クイーン・エリザベス (戦艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動艦歴 | |
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発注 | ポーツマス工廠 |
起工 | 1912年10月21日 |
進水 | 1913年10月16日 |
就役 | 1915年 |
退役 | 1948年 |
その後 | スクラップとして廃棄 |
除籍 | 1948年7月7日 |
性能諸元 | |
排水量: | 31,585 t(基準) 36,565 t(満載) 32,930 t(基準:1943年時) 38,450 t(満載:1944年時) |
全長 | 640 ft 10.5 in (195.3 m) |
全幅 | 90 ft 6 in 31.7m |
吃水 | 30 ft 6 in 9.5m 10.5m(満載) |
機関 | 竣工時: バブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼缶24基 パーソンズ式オールギヤードタービン4基4軸推進 改装後: アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基 パーソンズ式オールギヤードタービン4基4軸 |
出力 | 竣工時: 75,000 hp 改装後: 80,000 hp |
最大速 | 24ノット |
航続距離 | 10ノット/4,500海里 (1944年:12ノット/7,400海里) |
乗員 | 950-1,300名 |
兵装 | 竣工時: 38.1cm(42口径)MkI連装砲 4基 15.2cm(45口径)MkII単装速射砲 16基 7.6cm(45口径)単装高角砲 2基 4.7cm 単装礼砲4基 53.3cm水中魚雷発射管4門 カタパルト 1基 〜1945年: 38.1cm(42口径)MkI連装砲 4基 11.4cm(45口径)MkI及びMkIII連装両用砲 10基 2ポンド8連装ポンポン砲 4基 20mm連装機銃 20基 20mm単装機銃 14基 航空兵装なし |
レーダー | 竣工時: 279型 2基 284型 1基 285型 4基 〜1944年: 273型 1基 279型 2基 282型 4基 283型 4基 284型 1基 285型 4基 |
艦歴
竣工から第一次世界大戦にかけて
クイーン・エリザベスは1912年(大正元年)10月21日に起工し、1913年(大正2年)10月16日にポーツマスで進水した。その後、第一次世界大戦中の1915年(大正4年)1月に就役した[3]。
地中海での試験中にクイーン・エリザベスは、オスマン帝国攻撃のためダーダネルス海峡に派遣された[3][4]。同海峡に派遣された部隊には多くの巡洋戦艦および前弩級戦艦が含まれていたが、クイーン・エリザベスは唯一の近代戦艦であった。ダーダネルス海峡での海戦でクイーン・エリザベスは旗艦任務に当たり、1915年3月18日の戦闘ではイギリス軍戦艦の第一線を率いた。4月25日のガリポリの戦いでは地中海派遣軍指揮官サー・イアン・ハミルトン陸軍大将の旗艦であった。5月12日に戦艦ゴライアス (HMS Goliath) がトルコ軍の水雷艇により撃沈されると、クイーン・エリザベスはより本国方面へと後退した[4]。クイーン・エリザベスはこの派遣の間に86発の15インチ砲弾を放ったものの、主砲弾数の制限のために有効打とはならなかった[3]。
その後クイーン・エリザベスはヒュー・エヴァン=トーマス提督の率いる第5戦艦戦隊に加わるが、ユトランド沖海戦時にはドック入りしていたため戦闘に参加することはなかった[3]。 1918年(大正7年)11月、ドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) の大洋艦隊 (Hochseeflotte) がスカパ・フローで抑留されることになったとき、クイーン・エリザベスは大艦隊司令長官デイヴィッド・ビーティー卿の旗艦であった[5]。11月15日、大洋艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッパー提督の代理としてフーゴー・モイラ―少将がクイーン・エリザベスに乗艦する[5]。ビーティ提督は本艦の長官専用食堂でドイツ側の使者を迎え入れ、そこにはネルソン卿の全身肖像画と、ユトランド沖海戦時にビーティー提督が将旗を掲げていた巡洋戦艦ライオン (HMS Lion) より贈呈された真鍮製ライオン像も飾られていた[6]。
