フォード・コスワース・DFVエンジン 性能・主要諸元

フォード・コスワース・DFVエンジン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 09:11 UTC 版)

性能・主要諸元

  • V型8気筒エンジン、DOHC4バルブ自然吸気2,993cc
  • バンク角 90度
  • 内径×行程 85.6×64.8mm
  • 最大出力 408hp/9,000rpm(1967)、415hp/9,500rpm(1968)、430hp/10,000rpm(1969-1970)、510hp/11,200rpm(後期)
  • 最大トルク 33.8kg·m/8,500rpm(初期)、37.3kg·m/9,000rpm(後期)
  • 重量 161kg(初期)、154kg(後期)

記録

DFVに初優勝をもたらしたロータス・49。ノーズにFordの4文字。このエンジンは、まだF1車にウイングが全く付いていなかったような昔にデビューした。

歴史

DFVエンジンの誕生

ロータス49のDFVエンジン

DFV は、1966年のレギュレーション変更でエンジン排気量が以前の1.5リットルから2倍の3.0リットルに拡大されたことへの対応で新規開発された。

準備期間が短かったため、各コンストラクターは大排気量レーシングエンジンの確保に苦労し、フェラーリはスポーツカーで使用中のV型12気筒をスケールダウンして流用、ホンダも V型12気筒と適合する車体(ホンダ・RA273)の開発に手間取り、シーズン開始に間に合わず途中からの参戦になった。

また BRM180度V型8気筒を2段重ねにしたH型16気筒を持ち込んだが、重量過大と信頼性欠如で苦戦した。クーパーに至っては1960年に撤退したマセラティ直列6気筒 2.5リットルを再使用したが、親会社の交代による混乱もあり通用しなかった。

ブラバムは軽量なトヨタ・クラウンエイト用アルミブロックも検討したが強度不足で却下し、ローバー・P6レンジローバー用に輸入されていたオーストラリアの GM ホールデンのV型8気筒OHVスモールブロックを基に、レプコのフランク・ハラムと、フリーのエンジン技術者フィル・アービングがクロスフローの SOHC ヘッドを架装したエンジンを自主製作した。軽量でトルクがあり信頼性の高いレプコ・ブラバムは、ライバル達の混乱を後目に1966年と1967年シーズンを連覇したが、専用開発中の 3.0リットルレーシングエンジンが本格化するまでの暫定的なものでしかなかった。

初年に BRM H16 のトラブル多発に懲りたロータスの総帥コーリン・チャップマンは、同社のエンジン部門に居たマイク・コスティンキース・ダックワースが分家の形で独立した、新興エンジンメーカーのコスワースに 3.0リットルF1 専用エンジンの開発を依頼。ダックワースは、当時 F2 用に開発中の直列4気筒 1.6リットルの「FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合してV型8気筒化したものを、FVA と平行開発する構想を持っており、名称は「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」となった。

ところが当時コスワースは資金難で、開発費を負担してくれるスポンサーを求めていた。1963年からロータスはイギリス・フォードコーティナに同社製 DOHC エンジンを搭載したホットバージョン、ロータス・コーティナを受託生産しており、チャップマンが英フォードで懇意のウォルター・ヘイズらにコスワースへの協力を打診した結果、DFVの開発費を提供することになり、DFV にはフォードのバッジネームが付いてフォード・コスワース・DFVの名で呼ばれた。また米フォード本社は当時モータースポーツに高い関心を寄せており、F1 進出のためフェラーリの買収を企図したもののエンツォ・フェラーリに拒否され失敗したばかりで、英フォードの DFV 計画にも積極的であったという。

ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。

また、現代ではあたりまえになっている、エンジンブロック自身をフレームの強度メンバーの一部として使う手法は、DFV の誕生の頃にはまだ先進的・冒険的な設計のひとつであった(本エンジン以前の例としてはホンダ・RA271などがある)。そのように使われることを当初から前提として設計された本格エンジンは本機が最初だろう、とする論者もいる[1]

デビュー

1967年にロータスの新型ロータス・49オランダGPから実戦投入されたDFVは、フェラーリ、ホンダ、ウェスレーク英語版のV型12気筒に比べて出力では若干劣ったが、トルクバンドが広く小型軽量で低燃費、ストレスメンバーとしての搭載を前提にしていたことからシャシとの相性も良く、初戦にもかかわらずグラハム・ヒルポールポジションを獲得、決勝レースでは同ロータスのジム・クラークが優勝し、DFV はデビューウィンをPPで飾ってF1の世界に新風を巻き起こした。

DFV の期待以上の活躍を喜んだフォードは、独占供給継続を望むロータスを振り切り、翌1968年シーズンから DFV の市販を開始した。同年ロータスは初のメイクスタイトルを獲得したが、その後は DFV の1ユーザーの立場になり、優位性を失った。

