オペラ オペラビジネスの変化

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オペラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 04:12 UTC 版)

オペラビジネスの変化

昔は移動に時間がかかり自由に往来できなかったので、歌劇場と歌手が契約すると、その歌劇場で歌うのが原則だった[6]マーラーウィーン国立歌劇場に登場した当時は、同じ演目の舞台で、歌手Aはイタリア語、歌手Bはドイツ語、歌手Cはフランス語で歌う(それぞれの歌手の母国語)で歌う、といったことがまかり通っていた[7]。 スター歌手中心のオペラから、マーラーはオペラそのものを生かす歌手の配役に改革していき、聴衆も彼を支持していった[8]。 マーラーは序曲を含むオペラ上演中の客席入場を禁じた。それまでの歌劇場は上流階級の社交場で、ドレスでロビーをいろどって開演時間を過ぎて客席に着く事が多かった[9]。 マーラーは原語主義を導入していった[10]カラヤン以後、字幕付き原語上演が主流になり[11]、ジェット旅客機などの交通機関が発達すると、世界のトップ歌手は劇場専属になるより有力な音楽エージェントと契約し、世界中の歌劇場にメインキャストで出演する為にジェット機で飛び回るようになり、歌劇場のレパートリーシステムは綻びた[12]。 歌劇場専属は中堅歌手が主流になっている[13]

近年のオペラをめぐる各国の状況

ドイツ語圏

バイエルン国立歌劇場
ベルリン・コーミッシェ・オーパー
ヴィーナー・オーパンバル

現在、ドイツはカンパニーを持つ歌劇場だけで全国80箇所を擁し、次点イタリアの3倍の上演数を誇る(オーストリアとスイスの同言語圏を合算するとさらに膨れ上がる)、世界随一のオペラ大国である。しかも、各歌劇場のカンパニーは大規模なものが多く、フランス、アメリカ、イギリスには各一箇所、イタリアにも一桁の歌劇場にしかない四管編成常備のフルオーケストラを三十以上の歌劇場が擁している。

歌手たちは膨大な歌曲や宗教音楽を併せてレパートリーとすることが多く、ドイツ圏出身者にとどまらず、歴史的に縁の深い中欧・東欧系、言語的に親和性の高い(同時にメジャーな自国語オペラに乏しい)北欧、英米系のドイツ語歌手を多く育てている(これに対し南欧や中南米の人材は比較的イタリア志向が強い)。ヴァーグナー歌手として鳴らしたレジーヌ・クレスパンフランス語版英語版らフランス人のドイツオペラ歌手も少なくなく、イタリア人もさすがにドイツオペラを得意とする人材は多くないものの、イタリアオペラ要員として滞独する歌手が目立つ。いわばドイツ圏は世界中のオペラ人材の集結地となっており、合唱団員や管弦楽団員も含め日本人の滞在も少なくない。20世紀以降はこのようにオペラ市場におけるドイツの独占化が進んだこともあり、18世紀とは逆にメノッティシノーポリらイタリア出身の作曲家がドイツ語オペラを執筆するケースも多くなっている。

イタリア

歌劇場の数はドイツに次ぎ、オペラ発祥の地の面目を保っているが、スタジオーネ・システム主流の国柄もあって上演数は少なく、管弦楽団や合唱団などカンパニーを全く持たない建物だけの施設も少なくない。特に財政難による経営不安定化が長年全土を覆っており、2015年にはローマ歌劇場がいったん専属者全員の解雇を発表するという衝撃的な事態も発生した。

2023年、イタリアのオペラ歌唱の慣習はユネスコ無形文化遺産に登録された[14]

フランス

パリ・オペラ・ガルニエ

フランスでは戦後しばらくは政府の補助削減などで大きく低迷していた時期もあるが、現在はパリ・オペラ座リヨン歌劇場などを中心にかなり活発な上演状況を呈している。フランスオペラが得意なのは当然として、イタリア、ドイツの両オペラ大国に等距離を保ち、どちらの作品でも違和感の少ない上演を行えるのが強みである。ただ、ドイツ人やイタリア人のようにフランス人オペラ歌手が自国語のみで国際的に活躍することは難しく、ジェラール・スゼー、レジーヌ・クレスパン、ナタリー・デセイら、大歌手の多くはドイツ語歌唱にも長けている。

スペイン語圏

言語的に親和性のあるイタリアオペラを中心に歌手を豊富に輩出しており、特に近年のテノール歌手においては南米のスペイン語圏を併せるとイタリア人を上回る勢いである。スペインでの上演もマドリード王立劇場リセウ大劇場などを中心にかなり盛んであり、南米でもブエノスアイレスのコロン劇場などは建物の豪華さで有名である。ただし、ファリャ作品やサルスエラなどのスペイン語オペラは諸外国で浸透しているとは言い難い。