翌16日に降伏文書が結ばれた時も[7]、ビーティー提督の "うっかりミス" によりフィッシャー提督とジェリコー提督とジョージ5世(イギリス国王)が招待されなかったり欠席する中で11月21日にドイツ艦隊がスカパー・フローに到着して抑留されたときも、クイーン・エリザベスはビーティー提督および大艦隊 (Grand Fleet) 旗艦であった[8]。同日11時34分、クイーン・エリザベスは連合国軍およびドイツ全艦艇にむけて「本木曜日午後3時57分(日没時)をもって、ドイツ国旗を引き下ろすべし。なお今後許可なくこれを再掲揚してはならない」と信号する[9]。この命令は休戦協定に違反していたが、ビーティー提督の個人的欲望により実施された[9]。ビーティー提督がドイツ艦隊に与えた屈辱は、短期的にはドイツ艦隊自沈として結実し[10]、長期的にはナチス・ドイツの躍進と再軍備に繋がってゆく[注釈 3]。
戦間期
戦間期の1919年から1924年まで、クイーン・エリザベスは大西洋艦隊 (Atlantic Fleet) の旗艦であった。この間にB及びX砲塔に飛行機用射出台を設置している[11]。1921年(大正10年)5月7日、大正天皇皇太子(当時20歳。のち昭和天皇)の欧州訪問にともない[12]、香取型戦艦2隻(香取〈皇太子御召艦〉、鹿島〈第三艦隊旗艦〉)がイングランド南部のスピットヘッドに到着する[13][注釈 4]。 エドワード8世(プリンス・オブ・ウェールズ)の御召艦ローヤル・オーク (HMS Royal Oak, 08) [15]などと共に、イギリス製の日本海軍戦艦2隻を出迎えた[注釈 5][注釈 6]。 同港滞在中、裕仁親王はクイーン・エリザベスを訪問し[19]、在艦中は同艦のマストに皇太子旗が掲げられた[20]。翌8日、裕仁親王以下日本艦隊関係者、英国大西洋艦隊司令長官マーデン提督以下イギリス側関係者の午餐会がクイーン・エリザベス艦上で行われた[注釈 6][21]。食事後、裕仁親王はイギリス側高官の案内でエリザベス艦内を隈なく見学した[22]。
1922年(大正11年)には後に第一海軍卿となるジョン・H・D・カニンガムが艦隊航海士として乗艦した。 1924年(大正13年)からは地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) の旗艦となる。1937年から1941年にかけて大規模な近代化改装が行われた。上部構造は箱型艦橋へと一新されたほか、6インチ砲が撤去、代わりに20門の4.5インチ砲といくつかの小口径対空砲が装備された[11][23][24]。更に、艦中央部にカタパルトが付加されている。一連の改装は姉妹艦の中でも最も遅い時期のものであったが、この工事によってクイーン・エリザベスは陳腐化を免れた[25]。また、改装後には海軍省欺瞞様式 (Admiralty disruptive pattern) [注釈 7]を用いた迷彩塗装が施されている[24]。
のち、スペイン内戦期間中には海上封鎖に参加している。 1936年(昭和11年)12月にエドワード8世が退位し、ジョージ6世が新たなイギリス国王となった。戴冠式を記念して1937年(昭和12年)5月20日にジョージ6世戴冠記念観艦式が開催される。日本は重巡洋艦足柄および昭和天皇名代として秩父宮夫妻を派遣した[注釈 8]。この日、イギリスは日本に特別の配慮を示し、秩父宮夫妻は地中海艦隊司令長官ダドリー・パウンド大将と共に旗艦クイーン・エリザベスに乗艦して観艦式に参列した[注釈 9]。
第二次世界大戦以降
第二次世界大戦における地中海攻防戦において、クイーン・エリザベスは姉妹艦と共に地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) の一部として活動し、イタリア王国やドイツ海軍 (Kriegsmarine) と交戦した。 1941年(昭和16年)5月下旬のクレタ島攻防戦で地中海艦隊旗艦ウォースパイト (HMS Warspite) がドイツ空軍 (Luftwaffe) のスツーカに撃破されてアメリカ合衆国東海岸での修理を余儀なくされ、本艦が地中海艦隊の主力艦となった。
アレクサンドリア急襲
クイーン・エリザベスはカニンガム地中海艦隊司令長官の命を受けて、ジブラルタルからアレクサンドリア方面へと派遣された[29]。その後、クイーン・エリザベスはアレクサンドリアに入港・碇泊していたが、ここで奇襲攻撃を受けることとなる。すなわち1941年(昭和16年)12月18日、イタリア王立海軍 (Regia Marina) の潜水艦シレ (Scirè) から発進した人間魚雷マイアーレによって、姉妹艦ヴァリアント (HMS Valiant) 等と共に奇襲攻撃を受けた。この結果、クイーン・エリザベスは船体中央部から爆発を起こして大破着底の憂き目にあった[注釈 10][25][24]。この襲撃によって乗員9名が死亡した。また、本艦は僚艦ヴァリアントよりも損傷がひどく、缶室付近に巨大な破口を生じた[30]。そのため、応急修理後はアメリカ海軍のノーフォーク海軍工廠にて修理が行われた。クイーン・エリザベスはこの奇襲以降、1年半にわたって戦闘行動を行うことが出来なかった[30]。
