918年、カガノーヴィチは赤軍宣伝部の政治委員となった。1918年5月から1919年8月、ニジニ・ノヴゴロド県の幹部会議長であった。また、1919年から1920年はヴォロネジ県の指導者であった。1920年から1922年、彼はトルクメニスタンにおいて、地方のイスラム教反乱勢力(バスマチ)に対するボリシェビキ闘争の指導者の一人であった。そして、その地方の敵対者に対する討伐においても、引き続き指揮を執った。
1922年5月、ヨシフ・スターリンがソビエト連邦共産党書記長になると、直ちにカガノーヴィチを側近とし、書記局の「組織部」の長に転任させた。この部署は共産党機構内のすべての役職に対して責任を負っていた。カガノーヴィチは、ここで働きながらスターリンの支持者たちを党官僚社会における重要な地位に就ける手助けをした。その地位において、彼はその高い仕事力、スターリン個人への忠誠、そして彼自身の個人的見解の欠如が認められた。彼は、スターリンからのあらゆる命令も必ず実行すると公言していたが、その当時はまだ珍しいことであった。
1924年、カガノーヴィチは中央委員会の委員となった。1925年から1928年にかけて、カガノーヴィチはウクライナ共産党第一書記の地位にあった。ウクライナにおけるカガノーヴィチは、クラーク(富農)に対するその経済的抑圧の徹底方針、そして「社会主義へのクラークの平和的統合」を掲げるニコライ・ブハーリンのより穏健な政策に対する頑強な反対で有名であった。ウクライナ共和国における彼の在任中、ウクライナ化政策はロシア化へと変更され、そして多くの党官僚が「ウクライナ民族主義者」として粛清された。
工作
1928年、カガノーヴイチ指導部に対する数多くの抵抗のため、スターリンはカガノーヴィチをウクライナからモスクワに転任させ、党中央委員会書記の役職に戻した(1939年まで)。スターリンこそが国家の唯一の指導者となるという期待のもと、彼は党書記として、いわゆる共産党内の左翼反対派および右翼反対派に対するスターリンの闘争を支援した。1933年から1934年まで、彼は共産党党員粛正委員会議長(Tsentral'naja komissija po proverke partijnykh ryadov)を務めながら、個人的には、共産党を追放されたスターリンの敵対者とは誰も連絡をとれないようにした。1934年の第17回党大会において、カガノーヴィチは集計委員会議長となった。彼は中央委員会の役員選挙において、スターリンの立候補に反対する290個の票を取り除き、改竄した。彼の行為により、セルゲイ・キーロフの代わりにスターリンを書記長として再選させた。規約では、反対票がより少ない候補者が書記長となる。カガノーヴィチが改竄する前のスターリンの反対票は292、対してキーロフはわずか3票であった。しかしながら、「公式」の結果では(カガノーヴィチの妨害により)、スターリンへの反対票は2票だけであった[1]。
政治局員
1930年、カガノーヴィチはソ連共産党政治局員、そして党モスクワ地区(1930年~35年)及びモスクワ市(1931年~34年)第一書記となった。彼はまた、農業集団化や早急な工業化を含め、スターリンの経済政策の実行の多くを監督した。
1930年代にカガノーヴィチは、モスクワにおけるソビエト初の地下鉄システムの建設を組織化し、大いに寄与した。この地下鉄には、1955年までは彼の名前が冠されていた。このとき、彼はまた、救世主ハリストス大聖堂[2]を含め、市の歴史的建造物の多くの破壊を監督した。1932年、彼はイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクにおいて労働者ストライキの無慈悲な鎮圧を指導した。
ウクライナ大飢饉への責任
スターリンの指示のもと、カガノーヴィチはヴャチェスラフ・モロトフとともに1930年の全ウクライナ党大会に参加し、ウクライナにおける集団化政策を積極的に奨励し、数百万のウクライナ人が死んだ1932年から33年の悲劇的なホロドモール(ウクライナ大飢饉)をもたらした。同様の政策はまた、中央アジアのカザフスタン共和国や、クバン、クリミア、下ヴォルガ、その他ソビエトの各地方においても、多大な苦痛を与えることとなった。共産党中央委員会の使者として、カガノーヴィチはウクライナ、ロシア中央部、北カフカース、シベリアを旅し、農業の集団化と、「富農」とその支援者(一般に集団農場化の遅れの責任を押し付けられた人々)に対する抑圧の促進を要求した。例えば北カフカースの指導部に圧力をかけてクバンの3スタニツァ(ポルタフスカヤ、メドヴェトコフスカヤ、ウルプスカヤ)の全員を(全体で4万5000人)完全に国外追放させた。カガノーヴィチは、モロトフ、パーヴェル・ポストゥイシェフ、その他ソビエト連邦のスターリン主義指導者たちと共に、指導者スターリンの指示を忠実に実行した者として飢饉に責任があるとされる[3]。
- ^ Radzinsky, 1996
- ^ Rees, Edward Afron. Stalinism and Soviet Rail Transport, 1928-41, Macmillan, 1994. ISBN 0312123817
- ^ ロバート・コンクェスト,Conquest, Robert. The Harvest of Sorrow: Soviet Collectivization and the Terror-Famine, OUP, 1986. ISBN 0195040546(日本語訳『悲しみの収穫/ウクライナ大飢饉』恵雅堂出版、2007年 ISBN 4874300332)[要ページ番号]
- ^ Kahan, Stuart. The Wolf of the Kremlin: The First Biography of L.M. Kaganovich, the Soviet Union's Architect of Fear, William Morrow & Co, 1987. ISBN 0195040546
- ^ 『タイム』誌・社会面、1951年7月23日(英語)
- 1 ラーザリ・カガノーヴィチとは
- 2 ラーザリ・カガノーヴィチの概要
- 3 "鉄のラーザリ"
- 4 失脚
- 5 死去
固有名詞の分類
ソビエト連邦の政治家 |
ナデジダ・クルプスカヤ イワン・フロロフ ラーザリ・カガノーヴィチ ウラジーミル・レシン イサーク・ゼレンスキー |
ユダヤ人 |
アルネ・ヤコブセン ブラック・ジュー ラーザリ・カガノーヴィチ ペーター・ファン・ペルス エレーヌ・ベール |
ウクライナの政治家 |
ミハイル・テレシチェンコ ニコライ・ポドゴルヌイ ラーザリ・カガノーヴィチ アンドレイ・デルカッチ ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ |
- ラーザリ・カガノーヴィチのページへのリンク