りっ‐こう【立后】
読み方:りっこう
三后(皇后・皇太后・太皇太后)を正式に定めること。きさきだち。
皇后
立后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:36 UTC 版)
7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。保元2年(1157年)正月23日、姝子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。保元3年(1158年)2月3日、後白河帝は統子内親王の准母立后を行って政治基盤の強化に務めるが、8月11日に突然、守仁親王に譲位する(二条天皇)。これは「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった。ここに後白河院政派と二条親政派が形成される。ただし、二条帝はいまだ16歳で政治に未熟であり、後白河院の政治活動も引き続き認められたため、当初から両派の間に確執があったわけではなかった。 姝子内親王は婚姻後も統子内親王の三条高倉邸を訪れ、後白河院が譲位した直後の宇治御幸にも後白河院・統子内親王に同行した。平治元年(1159年)2月3日、後白河院の御所・高松殿に行啓し、21日に立后して中宮に冊立される(『山槐記』)。後白河院と二条帝は実の親子でありながら疎遠な関係にあり、後白河院は姝子と緊密な関係を築くことで影響力の確保を目指したと考えられる。二条帝も姝子の背後に父の影を感じていたと思われるが、表面上は何事もなく年も暮れようとしていた。 平治元年(1159年)12月9日、平治の乱が勃発する。25日夜、二条帝と姝子内親王は藤原信頼・源義朝が占拠していた大内裏を脱出して、平清盛の六波羅邸に遷幸した。翌26日に乱は鎮圧されるが大内裏の荒廃のため、29日、二条帝は清盛の警護により美福門院の八条殿に行幸する(『百錬抄』)。戦乱からの復興と体制の立て直しが緊急の課題であったが、翌永暦元年(1160年)から後白河院政派と二条親政派の亀裂は徐々に拡大していくことになる。
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立后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)
1926年(大正15年)12月25日、義父・大正天皇崩御により、義母・皇后節子は皇太后となり、摂政宮皇太子裕仁親王の第124代天皇践祚に伴い立后された。午前3時15分、宮中で掌典長が祭典を行うとともに、葉山御用邸で剣璽等渡御の儀が執り行われた。裕仁親王妃良子女王は第119代天皇・光格天皇の皇后(中宮)である欣子内親王(在位:1794年 - 1820年)以来の「皇族出身の皇后」となった。 昭和時代の新天皇・皇后は洋風の暮らしに慣れ、また良子皇后がすでに第2子を懐妊していたこともあり、引き続き赤坂離宮に居住し続けた。 1927年(昭和2年)9月10日、第二皇女(第2子)の久宮祐子内親王を出産するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭逝。香淳皇后は自ら死化粧を施し、昭和天皇も禁を破り通夜に出席した。皇后は悲しみから、久宮と同じ大きさの人形を作らせた。 同年9月28日、昭和天皇・香淳皇后は那須での静養後、いよいよ宮城(きゅうじょう、(皇居の当時の呼称)に住居を移転する。夫妻は慣例を破って、寝室を同室とした。 同年11月10日、即位の大礼が京都御所で執り行われた。なお、この際、京都府・三重県・奈良県を行啓して以降、御用邸での静養を除き、地方を視察することは長年にわたり無かった。 翌1929年(昭和4年)1月27日、静岡県熱海市で療養中の父久邇宮邦彦王の容体が急変し、良子皇后はお召し列車ではなく通常の列車で熱海別邸へ向かい、その臨終に立ち会った(55歳没)。 ローブ・デコルテ、第一ティアラに勲一等宝冠章(現:宝冠大綬章)を佩用した正装姿(1928年撮影)
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