日中戦争と死
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1937年7月、『人情紙風船』の撮影中に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。山中はスタッフたちと召集の心配をしていたが、同年8月25日の『人情紙風船』の封切り当日、撮影所で完成試写を終え、芝生で雑談をしていた山中のもとにも召集令状が届いた。その場に居合わせた岸松雄によると、召集令状を受け取った山中はタバコに火がつけられないほど手を震わせていたという。その翌日、山中は小津の自宅を訪れて祝盃をあげたが、一向に気分が晴れず沈黙が続き、小津が励ましの冗談を言っても話は弾まなかった。8月27日に平安神宮で出征壮行会が行われ、8月31日には伏見の第16師団歩兵第9連隊に陸軍歩兵伍長として入隊し、補充部隊第3中隊に編入された。その10日後には小津も召集され、山中よりも先に中国へ出征した。 10月8日、山中は前進座の人たちに見送られながら、神戸港から運送船に乗って出帆し、10月17日に中国の大沽に上陸した。その後、石家荘を経て寧晋へ入り、そこに駐屯する北支那方面軍第2軍の第16師団(中島今朝吾中将)歩兵第9連隊第1大隊第4中隊に編入され、その中隊の第3小隊の第2分隊長に任命された。山中の所属する第16師団は第二次上海事変のため上海派遣軍に編入され、大連から船で上海方面へ進み、第3小隊の任務とする弾薬輸送隊の援護を務めた。すでに上海は中国軍が退却したあとであり、第16師団は南京攻略戦のため南京を目指して大陸内奥へ侵攻した。山中の第3小隊も戦闘部隊として泥まみれになりながら悪路を行軍し、常熟、無錫、常州、金壇、句容を経て、12月9日には南京城外の紫金山に到達し、山頂へ突撃するため最前線に立った。12月15日に南京が陥落したあと、山中の第3小隊は句容に駐屯し、そこで新年を迎えた。 1938年1月12日、山中のもとを小津が訪ねて来た。2人はわずか30分の面会時間でたくさん語り合い、日本映画監督協会宛てに「南京で会ってお互いの無事を喜んでおります 小津安二郎」「悪運の強いのが生き残っています 山中貞雄」と寄書きをした。2人は「今度会う時は東京だ」と手を握りあって別れたが、これが2人の最後の対面となった。2月19日、第16師団が北支那方面軍第一軍に編入されたことで、山中は部隊とともに句容を出発して河北省へ向かい、3月から4月にかけて河北裁定作戦や占領地の粛正作戦に参加し、その間の4月1日には軍曹に昇進した。4月18日には戦地に持ち込んでいた『従軍記』と題したノートに遺書をしたためている。そこには次のようなことが書かれていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}〇陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。〇日本映画監督協会の一員として一言。『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず。(中略、保険金や借金返済について)〇最後に、先輩友人諸氏に一言 よい映画をこさえて下さい。以上 4月24日からは徐州会戦に参加し、5月19日の徐州占領後は隴海線沿いを西進して追撃戦に参加した。6月12日には中国軍が黄河決壊事件を起こしたことで、河南省の大部分に黄河の濁水が流れ出し、山中たちは約1ヶ月間、褌一丁の裸になって洪水地帯で戦闘に従事した。しかし、その時に濁水を飲み込んだのが原因で急性腸炎を発病し、7月19日に開封市内の第16師団第2野戦病院に入院し、8月には同市内の第5師団第2野戦病院に転送された。病状は一向に良くならず、8月15日付の井上宛の手紙には「下痢が酷い」と書いていた。9月2日には開封野戦予備病院へ移り、第28班患者療養所に収容された。収容時の山中は食欲不振で栄養が足らず、るいそう甚だしく重体とされた。9月7日頃には病状が落ち着いて経過良好となりつつあったが、9月17日午前6時半頃に突如病状が悪化し、同日午前7時に死亡した。満28歳だった。
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