DFV絶頂期

6輪車ティレル P34。この形状はDFVというイコールコンディションでの空力研究のひとつの到達点であった。

フォードがDFVエンジンを市販し始めたことは、F1の勢力図に大きな変動をもたらした。低予算のコンストラクターがDFVと市販のシャシを購入し、数名のメカニックを雇っただけのチーム形態でグランプリへ参加することを可能にした。さらにV型8気筒というコンパクトなエンジン形式を採用したことにより、V型12気筒などの多気筒エンジンに比べはるかにメンテナンス性に優れていた。こうしたコンストラクターとしてマクラーレンティレルウィリアムズアロウズなどがある。

こうしたコンストラクターが増えたことで、相対的にワークスがGPに踏みとどまっている必要性が薄くなってきたためワークスの撤退が相次ぎ、BRMが撤退すると一時期はフェラーリ以外は全て、DFVユーザーという状態になった。

そのようにしてエンジンとシャシにおいてマシーンの平均化が進んだことから、技術面では空力の利用についての競争が盛んとなった。今日私達が目にするような整流機能やダウンフォースを得るためのウィングがマシンに取り付けられるようになったのもDFVエンジンが市販されたのと同じ1968年のことである。またウィングカーティレル・P34のような6輪車など非常にユニークなクルマも造られた。

ウィングはエンジンとは無関係なように思えるかもしれないが、実はそうではない。前述のようにDFVエンジンは強度メンバーのひとつとして組み込まれることを前提としているが、その設計時はまだウィングが多用される前だった。1969年シーズン中のウィングに関する大幅なルール化により、ウィングをアップライトに固定することが禁止された結果、車体に固定されるようになったウィングが発生するダウンフォースはエンジンを経由してサスペンションとタイヤに伝わるようになった。その結果としてエンジンやギヤボックスに掛かるストレスが想定を超えていた時期があり、(コスワースは否定しているとされているが)1970年代にそれに対応する改修が加えられたものと見ている設計者(デザイナー)もいる[2]

DFVの高性能は、F1の勢力図を大きく塗り替えた。DFVは改良を重ねられ1991年までの長きにわたり参戦し、F1から撤退するまでに実に155勝を挙げた(1987年からは3.5リットル化された)。これほどの成功を収めたレーシングエンジンは他になく、DFVはまさしくグランプリに輝く金字塔である。

DFVのライバル

DFVは1968年から1974年までの7年間ドライバーズとコンストラクターズのタイトルを独占し続けた。この間ほぼ唯一の非DFVコンストラクターであるフェラーリはグランプリの隅に追いやられ続けた。1960年代を通してフェラーリは経営が悪化しフィアットの傘下に入るなど最も低迷した時期になった。

フェラーリがDFVに対してコンペティティブになれたのは、1970年代に入って3.0リットル180度V型12気筒エンジンティーポ015英語版、通称ボクサーの開発に成功してからだった。以降1970年代の終わりにルノーがターボエンジンを持ち込むまでボクサーのみがDFV唯一のライバルであり続けた。1974年ニキ・ラウダがフェラーリに加入すると、翌75年にはドライバーズとコンストラクターのタイトルを奪回することに成功した。これに対抗するため、細部の仕様変更(マグネシウム鋳造パーツの採用等含む)を施した発展型DFVが1977年マクラーレンロータスティレルウルフに供給された。

マクラーレン・M23に搭載されたDFVエンジンを調整するメカニック。
1977年ブラジルGP

低迷と復活

デビューから10年近くも経ち、DFVもフェラーリやアルファロメオのパワフルな水平対向12気筒エンジンに苦戦を強いられることが多くなった。 その頃、DFV誕生の立役者であるロータスがグランプリに革命を起こす。 ロータスが1977年に投入したロータス・78グラウンド・エフェクト・カーの先駆けとなり、以降グランプリは強力なダウンフォースが得られるグラウンド・エフェクト・カーが主流となる。 フェラーリやアルファロメオの大型の水平対向12気筒エンジンはサイドポンツーンから抜ける気流を乱し十分なグラウンド・エフェクトを得ることができなかった。 一方、DFVはいわゆる「葉巻型」のロータス・49のために開発された経緯からモノコック径とほぼ同じサイズであり、グラウンド・エフェクト・カーに最適なエンジンとして競争力を取り戻した。