1943年 - 最後
修理後は艦の迷彩も大きく変化した。塗装には合衆国海軍の用材を用いて、緑を基調とするパターンが描かれたという[31]。その後は一時的に本国に戻ったのち、太平洋に派遣されることとなる。この派遣の際、再び塗装が塗りなおされてライトグレー・菫色・黒を基調とする海軍省欺瞞様式[注釈 11]へと変化している[32]。
以降、本国帰還までダーバンを修理拠点に置き活動した[33]。1943年(昭和18年)にアラカン作戦に参加、英国陸軍を支援すべく艦砲射撃を行った[32]。1944年(昭和19年)にはスマトラ島の日本軍基地(在:サバン)への攻撃に参加した[32]。クイーン・エリザベスは1945年(昭和20年)7月に帰国した。1948年(昭和23年)3月にスクラップとして売却された[11][33]。
ギャラリー
クイーン・エリザベス艦上のビーティ提督。
ノーフォーク海軍工廠にて修理が行われている時期の本艦。
注釈
- ^ 戰艦“ヴアリアント Valiant”[1] 全要目{排水量31,100噸 速力25節 備砲38糎砲8門 15糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1913年1月 竣工1916年2月 建造所フヱヤー・フヰルド造船所} 同型艦“クヰン・エリザベス Queen Elisabeth” “ウオースパイト watspite”以上の同型艦に尚“バーハム Barham” “マラヤ Malaya”の2隻計5隻は英國海軍の先輩に位する戰艦である。そしれこれ等の級は概ね同國地中海艦隊の主力部隊としてモルタ軍港を根據地に活躍してゐる。“ヴアリアント”はこの寫眞で右のものがそれで、“ヴアリアント”の艦尾に碇泊してゐるのは“クヰン・エリザベス”尚陸岸近くの浮船渠(ドライドツク)に入渠してゐるのは“ウオースパイト”である。蓋し艦隊根據地にこの如く巨艦を自由に入渠せしむる浮船渠を有することは、大きな強みと云はねばならぬ。全長194.78米、幅31.69米、平均吃水9.34米、速力25節の速力に於ける軸馬力75,000馬力。
- ^ 戰艦“ヴアリアント Valiant”[2] 全要目{排水量31,100噸 速力25節 備砲38糎砲8門 15糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1913年1月 竣工1916年2月 建造所フヱヤー・フヰルド造船所} “クヰン・エリザベス Queen Elisabeth” “ウオースパイト watspite”外二隻(後出)とともにクヰン・エリザベス級と呼ばれてゐる英國戰艦陣の主部隊をなす。現在地中海艦隊の主力部隊として、マルタ軍港を根據地に活躍してゐる。全長194.78米、幅31.69米、平均吃水9.34米、速力25節の速力に於ける軸馬力75,000馬力。10糎高角砲4門、高角機銃十數門、魚雷發射管は艦首兩舷にカタパルトは後甲板上に配置されてゐる。勿論重油専燃機關で定員1,124人といはれてゐる。其後幾度か改装修理の後このやうな見事な前檣が出來あがつたのである。
- ^ イギリス海軍軍人で近代海軍史家のスィテーブン・ロスキルが、ビューティーの名誉欲が歴史に与えた重大な影響を指摘している[9]。
- ^ スピッドヘッド (Spithead) は、ポーツマス軍港とワイト島間の泊地である[14]。
- ^ 供奉艦鹿島ポーツマスに入港 左、後方は御召艦、右方に見ゆるは有名なるネルソン提督の乗艦ヴ井クトリア號[16]。ポーツマス港に投錨中の供奉艦鹿島 前方に見ゆるは英大西洋艦隊旗艦エリザベス號[17]。
- ^ a b 英國 一、ポーツマスに御着港[18] 五月三日ジブラルタル御出發の皇太子殿下の御一行は、非常なる強風吹き荒み航海は甚だ困難にて、船艦は濃霧の爲め長時間互に相見るを得なかつた。五月七日正午ポーツマス港外ワイト島のスピツトヘツトに投錨した、英國旗艦クヰーン・エリザベス號には英國第一艦隊司令長官マーデン提督坐乗し戰艦ローヤル・オーク號を随へ二十一發の皇禮砲を發射して御歡迎申上げ、我艦隊からも亦二十一發の禮砲を放つて答禮し殷々たる響き全世界を動かすばかりであつた、斯くて駐英林大使はランチを驅つて御召艦に伺候し御安着を奉祝した後、更に珍田伯を訪ひ殿下御上陸に附て種々の打合せをした、續いて在英日本官民や、マーデン提督等の人々御召艦に伺候して、御安着の御祝詞を申上げた、殿下には同提督並に林大使に午餐を賜つた後、提督の正式訪問に報ひる爲めクヰーン・エリザベス號に赴かれ御答禮あらせられた。翌八日はマーデン提督に依つて、クヰーン・エリザベス號にて我が皇太子殿下歡迎の午餐會が開れた、供奉員は澤山のプログラムの爲めに忙殺せられ、皇太子殿下には御多忙なる明日の御用意に出來る丈け御安息に遊ばされ今日は唯御召艦香取近く投錨せる、クヰーン・エリザベス號艦上にてマーデン提督と共に午餐を召されたる丈けなり、林大使及び海軍武官其他の人々は用務の爲め御召艦に伺候せり、かくて一方英國朝野の御歡迎準備既に全く整ひ、英皇室を始め陸海軍外務其他の官憲各都市は云ふも更なり、殿下が空前の御壮擧に於て同盟國首都に入らせ給ふ關門たるポーツマスにては、各所に日英國旗を掲揚して大歡迎の準備をさ〱怠りなかりき。
