日中戦争と国共内戦、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:11 UTC 版)
1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると何応欽は南京で軍の編成にあたり、8月、軍政部長に加え第4戦区司令長官を兼任した。1938年(民国27年)1月、軍事委員会参謀総長も兼ね、戦時の軍制・計画・指揮に責任を負うことになる。1944年(民国33年)12月、何応欽は14年以上もの長期にわたり在任した軍政部長を退き、連合国中国戦区陸軍総司令に就任した。1945年(民国34年)8月、何応欽は南京軍官学校における降伏文書調印式では陸軍総司令として中国側代表を務める(日本側代表は支那派遣軍総司令官岡村寧次)。満州を除く中国内陸部で降伏した日本人兵士らの安全な輸送帰国を遂行し、日本から感謝された。 日中戦争終結後になると、蔣介石は強大な軍権を掌握する何応欽に猜疑を抱き始め、何応欽の軍中の政敵である陳誠を信任するようになっていく。1946年(民国35年)5月、国民政府において国防部が成立し、部長に白崇禧、参謀総長に陳誠が就任した。一方、軍事委員会と陸軍総司令部は廃止され、何応欽も同時に罷免されてしまう。そのため失意の何応欽は、国連安全保障理事会軍事参謀団中国代表団団長としてアメリカに赴くことになった。 1948年(民国37年)3月に何応欽が帰国した頃には、陳誠が東北での大敗で失脚し、何応欽は行政院政務委員兼国防部長に起用される。しかし、実際の軍権は蔣介石の手中にあり、何応欽にはほとんど実権が無かった。1949年(民国38年)3月、総統代理李宗仁(この直前に蔣介石が一時下野)の下で何応欽は行政院長を務めたが、何応欽は李宗仁ではなく蔣介石の指示を遵守し、李宗仁が推進した国共和平協定の調印を最終的に拒絶している。4月、何応欽が国防部長を兼任し、中国人民解放軍迎撃に備えようとしたが、すでに長江を渡河した解放軍を防ぐ術はなく、5月に行政院長を辞任、8月に台湾へ逃亡した。 台湾での何応欽は、1950年(民国39年)5月に総統府戦略顧問委員会主任委員(1972年5月より同委員会戦略顧問)に任命される。何応欽は蔣介石のために、日本やアメリカ、東南アジア各国を訪問し、連携確立に努力した。そのほか、中日文化経済協会理事長、三民主義統一中国大同盟主任委員などを歴任している。 1987年(民国76年)10月21日、台北市にて心臓の衰弱により死去。享年98(満97歳)。
※この「日中戦争と国共内戦、晩年」の解説は、「何応欽」の解説の一部です。
「日中戦争と国共内戦、晩年」を含む「何応欽」の記事については、「何応欽」の概要を参照ください。
- 日中戦争と国共内戦、晩年のページへのリンク