イギリス

ロイヤル・オペラ・ハウスは長い歴史を持ちよく知られている存在である。英語によるオペラ上演は、この言語の世界に占める勢力とは比べ物にならないほど極少な状態だが、イングリッシュ・ナショナル・オペラ(ロンドン)は英語による訳詞上演主義を貫いている。

アメリカ

メトロポリタン歌劇場内部

ロバート・ターンブル『世界のオペラハウス』(音楽之友社1989)によると、アメリカ合衆国で常設歌劇場としての公演回数が記されているのはメトロポリタン歌劇場ニューヨーク・シティ・オペラシカゴ・リリック・オペラサンフランシスコ・オペラの4箇所程度であり、他は公演数が年間十数回と音楽祭程度の規模しか上演が行われておらず、人口規模や国土面積に比してオペラ受容は盛んとはいえない。このうちニューヨーク・シティ・オペラは2014年に一度破産し、その後は後者のカテゴリに属する状態としてしか(2017~2018年シーズンは公演数24日間)活動再開できていない。メトロポリタン歌劇場は舞台装置と歌手の顔ぶれの豪華さにより、欧州トップクラスの歌劇場に伍する存在感を示している。

日本での歴史

日本における最も古いオペラ上演としては、江戸時代の1820年に長崎の出島エジーディオ・ロムアルド・ドゥーニのフランス語オペラ・コミック二人の猟師とミルク売り娘フランス語版』がオランダ人によって上演された記録がある[15]

明治時代に入り、1875年、アジアツアーをしていた Maria Palmieri(1840 - 1890)と妹の Alice Persiani が日本に立ち寄り、横浜のゲーテ座で9月13日から10月7日にかけて4回、東京では蓬莱社(10月2日)、工学寮小学館(10月9日)、皇居(10月中旬以降)、第一国立銀行浜御殿で衣装と演技付きのオペラ歌唱コンサートを行った[16]。同1875年にはアルト歌手のダーリヤ・レオーノヴァロシア語版も来日している。レオーノヴァの公演は10月29日と11月10日に横浜町会所で催された[17]。舞台演出を伴った歌劇としてのオペラ上演は1894年11月24日東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)奏楽堂で、オーストリア=ハンガリー大使館職員により『ファウスト』第1幕が上演され、これが現在日本で行われているオペラの原点となった。管弦楽は宮内省楽部、合唱は音楽学校生であった。

さらに1903年、東京音楽学校・東京帝国大学の教師らの指導の下に、グルックの『オルフェウス(オルフェオとエウリディーチェ)』が上演された[18]。これは1902年に東京音楽学校・東京帝大生が中心に結成した歌劇研究会がおこなった。ノエル・ペリー指揮、ピアノ伴奏ケーベル、洋風の書割は山本芳翠の指揮で門弟が描き、柴田環・吉川やま他が出演した。

そして1911年3月1日に開場した帝国劇場に8月25日歌劇部(のち1914年5月に洋劇部と改称)が併設され、ここでオペラの小規模な上演が行われるようになった。第1回公演は1912年2月、杉谷代水作詞・ユンケル作曲の『熊野』。注目すべきことに、この時代すでに日本人による創作オペラの作曲と上演が行われていた。

この時代の日本人によるオペラには、東儀鉄笛(1869年 - 1925年)の『常闇』(1906年、台本:坪内逍遥)や、小松耕輔(1884年 - 1966年)の『羽衣』(1906年6月2日、台本:小林愛雄。神田YMCAで、楽苑会の第1回公演。楽苑会は1906年5月に発足し、東西音楽および歌劇の研究・保存・創作演奏を目的とし、小松・山田源一郎が中心であった)等がある。『常闇』の台本を書いた坪内逍遥は、1904年に『新楽劇論』を著し、その中でヴァーグナーに対抗して、日本の古典演劇や舞踊を取り入れた日本独自の「国民楽劇」の樹立を主張していた。

帝劇オペラは、「帝国劇場」という名前ではありながら国営ではなく株式会社であったため、やがて財政難から上演の継続が困難となり、1916年5月に帝劇洋劇部は解散となる。この時期に来日して洋劇部の指揮者を務めていたローシー(ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー)は自腹を切ってオペレッタ劇場「ローヤル館」を開設・運営、1916年10月1日『天国と地獄』を上演、以下ぞくぞくと喜歌劇を上演するも1年と持たず、ローシーは日本を去る。

