アンドレ・ジッド アンドレ・ジッドの概要

アンドレ・ジッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 02:01 UTC 版)

アンドレ・ジッド
André Gide
誕生 アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド
André Paul Guillaume Gide
1869年11月22日
フランス帝国パリ
死没 (1951-02-19) 1951年2月19日(81歳没)
フランスパリ
職業 作家
国籍 フランス
代表作 『背徳者』(1902年)
狭き門』(1909年)
『法王庁の抜け穴』(1914年)
田園交響楽』(1919年)
贋金つくり』(1925年)
主な受賞歴 ノーベル文学賞1947年
ウィキポータル 文学
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1947年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:人間の問題や状況を、真の大胆不敵な愛と鋭い心理洞察力で表現した、包括的で芸術的に重要な著作に対して

文壇誌『新フランス評論(NRF)』創刊者の一人。『日記』は半世紀以上書かれ、フランス日記文学を代表する作品である。

人間の自由とキリスト教的モラルの対立を主題にした小説を多く書いた。幼時に受けた厳格な宗教の教育と性的な欲求の矛盾が、その根底にある。また文芸批評家としても活躍。評論に『ドストエフスキー』、小説に『背徳者』『狭き門』『田園交響楽』などがある。

生涯と作品

生い立ち

壮年時代(1920年)

1869年パリ6区メデシス街に生まれる。父ジャン・ポール・ギヨーム・ジッドは南仏ユゼス出身でプロテスタントの家系、パリ大学法学部教授をつとめた。母ジュリエットは北仏ルーアン出身の裕福な織物業者ロンドー氏の娘。叔父は経済学者のシャルル・ジッド。少年期はたびたびユゼス、ルーアン、ラ・ロックの別荘などを訪れた。6歳頃からピアノを習い始め、生涯の趣味とした。8歳の時にアルザス学院に入学。品行不良(自慰の習慣)のため一次停学、病弱のために休校して親戚の家などで保養し、10歳の時にアルザス学院に復学。11歳の時に父が亡くなり、母、伯母、家庭教師によって育てられる。またアルザス学院を退学し、療養のために各地の保養地を転々としたのちにパリに戻る。この頃アンリ・フレデリック・アミエルゴーティエハイネを愛読する。14歳の時にアルザス学院再入学するが3カ月で退学。17歳の時にアルザス学院の修辞クラスに入り、ピエール・ルイスと知り合い文学的友情で結ばれる。

1888年にアンリ4世校の哲学学級に転校。レオン・ブルムと知り合い、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌の編集を手伝う。バカロレアに合格するが、文学に専念するために大学進学はやめる。1890年にルイスを通じてポール・ヴァレリーと知り合い、母方の従姉マドレーヌ・エマニュアルへの思いを主題にした『アンドレ・ワルテルの手記』を執筆し、翌年自費出版。やがてステファヌ・マラルメの「火曜会」に出入りするようになる。『アンドレ・ワルテルの手記』はマラルメから絶賛され、その後も象徴主義の影響が色濃い作品を発表する。またオスカー・ワイルドとも知り合う。

北アフリカ

1892年に北仏のナンシーで兵役に就くが肺結核でまもなく除隊。 1893年、親友のポール・アルベール・ローランスと北アフリカ(アルジェリアチュニジア)を旅行。以後たびたび同地へ赴き、ワイルドとアルフレッド・ダグラス卿にも邂逅、娼婦との交流や同性愛を経験する。この一連の体験がキリスト教的な束縛からの脱却による文学者としての転機となった。

レシとソチ

1895年にマドレーヌと結婚。同年『パリュード』を発表し、これが象徴主義との実質的な決別となる。1897年、『地の糧』を発表。『地の糧』は出版当時はほとんど世評にものぼらなかったが、20年後に新しい青年層に注目され、広く認められるようになった。1902年の『背徳者』においては、生の価値と快楽に目覚め、既成道徳から背をそむけてゆく男の悲劇を描く。この時期の作品はナチュリスムはと呼ばれる流れに位置づけられた。

1908年に『新フランス評論(NRF)』の創刊に参加するが、1号で中断。翌年再刊し、過剰な神秘主義に陥るヒロインの愛と悲劇を描く『狭き門』を連載、一般読者にも評価を得た。1912年にマルセル・プルーストから『スワン家の方へ』のNRFからの出版を依頼されたが拒否、その後読み直してプルーストに謝罪し、『失われた時を求めて』の2巻以降はNRFから出版されることになった。

1914年の『法王庁の抜け穴フランス語版』では、ローマ法王フリーメイソンを皮肉ったストーリー設定の下、動機のない殺人(「無償の行為」)を遂行するラフカディオという主人公を登場させた。なお、ジッドは『背徳者』、『狭き門』、『田園交響楽』(1919年)などの一人称語り手による単線的な筋の作品を「レシ(物語)」、『パリュードフランス語版』、『鎖を離れたプロメテ』(1899)、『法王庁の抜け穴』などの批判的・諧謔的な作品を「ソチ(茶番劇)」と分類して、「ロマン(小説)」と区別している。

