神風候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
三木は林内閣の衆議院解散、いわゆる食い逃げ解散の報を御茶ノ水の床屋で聞き、総選挙立候補を決意したと伝えられている。三木は解散直前の17日に満30歳となり、当時の衆議院議員被選挙権を得たばかりであった。また、三木の衆議院議員立候補の経緯としては、衆議院解散のニュースを聞いた時点では立候補をするつもりは無かったが、解散直後に三木のところに徳島県出身の若者が訪ねてきて立候補を要請され、どうして自分が立候補できるだろうかと難色を示した三木に対して、手弁当で応援すると重ねて立候補をすすめる青年の熱意を前に、とりあえず徳島の選挙区事情を実見して決めることにしたのがきっかけであるとの話も伝わっている。 解散の翌日、三木は郷里徳島へと向かった。徳島ではまず長尾に立候補について相談した。長尾は『一生涯政治をやるか、やるなら政治家は金をためることを考えるな…大義名分に従い、闘争心が失せたらその時点で政治家を辞めよ、その覚悟はあるか?やれ』と、政治家となるための覚悟を三木に問うた上で立候補を勧めた。三木はこの時の長尾の忠告を『私自身の自問自答のようなものであった』と述べており、初回立候補時に政治倫理の確立に尽力し続けることになる三木の原点が見いだせる。そして長尾以外の友人からも出馬を勧められ、三木は出馬の決意を固めた。長尾との相談後、三木は実家の父母を訪ねて立候補の決意を伝え、立候補に必要な供託金の納入など手続きを依頼した上で、いったん東京に戻った。4月9日、父久吉は当時の徳島2区(板野郡、阿波郡、麻植郡、美馬郡、三好郡)への立候補を届け出た。同日三木は東京から当時徳島県にあった五つの新聞社に立候補声明を航空便で送り、翌10日には明治神宮、靖国神社に参拝して、『郷里の徳島二区から生涯代議士に打って出ること、これまでの多くの政治家が行ったような不浄、不純を行わないこと』を誓った後、徳島へと向かった。 三木が立候補した徳島2区は3人区であり、前職3人がいずれも立候補した。前職は57歳で当選4回の民政党所属の真鍋勝、72歳で当選5回、民政党の徳島県支部長を務める高島兵吉、そして57歳で当選8回、衆議院議長も務めた無所属の秋田清という有力候補揃いであり、立候補直前まで大学生であり衆議院議員の被選挙権を得たばかりで地方議員経験も無く、しかも徳商退学後永く徳島から離れて生活してきた三木は、当初圧倒的に不利であると予想された。 三木は無所属で立候補した。三木は隣の選挙区である徳島1区から当時5回当選していた政友会の生田和平を政治の師と仰いでいでおり、徳島2区には民政党の現職代議士が2名いたものの政友会の代議士が不在であったこともあって、まず政友会からの出馬が考えられた。また三木が長年在学していた明大は民政党の影響が強かったが、当時、既成政党に対する批判が強く、三木自身も既成政党に対する厳しい批判を持っていたため、無所属での立候補を決めたと考えられている。 圧倒的不利を予想された選挙戦で、三木はまずイメージ戦略を実行した。選挙活動開始時の4月初旬、日本全土は神風号の欧亜飛行新記録樹立の快挙に沸いていた。選挙戦のために徳島へ向かった三木は、大阪からは飛行機を用いて徳島入りした。当時まだ珍しかった飛行機を利用してのお国入りは、三木と神風号を結びつけることに繋がり、地元新聞は三木のことを神風号にちなんで神風候補と呼び、三木陣営もまた神風候補と名乗った。 選挙区情勢を詳細に分析した三木は、選挙事務所を板野郡板西町(現・板野町)に置くことにした。板西町は東西に長い徳島2区の東に寄っているが、板野郡は三木の故郷であり、また板野郡の南にある麻植郡、西側の阿波郡からは立候補者がいないため、各候補の競争地になると判断し、選挙事務所を置くのに最適と判断したためである。なお、開票結果は麻植郡、阿波郡は三木が1位、板野郡はもう一人の地元候補である高島に次いで2位となり、三木の読みは的中する。 実際の選挙戦ではまず長尾の実兄で、前県議の田所多喜二が遊説部長として陣頭指揮を取った。選挙区事情に精通した田所は『徳島県は若い政治家を育てよ!』と、三木を伴って選挙区中を回った。また在京、在米生活の中で知り合った知己を積極的に応援弁士として招請した。三木の応援に参加した人物には、在米中に知り合った早稲田大学教授の吉村正や、その教え子であった石田博英がいた。東京の大学教授や外国生活経験者の応援は、三木に他の候補には見られない若さと都会性、そして国際性を身につけた人物であることを有権者に認識させる手段であった。 