第16師団長から死去まで
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「中島今朝吾」の記事における「第16師団長から死去まで」の解説
8月2日、第16師団長兼中部防衛司令官(26日まで)となる。支那事変の勃発により、9月7日、北支那方面軍(司令官寺内寿一大将)麾下第2軍(司令官西尾寿造中将)隷属として大阪を出港し、9月11日に中華民国大沽に上陸。以後華北で作戦を行う。 11月になり、中支那方面軍(司令官松井石根大将)麾下上海派遣軍(司令官松井石根大将兼務)に隷属する。上記の宇垣大将組閣の一件の遺恨もあり、両者の仲は大変悪かった。以後、南京攻略戦に参加する. 12月13日、南京占領。今朝吾も前線に出て少し負傷する。 戦後、ジャーナリストの木村 久邇典が中島の評伝をまとめるために遺族に取材をしていた際に提供を受けた日記には、第16師団長として南京攻略戦に参加した時に、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、隷下の部隊がそれぞれ捕虜を千や万を超える単位で処理したものがあること、彼自身も七、八千人の捕虜をまとめて「片付くる」予定だが、それには「大なる壕を要し中々見当らず」代案を考えていること、刀の使い手が来たのでたまたまいた捕虜7人を日本刀の試し斬りに使ったこと等の記述がある。 詳細は「南京事件論争#中島今朝吾日記「捕虜ハセヌ方針」」を参照 松井大将の決めた本来の17日の入城式には参加しないつもりでいたところ参謀からの進言があったとして、15日に自分らだけの入城式を行い、これは一部メディアにも魁としての開催として報じられた。南京での掠奪がエスカレートしていたが、師団長であった中島自身も幕僚らを使って積極的に組織的に実行、蒋介石の邸宅などにあった美術品等の宝物類を略奪、運び出した。松井大将は南京から運び出される荷物の中身に注意するよう上海から指示を出したようだが、この指示がどの程度実行されたか不明である。後に松井は中島を注意したが、中島はしらばくれたと自ら日記に書いている。戦後に田中隆吉が国際検事局の尋問に証言したところによれば、本人が満州第4軍司令官であった1938年末近く、これらの財物を師団偕行社に送ったことが発覚、スキャンダルとなり、本人の司令官解任(さらに、その後暫くしての予備役編入)の原因となっている。本人の日記には1月9日から同月19日までの記載がなく、そのページを抜き取った跡もないため、それらが宝物類の掠奪に専念していた日ではないかとする説がある。その一方で、自身の管轄地域で他の部隊の士官や兵士が掠奪を行ったことについては、日記には「将兵らが自分の管轄地域で物を探す分には、せめて戦場心理の現れとして背徳とも思わぬが、他人の管轄地域で、しかも司令部の標識を掲げている建物で、平気で盗みを働くのは余程下等だ」と書いている。自分の宿舎にした蒋介石の元官舎が既に略奪などで荒れ果てていたので現地一流ホテルの家具を持ち込み、それに対する松井大将の注意には「国を取り人命を取るのに家具位を師団が持ち帰る位が何かあらん」と突っぱねたと日記に記している。 翌1938年(昭和13年)1月、今朝吾とは同郷で仲が良かった陸軍省人事局長阿南惟幾少将が南京に視察にやってきた。そこで阿南は松井司令官から今朝吾の統率を非難する話を聞かされている。また、阿南はこの年の12月22日に行われた陸軍省局長会報に出席し、「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして、言語に絶するものあり」とメモに記している。 1938年(昭和13年)1月、再び第2軍の隷属となって華北に進出する。5月には徐州会戦が行われ、敗走を続ける国民党軍を追う。6月9日、国民党軍が日本軍の手から逃れるために黄河の堤防を爆破して決壊させ、大洪水を発生させた。これにより第16師団その他の部隊の進撃が止まる。 6月24日、第2軍司令官東久邇宮稔彦王中将とその上官である北支那方面軍司令官寺内寿一大将を通じて、今朝吾は大本営に和平を訴える意見具申の建白書を提出する。と同時に因縁の相手である宇垣一成外務大臣にも従軍僧村上独潭を通じて建白書を提出する。その意見書の要旨は、「戈を収めて一路ただちに皇道国家の建設に進むべきだ」と主張し、その理由として、 一、中国軍はわが軍と決戦するを欲していない。二、これを追撃することは、領土欲の表われと批判されかねない。 三、黄河の新流路ができたのを機に、それを自然の休戦ラインにすべきだ。 四、ナポレオンのロシア侵攻の失敗を教訓とすべきだ。 というものである。しかし、大本営宛てのものは寺内大将かもしくは大本営の参謀が握りつぶし、宇垣外相宛てのものは宇垣が外務大臣を辞任したので渡されることはなかった。 7月上旬には支那事変への疑問と和平を綴った「意見具申捕遺」をしたためたが、結局未提出に終わる。 7月15日、 第4軍司令官に任じられ満州北部の防衛に当たる。ちなみに参謀長は牟田口廉也少将である。 1938年暮れごろ、南京攻略直後に略奪していた蒋介石邸の美術品類を日本に持ちこもうとして発覚。陸軍で大きな問題となる。翌1月兵務課長(憲兵の元締め)となった田中隆吉は、彼によれば南京での残虐事件について中島を含めた責任者を軍法会議にかけることを主張したものの、反対が強く、容認されなかったという。1939年(昭和14年)8月1日、参謀本部付。対支戦での功績から天皇から恩賜品や陪席の栄を賜る。9月28日、待命。9月30日、ついに予備役に編入される。 以降1年数か月の間、北京に事務所を開いて中国の実情を調べる。 1940年(昭和15年)6月22日, 1941年(昭和16年)5月14日、7月5日、三通の事変処理方案をしたためて政府と軍を批判する。 12月8日、太平洋戦争が勃発する。 同月末、皇国職域勤労奉公隊総裁に就任する。 1942年(昭和17年)4月、母校である大分県宇佐郡八幡小学校で講演を行った。大分県内務部長や大分県警察部特別高等警察課長もいるなかで今朝吾は、「このぶんでは、日本はきっと負ける」と発言して会場は騒然となり、警察でも問題となった。しかし、今朝吾が陸軍中将ということでやむなく不問に付された。 1945年(昭和20年)10月28日、長野県佐久郡御代田町の療養所で肝硬変と尿毒症により死去。64歳没。その時の状況は「臨終を迎えたと同時にアメリカ軍のMPが戦犯容疑の取り調べに訪れ、部屋のドアをノックした。」 東京都豊島区椎名町の自宅での葬儀には、梅津美治郎も駆け付けた。
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