瀬戸線時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 06:08 UTC 版)
「愛知電気鉄道電7形電車」の記事における「瀬戸線時代」の解説
名古屋鉄道で木造車が在籍する最後の線区の1つとなった、という事実が示すように、瀬戸線は1960年代中盤当時、路線の一端が名古屋市の都心部に乗り入れるという好条件の下で乗客数が急増していたにもかかわらず、また1948年1月に運用車両のブレーキ整備欠如が原因で急曲線区間において脱線転覆し36名もの死者を出すという痛ましい事故が起きていたにもかかわらず十分な安全対策が行われないまま放置され、1960年代初頭の時点で既に5500系にはじまる冷房付き高性能車の導入が進んでいた名古屋本線などの輸送量の多い他の幹線系線区と比較すると、車両も地上設備も共に体質改善が著しく遅れていた。特に車両については1948年以降の同線では前身である瀬戸電気鉄道からの引継車だけではなく、尾西鉄道や三河鉄道、東美鉄道、そして碧海電気鉄道など名古屋鉄道に統合された中でも傍系に属する各私鉄由来の、当時の運転計画担当者をして『あたかも名鉄創世記の車輛の縮図のような』と後年になって回顧させたほどに種々雑多な車両が運用され、しかも1964年の時点でさえ所属全車がドアエンジンも扉鎖錠装置も持たない、つまり走行中であっても旅客が任意に客用扉を開け放ってしまえるなど保安面で難のある手動扉車であった。 1960年代当時の瀬戸線は名古屋鉄道の本線系統において標準であった直流1,500 V電化ではなく路面電車並の直流600 V電化のままであった。しかも名古屋側のターミナルである堀川 - 東大手の間で国の特別史跡である名古屋城の外堀の中に線路を敷設しており、都心との連絡には大津町での名古屋市電との乗り換えが必須で、実質的に堀川ではなく同駅が名古屋側ターミナルとして機能する状況であった。 また、旧久屋駅付近にあった通称「サンチャインカーブ」(半径3チェーン≒60 m)のように時速20 km/hの速度制限がかかるほどの急カーブが多数存在、さらには戦後になってもなお、本町西方に上下線の列車がここですれ違うことを阻むガントレットが残存するなど、問題が山積していた。 こうした瀬戸線の地上設備改良については、最終的に堀川 - 東大手間の廃止とこれの代替となる地下新線の建設による名古屋市中心部の栄への乗り入れ、それ以外の区間の一部高架化とこれに伴う線形改良、そして瀬戸線全区間の架線電圧の直流1,500 Vへの昇圧実施などによって解決が図られたが、その実現までには計画決定から実に10年以上もの長い時間を要した。 このような状況下で瀬戸線においては種々雑多な小型老朽車、特に安全性に問題の多い木造車の早期一掃を迫られていた。そこで、当時残存していた木造車の代替用として3700系・3730系への機器供出を経て本線系統で遊休状態となっていた16 m級半鋼製制御車、つまり愛知電気鉄道電7形由来のク2300形およびク2320形と知多鉄道デハ910形由来のク2330形が選ばれた。16 m級車であれば急曲線区間の多かった、当時の瀬戸線でも問題なく運用可能であったためである。 こうして1965年から1966年にかけて、これら3形式の瀬戸線への転属措置が順次とられた。その際、3730系への電装品供出後に制御車化された際に交換されたブリル27MCB-2X台車やブリル27MCB-2A台車までもが3730系増備車への再供出対象とされた。 最終的に、ク2300形とク2320形については別途台車を装着して制御車のまま転属し、知多鉄道由来のク2330形については瀬戸線在籍の木造車であるモ600形(初代)などを廃車して捻出された電装品および台車と組み合わせることで再電装され、一方の車端部にのみ運転台を設置する片運転台の制御電動車 (Mc) であるモ900形として転属し、前記2形式とMc-Tcの2両固定編成を組んで運用された。 もっともク2300形およびク2320形は計10両在籍するのに対しモ900形の在籍両数は7両に留まることから、余剰となるク2320形3両についてはモ600形(初代)の増備車で同形式と同様に600V仕様の「デッカーシステム」由来の制御器を搭載する、すなわち再電装後のモ900形と同等の制御器を搭載するモ700形と連結して運用された。 