ジェラルド・R・フォード 下院院内総務

ジェラルド・R・フォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 03:18 UTC 版)

下院院内総務

フォードは1949年から1973年まで24年間下院議員で、1965年には下院の院内総務になった。前年の1964年の選挙で、共和党は下院での議席を減らした。当時の院内総務はインディアナ州選出の長老チャールズ・ハレック英語版下院議員であった。

フォードは党の若返りを図ろうとするチャールズ・グッデル英語版下院議員、ドナルド・ラムズフェルド下院議員ら若手のリーダー格であり、彼らに推され院内総務選挙に挑戦、勝利した。下院時代に、フォードはジョン・F・ケネディ大統領の暗殺原因を調査、また関する噂を押さえるために設立された特別対策本部、ウォーレン委員会のメンバーに選ばれた。委員会は、リー・ハーヴェイ・オズワルドが単独で暗殺を実行したと結論を下した。

また、フォードは1964年のジョンソン政権下で成立した公民権法及び1965年の投票権法の成立に大きな役割を果たした。公民権問題に関してはジョンソン政権に協力する一方、大統領の「偉大な社会英語版」計画の大半には下院共和党のリーダーとして反対の先頭に立った。フォードは共和党の上院院内総務であるエヴァレット・ダークセン上院議員と共にテレビに定期的に出演し、ジョンソン政権の政策に代わる共和党の政策をアピールした。この番組は大きな反響を呼んだ。

副大統領職

1973年、州知事時代の収賄罪が確定したことを受けてスピロ・アグニュー副大統領が辞職すると、同年10月10日ニクソン大統領はフォードを副大統領に指名した。その後、上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第25条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった(大統領による任期半ばでの新副大統領指名はこのフォードと、後にフォード自身が指名することになるネルソン・ロックフェラーの2例があるのみである)。

大統領職

大統領としてのポートレート
ブレジネフとウラジオストクで会談を行うフォード
SALT I に調印するフォードとブレジネフ
初訪米した昭和天皇香淳皇后夫妻をエスコートするフォード夫妻
ホワイトハウスのスタッフと
左からディック・チェイニー大統領首席補佐官、ドナルド・ラムズフェルド国防長官

ニクソンがウォーターゲート事件の結果辞職すると、フォードは大統領に昇格、「私たちの長い悪夢は終わった(Our long national nightmare is over.)」という有名な言葉を残した。同年9月8日、フォードは、ニクソンの訴追前の段階で「前大統領は十分に苦しみを受けた」として大統領特別恩赦を発表。フォードは寛容さをアピールしたが[3]一方で、裁判が行われなくなったことにより事件の詳細は解明されないままとなった。歴史家はこの恩赦が1976年の大統領選挙での敗北につながったと見ている。政治評論家は1976年秋、10月6日の2回目のテレビ討論での失言が大統領選の敗北につながったと見ており、世論調査専門家のジョージ・ギャラップは「選挙戦の決定的瞬間」と述べた。

ウォーターゲート事件の影響で、1974年中間選挙では民主党が上下両院で大幅に議席を増やし、立法府行政府のねじれが生じた。フォードは民主党多数議会が可決した多くの法案に拒否権を行使して争った。

フォードは、さらにマヤグエース号事件で外交危機に直面した。1975年5月に、クメール・ルージュカンボジアで政権をとった直後、カンボジア領海でクメール・ルージュ軍が、アメリカ国商船マヤグエース号(SS Mayaguez 乗員37名)を拿捕した。フォードは乗組員救出のために海兵隊を派遣したが、救助の海兵隊員は誤った島に上陸して抵抗を受け、18名の隊員の命が失われた。

1975年9月5日カリフォルニア州サクラメントで、アナーキストチャールズ・マンソンの信奉者リネット・スキーキー・フロム英語版がフォードに銃を向けたが、シークレット・サービスによって暗殺は防がれた。その17日後の9月22日に、サラ・ジェーン・ムーアサンフランシスコでフォードに発砲したが、銃撃はオリヴァー・シップル英語版によって妨がれた。

また、1974年11月18日に現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問し、昭和天皇と会見した。また1975年には天皇として初訪米した昭和天皇を迎えている。

1976年2月19日には、第二次大戦中の日系人の強制収容を招いた大統領令9066号を廃止した[4]。この日は奇しくも、34年前の1942年にフランクリン・ルーズベルト大統領によって同大統領令に署名がされた日だった。