ロマン

32歳下の愛人マルク・アレグレと(1920年)。マルクはジッドのコンゴ旅行に同行し、その記録映画制作をきっかけに映画界へ。実弟のイヴ・アレグレも映画監督。ジッドはバイセクシャルのマルクに子を持たせ、その子の代父になることを熱望した[1]

1917年頃、家庭教師だったエリ・アレグレ牧師の息子で16歳のマルクと関係を持つようになる。1926年、『贋金つくり』(『贋金つかい』とも訳される)を発表。これはジッドが唯一「ロマン」として認めた代表作であり、ドストエフスキーやイギリス小説(フィールディングディケンズスティーブンソンなど)から学んだ手法をとりまぜた作品である。作中にエドゥワールという小説家が登場し、作品と同名の小説(「贋金づくり」)を書くという設定になっており、いわゆる「小説の小説」になっている。このようなメタ的な手法(「紋中紋」)は後のヌーヴォー・ロマンの作家たちに多大な影響を与えたと言われる。

作品には、生涯の妻であったマドレーヌの影響が強く、『背徳者』、『狭き門』などに彼女の影を持った女性キャラクターが登場している。しかしながら、マドレーヌのことを愛しながら性交渉をもたず(いわゆる「白い結婚」)、マルク・アレグレとの同性愛関係により結婚生活は破綻をきたしていたと言われる。このアレグレとの関係は、自伝的な特色がある『日記』に詳しく書かれている。また、彼にはエリザベート・ヴァン・リセルベルグ(テオ・ファン・レイセルベルヘの娘)とのあいだに1923年、一女カトリーヌをもうけている[2]。ジッドはエリザベートに「私はただ一人の女性しか真に愛すことがないだろうし、若い男にしか真の欲望をもてない。しかし君に子供がいないのを見るのは忍び難く、また、私自身に子供がいないのも耐え難い」と書き送っている。また、『コリドン』(1924年)では男色を擁護し、つづく自伝の『一粒の麦もし死なずば』(1926年)で自らの同性愛的性向をカミング・アウトした。

中央アフリカ

1926年7月から1927年5月にかけて、フランス政府からの依頼による調査のために、フランス領赤道アフリカフランス領コンゴ(現コンゴ共和国)、ウバンギ・シャリ(現中央アフリカ共和国)、一時チャドに滞在した後カメルーンを視察したのちフランスへ帰国して『コンゴ紀行フランス語版』(1927年)と『チャドからの帰還フランス語版-続コンゴ紀行』(1928年)を発表した。『コンゴ紀行』及び『チャドからの帰還-続コンゴ紀行』では、フランスの植民地支配のあり方について疑義を唱え、当時の社会に波紋を呼び起こした。1920代後半から1930年代にかけ知識人としてのアンガージュマン(政治参加)が目立つようになる。

ロシア

1930年代に入ってからは、ソヴィエトへの共感を口にし始め、共産主義的傾向を強める。しかし1936年、ソビエト連邦作家同盟の招待を受け、重体であったマクシム・ゴーリキーを見舞うために同国を訪れたジッドは、約2ヶ月間の滞在ののち『ソヴィエト紀行フランス語版』でソ連の実態を明らかにしてスターリン体制に反対する姿勢を鮮明にし、左派から猛批判を受ける。ジッドは翌年の『ソヴィエト紀行修正』(1937年)で前著に対する批判には反論している。『ソヴィエト紀行』は10万部以上を売上げ、ソ連批判の書物としては最大の売り上げとなる。その後は反ナチ・反ファシズムを貫き、第二次大戦前には反戦・反ファシズム世界青年会議名誉議長を務めた。

晩年

1938年、マドレーヌが亡くなると深い孤独感に陥り、『今や彼女は汝の中にあり』を書く。1939年、戦禍を避けチュニスに移住。北アフリカを点々としていたが、1945年にパリに戻る。

1945年ゲーテ賞授与。1947年オックスフォード大学から名誉博士号、同年ノーベル文学賞受賞。

1951年パリの自宅にて肺充血により死去。その著作は死後、ローマ教皇庁により、禁書に指定された。

影響

日本では、和気津次郎による紹介を皮きりに、堀口大學山内義雄などの手によって知られるようになった。小説家・石川淳による批評文もあり、石川はジッドの小説を翻訳してもいる。また、ジッドの著作は当時の文人たちに多大な影響を与えた。例えば横光利一の純粋小説論はジッドの『贋金つくり』が影響していると言われている。


  1. ^ アンドレ・ジッドと「ホモペアレント性」 森井良、早稲田大学『文学研究科紀要 第64輯』(2018年度)
  2. ^ Fondation Catherine Gide


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