日中戦争と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 21:57 UTC 版)
余漢謀は西南派の蜂起以降、広東の実質的な支配者である陳済棠に従属していた。しかし1936年(民国25年)6月に陳が反蔣の両広事変を発動すると、余や李漢魂はこれに追従せず、蔣介石に味方して陳を下野に追い込んでいる。同年9月、余は陸軍上将銜を授与され、10月、第4路軍総司令を兼ねた。 1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、余漢謀は第4戦区副司令長官に任命された。翌年1月、第12集団軍総司令を兼任する。この頃は、広東省政府主席兼第35集団軍総司令をつとめていた李漢魂とよく連携し、日本軍相手に善戦している。1940年(民国29年)、第7戦区司令長官に昇進した。 日中戦争終結後の1946年(民国35年)6月に陸軍二級上将に昇進し、1948年(民国37年)5月、陸軍総司令に就任し、翌1949年(民国38年)からは、広州綏靖公署主任、華南軍政長官、海南特区行政長官公署副長官などを歴任して、薛岳とともに国共内戦で中国人民解放軍に抵抗した。しかし最後は海南島を失陥し、1950年(民国39年)5月、台湾へ逃れている。台湾では、第8期から第12期まで国民党中央評議委員をつとめ、1965年(民国54年)9月に、陸軍一級上将に昇進している。 1981年(民国70年)12月27日、台北市にて死去。享年85。
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