なお、ニクソン前政権と同様に1975年に中華人民共和国を訪問して毛沢東と会見し[5]、引き続き中国との関係正常化にも努めた。

合衆国大統領顧問団

職名 氏名 任期
大統領 ジェラルド・フォード 1974年 - 1977年
副大統領 ネルソン・ロックフェラー 1974年 - 1977年
国務長官 ヘンリー・キッシンジャー 1974年 - 1977年
財務長官 ウィリアム・E・サイモン 1974年 - 1977年
国防長官 ジェームズ・R・シュレシンジャー 1974年 - 1975年
ドナルド・ラムズフェルド 1975年 - 1977年
司法長官 ウィリアム・サクスビー英語版 1974年 - 1975年
エドワード・レヴィ英語版 1975年 - 1977年
内務長官 ロジャーズ・モートン英語版 1974年 - 1975年
スタンリー・ナップ・ハサウェイ英語版 1975年
トーマス・サヴィグ・クレピー英語版 1975年 - 1977年
農務長官 アール・ラウアー・バッツ 1974年 - 1976年
ジョン・アルバート・ネブル 1976年 - 1977年
商務長官 フレデリック・ベイリー・デント英語版 1974年 - 1975年
ロジャーズ・モートン英語版 1975年
エリオット・リチャードソン 1975年 - 1977年
労働長官 ピーター・ジョセフ・ブレナン英語版 1974年 - 1975年
ジョン・トーマス・ダンロップ英語版 1975年 - 1976年
ウィリアム・アーゼリー・ジュニア英語版 1976年 - 1977年
保健教育福祉長官 キャスパー・ワインバーガー 1974年 - 1975年
フォレスト・デイヴィッド・マシューズ 1975年 - 1977年
住宅都市開発長官 ジェイムズ・トマス・リン 1974年 - 1975年
カーラ・アンダーソン・ヒルズ 1975年 - 1977年
運輸長官 クロード・ブリンガー英語版 1974年 - 1975年
ウィリアム・タデウス・コールマン・ジュニア英語版 1975年 - 1977年

評価

政治家としてのフォードは清廉潔白で、個人的にも素朴で誠実な人柄であった。自分を評して「私はフォードフォード・モデルTであって、リンカーンフォード・モーターの高級車ブランド)ではない」とも語っている。そうした彼の姿は、大統領としての能力はともかく、ウォーターゲート事件で失墜したホワイトハウスへの信頼の回復には大きく役立った。

しかし、学生時代にフットボールに打ち込んだように運動能力が低かったわけではないにもかかわらず、「運動神経が悪い、不器用な大統領」として揶揄された。実際にフォードは、階段でつまずいたり、エアフォースワンの入り口で頭をぶつけたり、タラップを滑り落ちるなど[6]、ちょっとしたアクシデントが不幸にもメディアに撮影されて話題となった。これを『サタデー・ナイト・ライブ』のチェビー・チェイスが「落ちたり何かを壊したりせずには一歩も進むことができない人」としてしきりとコントで取り上げたので、これがフォードのイメージとして定着した。また、リンドン・B・ジョンソン第36代合衆国大統領からは、「ヘルメットを着けずにフットボールをやり過ぎた男」と揶揄されたこともあった。フォード個人を知る者たちは、フォードはそれほど不器用な人間ではないとして、こうしたステレオタイプを非難した。

ある意味、戦時以上に難しい国家運営を求められた時期にあって、フォード政権の支持率は決して高くなかったものの、フォードを下して1977年に大統領に就任したジミー・カーター、また2006年にフォードの訃報に接したジョージ・H・W・ブッシュはいずれも、失墜した大統領職の権威回復に尽力したフォードの功績を賞賛している。

フォードが大統領時代に補佐官として起用したラムズフェルドチェイニーは少なからずフォード、キッシンジャーと対立したが、ブッシュ政権において国防長官・副大統領という要職を占め、リベラル派の定義するところの「ネオコン派」となり、イラク戦争を主導した。しかしフォードは対イラク開戦直後、戦争の正当性を否定すると共に「大きな過ちを犯した」「すばらしい部下だったが好戦的になった」と両者を厳しく批判するコメントを発していたことが死後明らかにされた。


  1. ^ “Former President Gerald Ford Dies”. CBS News Interactive. (2006年12月26日). http://cbs2.com/politics/politicsnational_story_227195601.html 2006年12月26日閲覧。 
  2. ^ ウィリアム・ハルゼー#第3艦隊司令長官参照。
  3. ^ 「ニクソン氏に特赦 既に十分苦しみ フォード大統領が発表」『朝日新聞』昭和49年(1974年)9月9日朝刊、13版、1面
  4. ^ President Gerald R. Ford's Proclamation 4417, Confirming the Termination of the Executive Order Authorizing Japanese-American Internment During World War II” (英語). Gerald R. Ford Presidential Library and Museum (1976年2月19日). 2011年1月6日閲覧。
  5. ^ Ford Visits China - 1975 Year in Review - Audio - UPI.com
  6. ^ 映像 - YouTube. Accessed 25 May 2019
  7. ^ さすがフォード氏 仮住まいも豪華版『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月27日朝刊、13版、7面
  8. ^ 国際短信 フォード夫妻が回想録を契約『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月24日朝刊、13版、23面
  9. ^ 『20世紀を伝えた男 クロンカイトの世界』 ウォルター・クロンカイトTBSブリタニカ 1999年 p302






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