第16師団長から死去までとは? わかりやすく解説

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第16師団長から死去まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:20 UTC 版)

中島今朝吾」の記事における「第16師団長から死去まで」の解説

8月2日第16師団長兼中部防衛司令官26日まで)となる。支那事変勃発により、9月7日北支那方面軍司令官寺内寿一大将麾下第2軍司令官西尾寿造中将隷属として大阪出港し9月11日中華民国大沽上陸以後華北作戦を行う。 11月になり、中支那方面軍司令官松井石根大将麾下上海派遣軍司令官松井石根大将兼務)に隷属する上記宇垣大将組閣一件遺恨もあり、両者の仲は大変悪かった以後南京攻略戦参加する. 12月13日南京占領今朝吾も前線出て少し負傷する戦後ジャーナリスト木村 久邇典中島評伝をまとめるために遺族取材をしていた際に提供を受けた日記には、第16師団長として南京攻略戦参加した時に、本攻略戦において捕虜取らない方針であること、隷下の部隊それぞれ捕虜を千や超える単位処理したものがあること、彼自身七、八千人捕虜まとめて「片付くる」予定だが、それには「大なる壕を要し中々見当らず」代案考えていること、刀の使い手が来たのでたまたまいた捕虜7人を日本刀試し斬り使ったこと等の記述がある。 詳細は「南京事件論争#中島今朝吾日記捕虜ハセヌ方針」」を参照 松井大将の決めた本来の17日入城式には参加しないつもりでいたところ参謀からの進言があったとして、15日自分らだけの入城式を行い、これは一部メディアにも魁としての開催として報じられた。南京での掠奪エスカレートしていたが、師団長であった中島自身幕僚らを使って積極的に組織的に実行蒋介石邸宅などにあった美術品等の宝物類を略奪運び出した松井大将は南京から運び出される荷物中身注意するよう上海から指示出したようだが、この指示がどの程度実行されたか不明である。後に松井中島注意したが、中島しらばくれたと自ら日記書いている。戦後田中隆吉国際検事局尋問証言したところによれば、本人満州第4軍司令官であった1938年近く、これらの財物師団偕行社送ったことが発覚スキャンダルとなり、本人司令官解任(さらに、その後暫くして予備役編入)の原因となっている。本人日記には1月9日から同月19日までの記載がなく、そのページ抜き取った跡もないため、それらが宝物類の掠奪専念していた日ではないかとする説がある。その一方で自身管轄地域で他の部隊士官兵士掠奪行ったことについては、日記には「将兵らが自分管轄地域で物を探す分には、せめて戦場心理現れとして背徳とも思わぬが、他人管轄地域で、しかも司令部標識掲げている建物で、平気で盗みを働くのは余程下等だ」と書いている。自分宿舎にした蒋介石の元官舎が既に略奪などで荒れ果てていたので現地一流ホテル家具持ち込み、それに対す松井大将の注意には「国を取り人命を取るのに家具位を師団持ち帰る位が何かあらん」と突っぱねたと日記記している。 翌1938年昭和13年1月今朝吾とは同郷で仲が良かった陸軍省人事局阿南惟幾少将南京視察にやってきた。そこで阿南松井司令官から今朝吾の統率非難する話を聞かされている。また、阿南この年12月22日行われた陸軍省局長会報出席し、「中島師団婦人方面殺人、不軍紀行為は、国民的道義心廃退戦況悲惨より来るものにして、言語に絶するものあり」とメモ記している。 1938年昭和13年1月、再び第2軍隷属となって華北進出する5月には徐州会戦が行われ、敗走続け国民党軍を追う。6月9日国民党軍日本軍の手から逃れるために黄河堤防爆破して決壊させ、大洪水発生させた。これにより第16師団その他の部隊進撃止まる6月24日第2軍司令官東久邇宮稔彦王中将とその上官である北支那方面軍司令官寺内寿一大将通じて今朝吾は大本営和平訴え意見具申建白書提出する。と同時に因縁の相手である宇垣一成外務大臣にも従軍僧村上独潭を通じて建白書提出する。その意見書要旨は、「戈を収めて一路ただちに皇道国家建設に進むべきだ」と主張し、その理由として、 一、中国軍わが軍決戦するを欲していない。二、これを追撃することは、領土欲の表われ批判されかねない。 三、黄河新流路ができたのを機に、それを自然の休戦ラインにすべきだ。 四、ナポレオンロシア侵攻失敗教訓とすべきだ。 というものである。しかし、大本営宛てのものは寺内大将もしくは大本営参謀握りつぶし宇垣外相宛てのものは宇垣外務大臣辞任したので渡されることはなかった。 7月上旬には支那事変への疑問和平綴った意見具申捕遺」をしたためたが、結局提出に終わる。 7月15日第4軍司令官任じられ満州北部防衛に当たる。ちなみに参謀長牟田口廉也少将である。 1938年暮れごろ、南京攻略直後略奪していた蒋介石邸の美術品類を日本持ちこもうとして発覚陸軍大きな問題となる。翌1月兵務課長憲兵元締めとなった田中隆吉は、彼によれば南京での残虐事件について中島含めた責任者軍法会議にかけることを主張したものの、反対強く容認されなかったという。1939年昭和14年8月1日参謀本部付。対支戦での功績から天皇から恩賜品や陪席の栄を賜る9月28日待命9月30日、ついに予備役編入される以降1年か月の間、北京事務所開いて中国の実情調べる。 1940年昭和15年6月22日, 1941年昭和16年5月14日7月5日三通事変理方案をしたため政府と軍を批判する12月8日太平洋戦争勃発する同月末、皇国職域勤労奉公総裁就任する1942年昭和17年4月母校である大分県宇佐郡八幡小学校講演行った大分県内務部長大分県警察部特別高等警察課長もいるなかで今朝吾は、「このぶんでは、日本はきっと負ける」と発言して会場騒然となり、警察でも問題となった。しかし、今朝吾が陸軍中将ということやむなく不問付された。 1945年昭和20年10月28日長野県佐久郡御代田町療養所肝硬変尿毒症により死去64歳没。その時状況は「臨終迎えた同時にアメリカ軍MP戦犯容疑取り調べ訪れ部屋ドアノックした。」 東京都豊島区椎名町自宅での葬儀には、梅津美治郎駆け付けた

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