南フランス修業時代
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劇団の看板女優たち。左からマルキーズ・デュ・パルク、カトリーヌ・ド・ブリー、アルマンド・ベジャール、マドレーヌ・ベジャール 17世紀のフランスには、地方を巡業を主とする劇団が200以上、様々な劇団を渡り歩く役者も1000人は存在したという。数多くある劇団のうち、20ほどの劇団のみが王侯貴族の手厚い庇護を獲得していたが、モリエールらが加わったデュフレーヌ劇団もまさにこうした劇団のひとつであった。 南フランス巡業時代についてあまり詳しくはわかっていないが、1647年の秋にオービジュー伯爵の招きに応じてトゥールーズへ赴き、公演を行っている。同年にアルビ、カルカッソンヌなどでも公演をこなし、48年にはナント、フォントネー=ル=コント、49年にポワチエ、アングレーム、リモージュ、トゥールーズ、モンペリエ、ナルボンヌを巡業し、興行を行った。 1650年にはラングドック地方の議会がペズナスで開催された為、会期中に街に滞在する参加者たちの退屈しのぎとして3か月間の契約で街から招聘され、興行を行っている。この際、ペズナスから謝礼金4000リーヴルが贈られ、それに対するモリエールの署名入り受取書が残されているため、およそこの時期に劇団の座長に就任したようである。同年にエペルノン公の不興を買い、庇護を失った。また、リヨンに拠点を据え、ここから巡業先へ出向くようになった。このころ、カトリーヌ・ド・ブリー、ならびにアルマンド・ベジャールが劇団に加入。アルマンドはムヌー嬢なる芸名の子役としての入団である。彼女は後にモリエールの妻となったが、そもそも彼女は誰の子供なのか、モリエールとその愛人マドレーヌ・ベジャールとはどういった関係なのかを巡って論争が行われてきたが、未だに決着はついていない。 1652年末にはリヨンにて、コルネイユの音楽付き仕掛け芝居『アンドロメード』を上演している。この作品は1650年にパリで上演され、大成功を収めた作品で、リヨンでの上演においてはモリエールが空飛ぶ英雄のペルセを、マドレーヌ・ベジャールがヒロイン役を演じている。『アンドロメード』の序幕の舞台装置は、モリエールが後々制作する作品『ドン・ジュアン』や『プシシェ』に影響を与えている。パリで大流行していた音楽付き仕掛け芝居が持つ魅力に、モリエールが着目するきっかけを与えたという意味で、この上演の意義は極めて大きい。 このころ、マルキーズ・デュ・パルクが劇団に加入した。カトリーヌ・ド・ブリーと揃って2人とものちに劇団の看板女優となり、17世紀を代表する屈指の名女優になった。マルキーズは大変な美貌の持ち主で、モリエールだけでなく、コルネイユやラシーヌなど有名無名を問わず、ありとあらゆる男性の心を惹きつける女性であった。その美貌によって、モリエールは助けられたこともあった。 1653年には、かつてコレージュ・ド・クレルモンでの学友だったコンティ公の招待を受けて、別荘があるペズナスへ赴いた。コンティ公はフロンドの乱で敗北して以降、居城にこもり、ひたすら快楽にふけっていた。この年、愛人であるカルヴィモン夫人(ボルドー高等法院の評定官の妻であった)を喜ばせるために、劇団を呼び寄せて芝居を楽しもうと考えていたのだった。しかしいざ一行が到着すると、既に「コルミエ劇団」がカルヴィモン夫人に贈り物をして上演の契約に成功しており、一行はコンティ公に冷たくあしらわれた。愛人の言いなりだったコンティ公は、モリエールの劇団にはもはや関心がなかったのである。 かかった旅費すら出してもらえそうにない冷たい態度に困ったモリエールは、仕方なくしばらくペズナスで芝居を行うことにした。コンティ公の秘書を務めていた詩人・サラザン(Jean=François Sarasin)はこの芝居を見て、マルキーズの美貌に惹かれ、何とかして劇団をこの地に留めたいと考えた。真正面から「劇団を変えてください」などと言うわけにもいかないので、コルミエ劇団とモリエールらの劇団を競合するようにそそのかし、カルヴィモン夫人にモリエールの劇団の方がいかに優れているかを説いて納得させたのだった。