- ^ 同迷彩は大型艦向けに開発されたもの[26]。使用色は黒、濃緑色、灰色、淡灰色、灰青色、淡青色、濃灰色のうちから3、4色を用いた[26]。
- ^ 秩父宮夫妻は貨客船平安丸で日本を出発、4月12日サウサンプトンに到着した[27]。
- ^ 観艦式終了後、秩父宮夫妻は非公式に足柄を訪問したという[28]。
- ^ この奇襲攻撃で姉妹艦ヴァリアントとタンカー1隻が大破着底、巻き添えで駆逐艦ジャーヴィス (HMS Jervis, G00) も大破した。
- ^ 海軍省欺瞞様式には色調の違いによって3つのパターンが存在し、本艦のような暗色を基調とする様式は熱帯・亜熱帯海域向けに開発されたものであった[26]。
脚注
- ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 79(原本140-141頁)戰艦ヴアリアント
- ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 72(原本126-127頁)戰艦ヴアリアント
- ^ a b c d 宮永 2015, p. 26.
- ^ a b c Wright 2016, p. 20.
- ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, p. 15.
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, p. 16.
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 18–22ビーティ提督の要求
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 22–25降伏の儀式
- ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 24.
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 25–28名誉の自沈
- ^ a b c 宮永 2015, p. 27.
- ^ 三帝聖徳録1934, p. 192(原本335頁)四、英國に到着したまふ
- ^ 昭和天皇実録三巻 2015, pp. 112–113スピットヘッド御到着
- ^ 皇太子渡欧写真4巻 1921, pp. 44–45東宮殿下英國旗艦ク井エリザベス號を御往訪遊ばさる
- ^ 欧州於東宮 1922, p. 21-23(原本1-5頁)御着英の朝
- ^ 皇太子渡欧写真5巻 1921, pp. 5–6.
- ^ 皇太子渡欧写真5巻 1921, pp. 7–8.
- ^ 皇太子渡欧記念(大日本国民教育会) 1921, p. 50原本18-19頁
- ^ 皇太子渡欧写真5巻 1921, pp. 15–24(クイーン・エリザベス艦上の東宮写真一覧)
- ^ 昭和天皇実録三巻 2015, pp. 114–115英艦クイーン・エリザベス御訪問
- ^ 昭和天皇実録三巻 2015, p. 119クイーン・エリザベス艦上における午餐会
- ^ 昭和天皇実録三巻 2015, p. 120艦内御巡覧
- ^ 阿部 & 長谷川 2016, pp. 8–11.
- ^ a b c Wright 2016, p. 21.
- ^ a b 阿部 & 長谷川 2016, p. 11.
- ^ a b c 宮田 2016, p. 40.
- ^ 足柄派遣 2009, pp. 10–11(原本50-51頁)(4)秩父宮
- ^ 足柄派遣 2009, pp. 13–14(原本53-54頁)(2)観艦式
- ^ 佐藤 2016, p. 104.
- ^ a b 佐藤 2016, p. 105.
- ^ Wright 2016, p. 22.
- ^ a b c Wright 2016, p. 23.
- ^ a b Wright 2016, p. 24.
- ^ 宮永 2016, p. 27.
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- 2 クイーン・エリザベス (戦艦)の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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