日中戦争と第二次世界大戦
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「昭和天皇」の記事における「日中戦争と第二次世界大戦」の解説
1937年(昭和12年)11月30日、支那事変(当時の呼称、現在の日中戦争)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、第1回御前会議で『支那事変処理根本方針』を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。 1939年(昭和14年)には、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。 満州国皇帝溥儀が、1940年(昭和15年)6月26日から7月2日まで来日した際も、5年前同様に天皇自ら東京駅に出迎え、会食を複数回行っている。一方、同年5月にはナチスドイツはフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに対する電撃戦を決行してこれら諸国を占領。さらに7月からは英独航空戦を開始した。英国がドイツの本土上陸危機を凌いだ直後の9月27日、日独伊三国同盟の締結により、日本は西欧諸国や米国との対立を深めることとなった(ABCD包囲網)。 1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議の冒頭で、祖父帝明治天皇の御製(和歌)を引用したが、太平洋戦争開戦に至る決定を覆すことはできなかった(後述)。同年12月1日に第8回御前会議で対米英開戦を決定。同年12月8日、マレー作戦と真珠湾攻撃が行われた後に、自身の名で『宣戦の詔書』を渙発することとなった。ここに大東亜戦争(当時の呼称、現在の太平洋戦争と日中戦争の総称)に突入した。 1942年(昭和17年)12月11日に東京を出御し、伊勢神宮へ必勝祈願で行幸後、13日に還御した。 1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に第10回御前会議において『大東亜政略指導大綱』を決定する。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により、東京都心部は甚大な被害を受ける。その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内へ行幸し、罹災状況を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の第14回御前会議では、重臣の賛否が同数で割れる中で、いわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の第15回御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、自身の名で『終戦の詔書』を渙発した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、翌8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この14から15日にかけての間、放送用に録音されたレコード(玉音盤)奪取を図って、受諾反対派の将校らによるクーデター未遂事件が発生した(宮城事件)。 昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した(昭和天皇・マッカーサー会見)。11月12日に東京を出御し、伊勢の神宮並びに神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)に親拝して終戦を報告した後、同月15日に還御した。同月17日には、同様に父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝した。 陸軍特別大演習に際して(1932年撮影、満31歳) 靖国神社親拝(1932年撮影、満31歳) 陸軍始観兵式において「白雪」号に騎乗(1938年1月撮影、満36歳) 玉音放送を告知する、当日の朝日新聞記事
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