こうして、マルキーズの美貌に助けられて、モリエールの劇団はコンティ公の庇護を獲得したのである。これによって劇団の財政はますます安定し、人気も高まっていった。 1655年には、モリエールの演劇人生を考える上で重要な作品が2つ、『粗忽者』と『相容れないものたちのバレエ』が上演された。『粗忽者』は初の本格的な自作の喜劇作品であった。テキストが現存する作品に絞って考えると、彼はこれまでに既に2作品を書いているが、当時の慣習として「喜劇」というのはおよそ3~5幕からなる作品のことを指したため、これが初の喜劇となった。コンティ公の御前で、モンペリエにて上演された『相容れないものたちのバレエ』は、コメディ=バレの前身と考えられる作品である。宮廷バレエはルイ13世の時代から非常にもてはやされたジャンルであったが、音楽と踊りが融合したこの演劇形態に早くからモリエールが着目していたことを示す作品である。このバレエは合作で、モリエール1人の手によるものではない。モリエールは構想段階から制作に関わり、テキストの一部を執筆したほか、2つの役をこなしたという。 同年7月には作曲家のシャルル・ダスシと協力して、『クリスチーヌ・ド・フランスに捧げる歌』を制作している。ダスシは『アンドロメード』の作曲をも担当しており、モリエールらと再会したのだった。ダスシはこの際に受けた歓待ぶりを、回想として次のような記録に遺している。 とりわけ嬉しかったのは、モリエールやベジャール兄妹に再会したことだった。私は芝居が何より好きなものだから、彼らのように魅力的な友人のもとをなかなか離れられなかった。それで結局リヨンに3か月も滞在し、博打に芝居、御馳走三昧の毎日を送った。(中略)それからモリエールと一緒にローヌ川を下ってアヴィニョンに入った。そのころには手持ちの金がたったの40ピストールになっていた。(中略)だが、友達というのはいいものだ。モリエールは私に一目置いてくれるし、ベジャール一家はみんな私によくしてくれる。あの頃ほど、豊かで満ち足りた気分を味わったことはない。モリエールやベジャール兄妹も、私を友人としてというより、家族の一員のように手厚くもてなしてくれた。だから、ペズナスで開かれる三部会への出演依頼を受けた時も、私を一緒に連れて行ってくれたのだ。ペズナスに着いてからも、あの人たちはこの私をこぞって歓待してくれた。とても口では言えないほどだ。どんなに仲のいい兄弟でも、ただで食べさせてやるなど、一か月もしたらいやになると世間では言うけれど、モリエールとベジャール一家の人たちは、どんなに仲の良い兄弟よりも気前が良くて、私が彼らと一冬中、食卓を共にしたのに、嫌な顔一つしなかった。(中略)彼らと一緒にいるとまるで自分の家にいるような気がしたものだ。あれほど善良で、飾り気がなく、ちゃんとした連中には今までお目にかかったことがない。連中は毎日舞台の上で王家の人々を演じているが、実生活でもその資格があるんじゃないかと思うほどだった。 1656年11月、劇団の庇護者の1人であったオービジュー伯爵が亡くなった。それから間もなくのこと、1657年に同じく庇護者の1人であったコンティ公が突如カトリックへ改宗し、敬虔な信者となった。これまでの奔放な行いを深く悔い、カトリックの秘密結社である聖体秘蹟協会の一員となったのである。これと同時にモリエールらの劇団は庇護を失うどころか、「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となった。このように相次いで庇護を失ったことは、当然劇団に影響を与えた。安定した収入を見込んでいたのに、その当てが消え失せたことで財政的な危機に直面してしまった。この財政危機がきっかけとなって、劇団はパリへの進出を、モリエールら盛名座の残党はパリへの帰還を決意したのだった。
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