DFVの退潮

DFVに終焉をもたらしたのはターボエンジンの登場であった。1977年ルノーターボチャージャー(排気タービンによる過給器)付きエンジンを初めてF1に持ち込んだ(ルノー・RS01)。F1のレギュレーションには当初から過給器付き(規則の原文は 'supercharged' )エンジンの規定が設けられていたものの、普通「スーパーチャージャー」とはターボではなく機械式過給を指し、ルノーによるターボの導入は'supercharged' が文字通りには単に「過給」の意味しかないことを利用した、いわゆる「ルールの精神ではなく『文字通り』に従った行為」であったが、F1運営側の判断としては黙認という形になった[3]。当初、ルノーはターボエンジン特有の「ターボラグ」に悩まされ、またエンジンブローも頻発したため、DFVユーザーの敵にはならなかった。しかし、1979年フランスグランプリで初優勝を挙げた頃から、各メーカー、チームは次第にターボエンジンの潜在力と性能に目を向けるようになっていった。

1980年代に入ると、さらに状況は変化した。1981年にはフェラーリがターボエンジンへの切り替えに踏み切り、1982年にはBMWがブラバムにターボエンジンの供給を開始した。また、1983年にはホンダとポルシェもターボエンジンの供給を開始した。大メーカーがターボエンジンの供給を始めると、次第にDFVが活躍する幅は狭くなっていった。各チームは戦闘力に勝るターボエンジンを求めるようになり、ターボエンジンを得られずDFVを使用するチームは徐々に下位に沈んで行った。

それでも1982年のグランプリはDFVエンジンを搭載したウイリアムズのケケ・ロズベルグが総合王者になったが、DFVの栄光もここまでであった。翌1983年のシーズンではフラットボトム規制が施行され事実上グラウンド・エフェクト・カーは参加できなくなったこともあり、BMWターボエンジンを搭載したブラバム・BT52を駆るネルソン・ピケが総合王者となり、DFVエンジンは遂に王座から陥落した。

グランプリからの退場

コスワースもDFVの改良を続け、1983年にはDFVのショートストローク版と、それを基に更に改良を施したDFYを投入した。このエンジンはデトロイトで開催されたアメリカ東GPティレルミケーレ・アルボレートのドライブにより勝利を挙げることに成功した。しかし、この優勝がDFVシリーズにとっての155勝目、すなわち最後の優勝となった。

DFV(DFY)は競争力に欠けるようになり、1985年の中盤までにはDFV(DFY)を使用していたチームも全てターボエンジンに切り替えられた。第10戦のオーストリアGPティレルマーティン・ブランドルがDFYを使用し、予選不通過に終わったのを最後に、3000ccのDFV(DFY)はF1から姿を消した。

1987年に自然吸気車の排気量上限が3500ccになると、コスワースはDFVの排気量を上げたDFZエンジンでF1に復帰するが、DFZとその改良モデルのDFRでは勝利を挙げることは無かった。1988年ブラジルGPには、シャーシ開発が遅れたダラーラスクーデリア・イタリア)がF3000マシンである3087にDFVを載せて出場したが、予備予選落ちとなった。

コスワースが再びF1で勝利を収めるのは、新設計のHBエンジンを使用した1989年日本GP(アレッサンドロ・ナニーニ)、ワールドチャンピオンを獲得するのはさらに新たなエンジンであるZETEC-Rエンジンを使用した1994年(ミハエル・シューマッハ/ベネトン)のことである。


注釈

  1. ^ DFVエンジンとして
  2. ^ DFRエンジンとして

出典

  1. ^ 『レーシングカー : その設計の秘訣』P.135
  2. ^ 『レーシングカー : その設計の秘訣』 p. 135
  3. ^ Henry, Alan. The Turbo Era. Hazleton Publishing. pp. 234. ISBN 1-874557-97-7 
  4. ^ イアン・バムゼイ 著、三重宗久 訳『世界のレーシングエンジン』株式会社グランプリ出版、東京都新宿区、1990年、pp.75-ff頁。ISBN 4-906189-99-7 
  5. ^ PADDOCK NEWS レイトンハウス・マーチはスポーツカーだ F1GPX '87サンマリノGP号 6頁 1987年5月20日発行
  6. ^ a b c d イアン・バムゼイ 著、三重宗久 訳『世界のレーシングエンジン』株式会社グランプリ出版、東京都新宿区、1990年、pp.58-ff頁。ISBN 4-906189-99-7 
  7. ^ 今宮純 フォード+コスワース+ヤマハにとっての'88年DFR  グランプリ・エクスプレス '88開幕直前号 28頁 山海堂 1988年4月8日発行
  8. ^ ベネトンは5バルブを放棄か グランプリ・エクスプレス'88ブラジルGP号 28頁 1988年4月23日発行
  9. ^ How to be an ace engineer: Engine builder Richard Langford AUTOSPORT 2022年10月13日





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