この瀬戸線転用に際しては、ク2300形とク2320形の空気ブレーキが新造以来のM自動空気ブレーキを基本とするACM自動直通ブレーキからそれと同じくWABCO設計でより簡素なSCE非常直通ブレーキに変更されている。 その後、モ900形とク2300形・ク2320形の固定編成はまずク2300形を含む3編成(モ901 - モ903・ク2301 - ク2303)が1966年に新設された瀬戸線特急車として指定された。これに伴い、サービス改善のため各車の客用扉間に設置されていたロングシートの大半を転換式クロスシートに交換してセミクロスシート車に改造し、本線のパノラマカーと同様の逆さ富士形行先・種別表示板を掲げて運用されることになった。この段階ではモ904-ク2324が予備車指定となっていたが、同編成は塗装をスカーレットに変更されただけであった。 この特急は好評で、瀬戸線乗客の増加傾向が見られたことから1968年には増発が実施され、前回と同様にモ900形+ク2320形で3編成6両(モ904 - モ906・ク2322 - ク2324)が特急車として追加指定された。この際にモ900形は全車とも扉間座席を転換クロスシート化されたが、ク2320形は前回予備車指定であったク2324のみ転換クロスシート装備とされた。 この2回に分けて実施された特急車への格上げ改造工事では、ク2300形全車とク2322 - ク2324が連結相手となるモ900形と共にミュージックホーンの取り付けや室内灯の蛍光灯への交換を実施し、順次スカーレットに塗装された。 残るクハ2320形の一般車4両は従来通りダークグリーンのままであった。ただしモ900形を含む編成の中で唯一特急指定から外れたモ907-ク2321については、1972年に一般車仕様のまま塗装がダークグリーンからスカーレットに変更された。つまり瀬戸線でモ900形とペアを組んで運用されたク2300形・ク2320形は特急車指定の有無にかかわらず最終的に7両全車がスカーレットに塗装され、本線のパノラマカーと同様の逆さ富士形行先表示板を妻面に装着して運用されている。さらに後年、揖斐線・谷汲線へ転出したグループについてもダークグリーンからスカーレットへの塗装変更が実施されたため、電7形・附3形由来の10両は全車が少なくとも1度はスカーレット1色に塗装された経歴を持つ。 特急車については1968年7月にモ902-ク2302編成で試験的に窓下に200 mm幅の白帯を巻いたところ好評であったため、他の5編成についてもこの塗装が実施された。また特急車は全車とも客用扉を自動扉化、一部については窓サッシ交換に伴い運転台側妻窓の1枚窓化を実施している。 なお、この特急は1977年3月20日のダイヤ改正で急行に格下げとなり、以後も逆さ富士形の行先表示板はそのまま使用されたが、車体の白帯は格下げ前の1975年頃から順次消されている。 1971年当時の編成は以下の通り。 特急車(1966年指定) モ901 ク2301 Mc Tc モ902 ク2302 Mc Tc モ903 ク2303 Mc Tc 特急車(1968年指定) モ904 ク2324 Mc Tc モ905 ク2322 Mc Tc モ906 ク2323 Mc Tc 一般車 モ907 ク2321 Mc Tc モ704 ク2325 Mc Tc モ702 ク2326 Mc Tc モ703 ク2327 Mc Tc だがそうした華々しい運用の一方で、1973年6月より瀬戸線車両の体質改善を目的として、近代的な17 m級全金属製車体を備える3700系10両について、主要機器の降圧改造を実施の上で本線系統からの転入が実施された。これにより瀬戸線では一般車のク2325・ク2327が余剰となり、両車は瀬戸線と同様に直流600 V電化で、しかも瀬戸線以上に厳しい車両状況にあった揖斐線・谷汲線へ転用された。この際、それまで手動のままであった客用扉に扉鎖錠装置が追加されている。
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