稚松会とは? わかりやすく解説

稚松会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 16:18 UTC 版)

野田清 (海軍軍人)」の記事における「稚松会」の解説

野田は旧会津藩士族出身で父は野田寅之進である。野田家戊辰戦争後北海道へ移住した海軍将官となった野田は稚松会の評議員務めている。

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稚松会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:55 UTC 版)

町野武馬」の記事における「稚松会」の解説

町野は郷党育成熱意があり、稚松会理事務め若松自宅開放していた。なお陸同期西義一も同会の会員である。

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稚松会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:40 UTC 版)

松平保男」の記事における「稚松会」の解説

稚松会は1912年明治45年3月設立され1926年大正15年)に認可受けた財団法人である。会名の"稚"は会津藩本城があった"若松"を意味し、幼い大木となることを寓意して、後進成長願ったのである前身山川浩組織した軍人団話会」や渡部鼎組織した同志会」で、総裁には会津松平家当主戴く規定になっており、本部東京松平子爵邸に、支部若松設けた会員任意の会津藩出身者及び旧会津藩由緒のある陸海軍高等武官で、軍学校教官として在籍するものが委員務めていた。 会員月給100分の1(時期によって異動あり)を納め親睦を図るほか、会津中学喜多方中学在校生などから軍学校への志願者勧誘し受験対策を行うなど後進育成あたった。またこの学力増進策によって、旧制高校などへ進学するものもいた。設立時正規会員190余名である。軍学校への志願者が「ほぼ皆無」といわれたほど激減していた時期もあったが、1937年昭和12年12月時点軍学校在籍する将校生徒47名である。内訳は、出身中学会津中学31名、喜多方中学6名、その他は福島県外の中学出身で、在籍校は東京陸軍予科士官学校25名、陸軍士官学校本科15名、陸軍経理学校2名、海軍兵学校6名であった1945年昭和20年)の解散時における会員数は「約700名に達せり」である。 会員には旧斗南藩出身の者もいた。日本海海戦戦艦砲術長を務めた和田幸次郎や、第一次世界大戦第一南遣機関長務めた大沼龍太郎などである。ただし、直接出身地問わず入会資格有する人物のすべてが入会していたわけではない太平洋戦争期であれば師団長軍令部課長警備隊司令役職にあった中将少将大佐は非入会であり、この三名会津会にも加入していない。ただしその兄弟会津会や稚松会の会員である事例もあった。 なお各界立身した人物たちを中心に経済的な面から会を支え賛助員制度設けられていた。賛助員には上記池上石塚日下(義)、鈴木下坂辰野橋爪前田松江のほか、神戸海運業を営んだ佐藤勇太郎、会津会主要な役割担った澤全雄(大日本製糖技師長)、 鳥羽・伏見の戦い討死した大砲隊頭林権助安定白井五郎太夫の直系子孫である林権助白井新太郎や、避戦派の藩士であった河原善左衛門息子である河原勝治(日本郵船船長)、藩勘定頭であった赤羽治平息子である赤羽克己もいる。山田英夫会員かつ賛助員であった財団残余財産主として南満州鉄道社債で、会津中学喜多方中学後援会移管された。 ウィキメディア・コモンズには、稚松会に関連するカテゴリあります組織 総裁 - 松平保男 会長 - (設立時)出羽重遠、(認可時)柴五郎、(解散時)両角三郎 副会長 - (設立時)樋口喜吉、(認可時)下平英太郎、(解散時)常盤盛衛 若松支部長 - 斎藤清海兵28期。軍令部参謀海軍中佐評議員 - (設立時)山川健次郎飯沼関弥(会津松平家家宰飯沼貞吉の弟で、飯沼一省の父) 幹事 - (設立時)杉浦小八(工兵大佐)、赤羽佑之(航空兵大佐)、二村光三(海軍主計中佐)、福井重記など 委員 - 小林海軍教授海兵理科)、小松八四郎など 主な会員 (原則としてWikipedia記事立項されている人物のみを掲載する。) 元帥 畑俊六 大将 畑英太郎西義一 中将 芳賀栄次郎野口坤之鈴木一馬横山勇新妻雄井深健次佐藤勇助野田清高橋伊望樋口修一郎原田覚 少将 松江豊寿奥田重栄黒河内信次小山満雄武川寿輔石井常造秋月胤逸、日下操、佐藤直高山輝義三ツ木秀治柴平四郎野澤北地庄司巽簗瀬真琴平向九十九佐藤脩雪下勝美美濃部貞功鹿目善輔柏崎治(連合艦隊軍医長)、荒川信(連合艦隊主計長) 佐尉官 町野武馬藁谷勇三郎芳賀信政大塚寅雄、名越透、加藤丈夫(太平洋戦争開戦時参謀本部英米班長)、柴有時平石弁蔵花見侃(戦後陸将)、星半三郎片桐酉次郎国府尽平花見弘平折笠重康草刈英治相田俊二(海兵61期首席)、高畑辰雄 満州国陸軍中将 藤井重郎和田勁創設前または資料が残る1937年以降任官者など 松平容大森雅守佐藤房隆長谷川戍吉猪俣甚弥渋川善助角田秀松湯浅竹次郎美濃部正風間万年雪下熊之助深尾弘上崎辰次郎

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