その後、大正期から当時随一の歓楽街であった東京・浅草で、浅草オペラとして知られる公演が行われるようになり、様々なオペラ劇団による公演が行われてオペラの大衆化に貢献した。この浅草オペラも1923年関東大震災による劇場の焼失とともに衰退し、1925年には消滅した。

著名な喜劇人の榎本健一(エノケン)は浅草オペラにおいて活躍しており、彼のその後の音楽性にあふれた軽妙かつ活動的な芸風は、浅草オペラの経験によるものと評されている。

1932年にヨーロッパで活躍していたテノール歌手の藤原義江が帰国すると、藤原歌劇団の前身となる「東京オペラ・カムパニー」を設立し、『ラ・ボエーム』、『リゴレット』、『トスカ』などの本格的公演を行う。1939年には「藤原歌劇団」となり、1942年には『ローエングリン』を上演している。藤原歌劇団はその後現在に至るまで盛んな活動を続けている。

また、1940年には山田耕筰(1886年 - 1965年)の代表作『黒船』が初演されている。一方、永井荷風はフランス留学時にオペラに親炙したこともあり、オペラを日本に積極的に紹介していたが、その成果として1939年、菅原明朗作曲によるオペラ『葛飾情話』を創作している。

第二次世界大戦後の1952年には、東京音楽学校の出身者たちによって二期会が設立され、以後、藤原歌劇団と共に戦後の日本オペラの中心的存在として、欧米の歌劇場に肩を並べるような本格的なオペラ上演の活動を展開していくことになる。また、二期会の設立と同じ1952年に、團伊玖磨(1924年 - 2001年)の『夕鶴』が初演され、以後日本の人気オペラとなり上演が重ねられた。

1956年に第1回イタリア歌劇団公演がNHKの招きで東京宝塚劇場で公演された。この公演は引っ越し公演ではなく主要歌手や演出家などのスタッフのみがイタリア人で、管弦楽団や合唱や舞台美術は日本人がイタリア人に教えを受けるものだったが、海外渡航が難しく、円の力が弱い時代に、本場のオペラを見ることで日本のオペラの実力アップにつながった。当初オペラの劇場は日比谷公会堂を予定していたが、『アイーダ』の巨大な舞台美術を置けないことから東京宝塚劇場になった[19]

引っ越し公演の最初となったのは1963年のベルリン・ドイツ・オペラである。いきなり本場の一流歌劇場、しかもカール・ベームロリン・マゼールという巨匠と新鋭に率いられての豪華な顔触れはやはり大きなインパクトを持って迎えられた。その後、1970年代に入ると同様な引っ越し公演が相次ぎ、入れ替わるようにイタリア歌劇団公演は役割を終えることになる。

その後、東京室内歌劇場東京オペラ・プロデュースといったその他のオペラ団体も生まれたが、上記の二期会、藤原歌劇団を含め専用の劇場を持っている団体はない。

1997年には日本で最初のオペラ専用の歌劇場である新国立劇場が誕生したが、専属のオーケストラや歌手、音楽監督は存在せず、専属の合唱団があるのみであった(それも出演料都度払い制であり、レジデントではない)。2007年シーズンより若杉弘が初代音楽監督に就任し、2008年2月22日の『黒船』プレミエで音楽監督としてデビューした。

地方を含めた多くの都市には、地元のアマチュアの合唱団とプロのソリストやオーケストラが共演する「市民オペラ」と呼ばれるものが存在し、特に地方では地元の民話などを題材にした新作オペラが上演されることもある。しかし、各主要都市(ドイツ圏では人口10万以下の小都市ですら)が歌劇場を持ち、それぞれに専属のプロの歌手、オーケストラ、合唱団、音楽監督が存在するヨーロッパの状況とは、まだまだ大きな隔たりがあると言わざるを得ない。もっとも、日本にはヨーロッパほど自国団体のオペラ上演に対する大きな需要があるわけではない、という面も無視できない。日本の3倍近い人口を持つ米国も常設場歌劇場はわずかに3つ(2018年現在)であり、オペラの盛況は発祥の地であるヨーロッパ(特に大陸)に特有の現象ととらえることもできる。