三木は当時の政治情勢について、これまで政党は藩閥政治を打破した大きな功績を挙げてきたが、既成政党が腐敗して国民の信頼を裏切ったため、立憲世論の政治が衰退して官僚超然内閣が続くようになったと判断していた。そのため三木は無自覚議員をなくして議員の質を上げ、政党を浄化して立憲世論の政治を取り戻すべきであると主張し、選挙遊説の中でもまず既成政党の腐敗批判と政治浄化を強調した。同様の主張は当時しばしばなされていたもので、特段真新しい主張であったわけではないが、閉塞感に覆われていた当時、まだ30歳になったばかりの新人代議士候補が既成政党の腐敗を激しく批判し、政治浄化を唱える姿は選挙民に変化への期待をもたらした。また政党の浄化と議員の資質向上という主張は、最初の国政選挙時から唱えられていたものであるが、立候補した当時の情勢と、政党が結局軍部の暴走を押し止められなかったことへの反省から、三木終生のライフワークとなった。そして三木の議員一人ひとりの資質向上を目指す考え方は、真の言論の府として議会が機能していくことを目指しており、「政党政治を量の政治とし、所属議員の数が多ければそれでよし」とするような、政党は議会の多数派を占めさえすれば良いといったやり方を批判した。この点も後に三木が田中角栄の「数は力」という考え方に鋭い批判を向けたことに繋がっていく。 初回立候補に際して三木が唱えた具体的な政策としては、選挙広報に15項目に及ぶ政策が列挙されている。政策の冒頭にはまず「国体明徴」、「日本道徳の鼓吹と共産主義絶滅」、「祭政一致」という、当時の時代背景を如実に示すようなスローガンが並んでいる。続いて議会浄化と政党の革新による真の世論政治の実現、日本の必要による自由な世界進出、科学技術の振興、産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化など、後に三木が取り組み続けることになる政治課題の多くが列挙されていた。うち産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化という政治課題の重視は、終戦後国民協同党の書記長、次いで委員長など、協同主義を標榜する政党で要職を歴任することに繋がっていく。また三木の訴えた政策の特徴としては、選挙区である徳島2区に直接関わる政策よりも、全国的、そして国際関係に関する政策が目立つ点が挙げられる。 三木は、選挙戦は「主義政策よりも候補者の質の争い」になると考えた。そのため三木武夫という候補者の本質を有権者に徹底的に理解してもらう必要があるとして、広報のやり方、無料郵便の発送、演説会の日程や時間配分などを分析検討しながら選挙戦を進めた。4月13日に選挙戦が始まると、三木は徳島2区の各地で開催した演説会で既成政党への批判と政治浄化を中心とした選挙演説を行った。三木の最大の武器は言うまでもなく弁論であった。選挙戦が進むにつれて三木の選挙演説は評判を集め、大きな反響が現れるようになった。各演説会会場は大勢の人々が詰めかけ、三木陣営に多くの激励の手紙や電報、そして選挙費用の寄付が届けられた。選挙戦を通じて三木は他の候補者には無い若さと都会性を全面に打ち出し、既成政党と政治腐敗への強い批判を行い、改革者であるとのイメージを植えつけることに成功した。 また三木は選挙戦終盤に徳島2区の有権者に送付した無料郵便で、自らが一人っ子であることを紹介しつつ、皇国に忠誠の使徒である上に、衆議院議員に当選して老父母に孝行の実を挙げ、忠孝両全の規範を立志の歴史に留めたいとの内容の、当時の倫理規範で最高の徳目とされた忠孝を兼ね備えた人物であることを示すとともに、泣き落としとも受け取れる訴えを行った。そして無料郵便には「元大審院長正三位勲一等 前明治大学学長法学博士」との肩書きの横田秀雄の推薦状が添付されており、大学教授などを応援弁士として招請した三木武夫の広い人脈を、有権者に改めてアピールした。 選挙戦終盤になって、新聞各紙は三木は同じ板野郡を地盤とする高島と当落を争うと予想するようになった。最終盤の4月28、29日になると選挙運動は激しさを増し、三木は一日十六、十七ヶ所の演説会をこなし、結局、板野郡、阿波郡、麻植郡の三郡は選挙戦中にほぼ二巡した。30日に行われた投票の結果、三木は真鍋、秋田に次いで三位の票を集め、前職の高島を押さえ当選した。なお三木の衆議院議員当選は当時の最年少記録であった。5月3日の朝日新聞朝刊は、飛行機に跨る三木の挿絵付きで、『神風の闘志に学ぶ、全国一の年少選良、三木君』と題する記事を掲載し、「神風候補」と銘打って言論戦に所力を尽くし、堂々栄冠を獲得したと三木の選挙戦を紹介した。
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