ホワイティ・ハーゾグ ホワイティ・ハーゾグの概要

ホワイティ・ハーゾグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 02:43 UTC 版)

ホワイティ・ハーゾグ
Whitey Herzog
1989年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ニューアセンズ
生年月日 (1931-11-09) 1931年11月9日
没年月日 (2024-04-15) 2024年4月15日(92歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
182 lb =約82.6 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
初出場 1956年4月17日
最終出場 1963年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 2010年
得票率 87.50%
選出方法 ベテランズ委員会選出による

経歴

ニューヨーク・ヤンキースに入団。 ヤンキースでのメジャー昇格はならなかったが、スプリング・トレーニング(日本のプロ野球でいう春季キャンプ)で接した、アメリカ野球殿堂入りした当時の監督ケーシー・ステンゲルから受けた影響は、後年監督を務めた際に役立った。 ワシントン・セネターズ(現在のミネソタ・ツインズ)に移籍して1956年4月17日にメジャー初出場を果たす。 その後、1958年途中にカンザスシティ・アスレチックス(現在はオークランド)、1961年ボルチモア・オリオールズ1963年デトロイト・タイガースに移籍し、その年限りで現役を引退した。 選手としての通算成績は、634試合に出場して打率.254、本塁打25、打点172、得点213、二塁打60、三塁打20であった。

引退後アスレチックスに復帰し、スカウト(1964年)→コーチ(1965年)を務めた。1966年にはニューヨーク・メッツにコーチとして移籍し、1967年にはフロントに転じ、「ミラクル・メッツ」と言われた1969年のワールドシリーズ制覇に貢献。

1973年テキサス・レンジャーズ監督に就任したが、138試合で47勝91敗の成績でシーズン終了を待たずに解任。1974年カリフォルニア・エンゼルスのコーチを務め、途中4試合代理監督を務める。

1975年途中からカンザスシティ・ロイヤルズ監督に就任し、初年度に66試合で41勝を挙げ、チームは最終的に2位に躍進。1976年からは3年連続ア・リーグ西地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでいずれもヤンキースに敗れ、2位に終わった1979年限りで解任。

1980年途中からはセントルイス・カージナルス監督に就任。シーズン途中でGMを兼任し、1982年までGM兼監督となる。50日間に及ぶストライキでシーズンが二分された1981年には前後期いずれも2位、1982年には92勝を挙げて地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでもアトランタ・ブレーブスを破り、ワールドシリーズでもミルウォーキー・ブルワーズ(当時はアメリカンリーグ所属)を破り、ワールドチャンピオンに輝いた。1983年以後は監督に専念し、1985年1987年にもチームをワールドシリーズに導き、1985年にはかつて監督を務めたロイヤルズを3勝1敗と追い込むが、第5戦から3連敗して逆転負けを喫する。第6戦で「誤審」を犯した審判ドン・デンキンガー(詳細はこちら参照)が球審を務めた第7戦ではストライク・ボールの判定に抗議し、投手ウォーキーン・アンドゥハー共々退場処分となった。1987年にも敵地メトロドームでの第1戦、第2戦と連敗の後、本拠地ブッシュ・スタジアムで3連勝してミネソタ・ツインズを追い込むが、再び敵地の第6戦、第7戦に連敗した。カージナルスの監督を1990年途中まで務め、退任。

1993年1994年にはエンゼルスのGMを務めた。2009年12月に行われたベテランズ委員会の選考により、アメリカ野球殿堂入りを翌2010年に果たす。

ハーゾグのカージナルス在籍時の背番号「24」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番2010年指定。

殿堂入りを記念し、同年7月31日にカージナルスはハーゾグ在籍時の背番号『24』を永久欠番に指定した。

2024年4月15日に死去[1]。92歳没[2]

監督としての特徴

カージナルス監督当時のハーゾグ(1983年)

投手力と機動力と守備力を重視。

ロイヤルズの本拠地ロイヤルズ・スタジアム(現名称はカウフマン・スタジアム)とカージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアム(フィールドも現在より広かった)は当時いずれも走者に有利な人工芝球場だったことあり、「ホワイティ・ボール」と呼ばれた俊足の選手を多用。

特にカージナルス時代の1985年には110盗塁を記録して新人王を獲得したビンス・コールマンを筆頭に、ウィリー・マギー(56盗塁)、アンディ・バンスライク(34盗塁)、トム・ハー(31盗塁)、オジー・スミス(31盗塁)と実に5人が30盗塁を記録し、チーム全体で314盗塁を記録。 (2位は182盗塁のシカゴ・カブス。)

オジー・スミスについては「年間162試合で100点を防ぐ守備力」と高く評価し、サンディエゴ・パドレスからトレードで獲得し、成功を収めた。

出塁率の高い打者を好み、ロイヤルズではジョージ・ブレットハル・マクレー、カージナルスではキース・ヘルナンデスジャック・クラーク、オジー・スミス、ダレル・ポーターらを重視。


  1. ^ ハーゾグ元監督が92歳で死去 カージナルスを82年世界一、野球殿堂入り”. 産経新聞 (2024年4月17日). 2024年4月17日閲覧。
  2. ^ Whitey Herzog, innovative manager, Cardinals champion and creator of 'Whiteyball,' dies at 92” (英語). STLtoday.com (2024年4月16日). 2024年4月16日閲覧。


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固有名詞の分類

アメリカ合衆国の野球選手 ブライアン・ラービー  アンソニー・サンダース  ホワイティ・ハーゾグ  ボー・ジャクソン  ロニー・ベリアード
アメリカ野球殿堂 テッド・ライオンズ  キャットフィッシュ・ハンター  ホワイティ・ハーゾグ  ポール・ウェイナー  ルーブ・マーカード
ボルチモア・オリオールズの選手 ジム・ボトムリー  チャーリー・ロバートソン  ホワイティ・ハーゾグ  ウェイド・ロードン  リッチ・ヒル
オークランド・アスレチックスの選手 ビリー・マーチン  デニー・マクレイン  ホワイティ・ハーゾグ  マーク・ブダスカ  ダスティ・ベイカー
セントルイス・カージナルスの選手 ゲイリー・ガイエティ  ロッド・ブリューワ  ホワイティ・ハーゾグ  ロニー・ベリアード  トード・ラムゼイ
テキサス・レンジャーズ及びその前身球団の選手 ベンジー・ギル  デニー・マクレイン  ホワイティ・ハーゾグ  ブルース・チェン  デービッド・クライド
デトロイト・タイガースの選手 ビリー・マーチン  デニー・マクレイン  ホワイティ・ハーゾグ  チャック・ケアリー  オーランド・ミラー
ロサンゼルス・エンゼルス及びその前身球団の選手 ジョーイ・マイヤー  トニー・コニグリアロ  ホワイティ・ハーゾグ  ボー・ジャクソン  ライアン・ハンコック
カンザスシティ・ロイヤルズの選手 ゲイリー・ガイエティ  ネルソン・リリアーノ  ホワイティ・ハーゾグ  ボー・ジャクソン  クリント・ハードル
ミネソタ・ツインズの選手 ネルソン・リリアーノ  ブライアン・ラービー  ホワイティ・ハーゾグ  ギャレット・ジョーンズ  エベレット・スコット
MLB監督 テッド・ライオンズ  ビリー・マーチン  ホワイティ・ハーゾグ  クリント・ハードル  ダスティ・ベイカー

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