日本語によるオペラの発声法は確立されていない、とする見解もある。日本語は母音が多いため重唱すると誰が何を言っているのか聞き取りにくく、様々な時代の漢語を取り込んだので同音異義語が多く、また、欧米語のオペラでは1音符に1単語をあてられる場合もあるのに比べ、「ん」以外は1文字が1音節となる日本語では1音符に1文字をあてる場合が多く、歌える言葉が少なくなるという問題がある。外国作品を日本人公演でも字幕付で原語上演するのは1980年代になって広まり、それまでの日本語公演に取って代わったともいわれている[20]。以前は全てのオペラがドイツ語で上演されていたヴィーン国立歌劇場カラヤンが音楽監督に就任してから原語上演が導入され[21]、その後、上演国の言語ではなく原語での上演が欧州全体に広がって以降、オペラの原語上演は世界的な傾向でもある。また近年では、「『日本語の正しい発声』なるものを仮構して実践する、というやり方ではなく、そうかといって、『正しいオペラの発声』なるものを無視した『悪い声』というわけでもなく」「日本語が明瞭で生き生きしていた」と評される日本語公演の例もあり[20]、「日本語オペラの発声法」のような独特の発声法を「確立する」という発想とは異なる視点も生まれている[20]

2002年、小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督になったが、歌詞にウィーン訛り、イタリア語訛りの出てくるリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』で、そうした訛りが聞き取れず、また別の機会に「この年になってこんなに勉強できるのは嬉しい」と語ったが、ウィーン人にとっては音楽監督とは彼から学び引っ張っていってもらいたい存在であるところに、日本語を母語とする現在の日本人の限界がある[22]、と野村三郎は述べている。

2016年2月、小沢征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮したラヴェルの『こどもと魔法』を収めたアルバム(2013年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本のライヴ録音)がグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した[23]


注釈

  1. ^ 「スタンダード・オペラ鑑賞ブック」全5巻(音楽之友社1998)、「オペラ・ガイドブック」(成美堂出版2008)、堀内 修, 石戸谷 結子編「オペラ・ハンドブック」(三省堂2009)など、オペラをイタリアオペラとドイツオペラに分けて紹介した書籍は例外なくモーツァルト全作品を後者に入れている(それ以外は国別分類をしないか、古典派として国別とは別の枠を設けている)。また、武田好「イタリアオペラに行こう」(2010年日本放送出版協会)、「イタリアの都市とオペラ」(2015年水曜社)、河野典子「イタリア・オペラ・ガイド」(星雲社2017)など、イタリアオペラ入門書の多くはモーツァルトには触れていない。

出典

  1. ^ 松田 亜有子『クラシック名曲全史 ビジネスに効く世界の教養』ダイヤモンド社、2019年10月3日、39頁。ISBN 9784478109212 
  2. ^ 水谷 彰良「新イタリア・オペラ史」音楽之友社、2015年、162ページ。本書はイタリア語で書かれたオペラはイタリアオペラと呼ぶべきという主張からモーツァルトにも筆を割いている。
  3. ^ 季刊誌「OPERA」の欧州歌劇場上演スケジュール、雑誌「音楽の友」の海外ニュースなど
  4. ^ 『オペラ史(下)』P476~477
  5. ^ dtv-Atlas zur Musik、Deutscher Taschenbuch Verlag、日本語訳は白水社から出ている。
  6. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」18ページ音楽之友社、2014年
  7. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、106ページ。
  8. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、107ページ。
  9. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」117ページ音楽之友社、2014年。
  10. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、129ページ。
  11. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、181ページ。
  12. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、30ページ。
  13. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年182ページ。
  14. ^ UNESCO - The practice of opera singing in Italy” (英語). ich.unesco.org. 2023年12月9日閲覧。
  15. ^ 江戸時代の日本で歌われたオランダ歌曲 - International Association of Music Libraries, Archives and Documentation Centres Japanese Branch
  16. ^ GIOVANNI VITTORIO ROSI'S MUSICAL THEATRE:OPERA, OPERETTA, AND THE WESTERNISATION OF MODERN JAPAN1 p.9
  17. ^ 増井 1984, pp. 18–21, 二人の世界的プリマ・ドンナが続いて来日した.
  18. ^ 増井 1984, pp. 100–113, 第2章第1節. 明治三十六年の「オルフェウス」上演.
  19. ^ 2018年1月6日23時NHKEテレ放送ETV特集シリーズよみがえるアーカイブ第1回「日本とイタリア」
  20. ^ a b c 日本(語)のオペラと「不気味の谷」
  21. ^ イルデブランド・ピッツェッティ歌劇『大聖堂の殺人』カラヤン指揮、ヴィーン国立歌劇場によるCD(POCG-10096/7)の解説書、6、7頁。
  22. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、187、188ページ。
  23. ^ “小澤征爾さんに米グラミー賞=長野でのオペラ公演、渡辺さんは及ばず”. 時事ドットコム. (2016年2月16日). オリジナルの2016年2月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160224084216/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016021600087 2016年2月16日閲覧。 
  24. ^ The History of the Opera Dress Code


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