日中戦争と第二次国共合作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:52 UTC 版)
「第一次国共内戦」の記事における「日中戦争と第二次国共合作」の解説
1937年、日中戦争(日本側の当時の呼称:支那事変)が勃発した。7月7日、北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)。 日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蔣介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結 (8月21日、同29日発表)と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試み、第二次国共合作に入った (1937年-1945年)。滞っていた共産党との交渉は、中ソ不可侵条約の締結翌日に共産党軍の国民政府軍への編入となり、日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蔣介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言され、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。また近年、第二次国共合作の成立は疑わしいとする説もある(国共合作を参照)。 国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。アメリカは、蔣介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。 1943年、蔣介石が「中国の命運」という文章を発表すると、毛沢東は「反共産主義、反自由主義」だとして批判した。戦争終結直前の1945年5月には、蔣介石国民党は第六回全国大会で孫文の提唱していた革命三段階論のうち,軍政、訓政の次の段階である憲政に入ると宣言した。これに対抗して共産党側は第七回党代表大会で「連合政府論」構想を打ち出し、国民党政権を糾弾した。
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