南フランス修業時代とは? わかりやすく解説

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南フランス修業時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:46 UTC 版)

モリエール」の記事における「南フランス修業時代」の解説

劇団看板女優たち。左からマルキーズ・デュ・パルクカトリーヌ・ド・ブリーアルマンド・ベジャールマドレーヌ・ベジャール 17世紀フランスには、地方巡業主とする劇団200以上、様々な劇団渡り歩く役者1000人は存在したという。数多くある劇団のうち、20ほどの劇団のみが王侯貴族の手厚い庇護獲得していたが、モリエールらが加わったデュフレーヌ劇団もまさにこうした劇団のひとつであった南フランス巡業時代についてあまり詳しくわかっていないが、1647年秋にオービジュー伯爵招きに応じてトゥールーズへ赴き、公演行っている。同年アルビカルカッソンヌなどでも公演をこなし、48年にはナントフォントネー=ル=コント49年ポワチエアングレームリモージュトゥールーズモンペリエナルボンヌ巡業し興行行った1650年にはラングドック地方議会がペズナスで開催された為、会期中に街に滞在する参加者たちの退屈しのぎとして3か月間の契約で街から招聘され興行行っている。この際、ペズナスから謝礼金4000リーヴル贈られ、それに対すモリエール署名入り受取書が残されているため、およそこの時期劇団座長就任したようである。同年にエペルノン公の不興を買い、庇護失ったまた、リヨン拠点据えここから巡業先へ出向くようになったこのころカトリーヌ・ド・ブリーならびにアルマンド・ベジャール劇団加入アルマンドはムヌー嬢なる芸名の子役としての入団である。彼女は後にモリエールの妻となったが、そもそも彼女は誰の子供なのか、モリエールとその愛人マドレーヌ・ベジャールとはどういった関係なのかを巡って論争が行われてきたが、未だに決着はついていない。 1652年末にはリヨンにて、コルネイユ音楽付き仕掛け芝居『アンドロメード』を上演している。この作品1650年パリ上演され大成功収めた作品で、リヨンの上においてはモリエール空飛ぶ英雄のペルセを、マドレーヌ・ベジャールヒロイン役を演じている。『アンドロメード』の序幕舞台装置は、モリエール後々制作する作品ドン・ジュアン』や『プシシェ』に影響与えている。パリ大流行していた音楽付き仕掛け芝居が持つ魅力に、モリエール着目するきっかけ与えたという意味で、この上演の意義極めて大きい。 このころマルキーズ・デュ・パルク劇団加入したカトリーヌ・ド・ブリー揃って2人とものちに劇団看板女優となり、17世紀代表する屈指の女優になったマルキーズ大変な美貌持ち主で、モリエールだけでなく、コルネイユラシーヌなど有名無名を問わずありとあらゆる男性の心を惹きつける女性であった。その美貌によって、モリエール助けられたこともあった。 1653年には、かつてコレージュ・ド・クレルモンでの学友だったコンティ公招待受けて別荘があるペズナスへ赴いたコンティ公フロンドの乱敗北して以降居城にこもり、ひたすら快楽ふけっていた。この年愛人であるカルヴィモン夫人(ボルドー高等法院評定官の妻であった)を喜ばせるために、劇団呼び寄せて芝居楽しもう考えていたのだった。しかしいざ一行到着すると、既に「コルミエ劇団」がカルヴィモン夫人贈り物をして上演契約成功しており、一行コンティ公冷たくあしらわれた。愛人言いなりだったコンティ公は、モリエール劇団にはもはや関心がなかったのであるかかった旅費すら出してもらえそうにない冷たい態度困ったモリエールは、仕方なくしばらくペズナスで芝居を行うことにした。コンティ公秘書務めていた詩人・サラザン(Jean=François Sarasin)はこの芝居見てマルキーズ美貌惹かれ何とかして劇団をこの地に留めたいと考えた真正面から「劇団変えてください」などと言うわけにもいかないので、コルミエ劇団モリエールらの劇団競合するようにそそのかし、カルヴィモン夫人モリエール劇団の方がいかに優れているかを説いて納得させたのだった。こうして、マルキーズ美貌助けられて、モリエール劇団コンティ公庇護獲得したのである。これによって劇団財政はますます安定し人気高まっていった。 1655年には、モリエール演劇人生考え上で重要な作品2つ、『粗忽者』と『相容れないものたちのバレエ』が上演された。『粗忽者』は初の本格的な自作喜劇作品であったテキスト現存する作品絞って考えると、彼はこれまでに既に2作品書いているが、当時慣習として「喜劇」というのはおよそ3~5幕からなる作品のことを指したため、これが初の喜劇となったコンティ公御前で、モンペリエにて上演された『相容れないものたちのバレエ』は、コメディ=バレ前身考えられる作品である。宮廷バレエルイ13世時代から非常にもてはやされジャンルであったが、音楽踊り融合したこの演劇形態早くからモリエール着目していたことを示す作品である。このバレエ合作で、モリエール1人の手よるものではない。モリエール構想段階から制作関わりテキスト一部執筆したほか、2つの役をこなしたという。 同年7月には作曲家のシャルル・ダスシと協力して、『クリスチーヌ・ド・フランスに捧げる歌』を制作している。ダスシは『アンドロメード』の作曲をも担当しており、モリエールらと再会したのだった。ダスシはこの際受けた歓待ぶりを、回想として次のような記録に遺している。 とりわけ嬉しかったのは、モリエールやベジャール兄妹再会したことだった。私は芝居何より好きなものだから、彼らのように魅力的な友人のもとをなかなか離れられなかった。それで結局リヨンに3か月滞在し博打芝居御馳走三昧毎日送った。(中略)それからモリエール一緒にローヌ川下ってアヴィニョン入った。そのころには手持ちの金がたったの40ピストールになっていた。(中略)だが、友達というのはいいものだ。モリエールは私に一目置いてくれるし、ベジャール一家はみんな私によくしてくれる。あの頃ほど、豊かで満ち足りた気分味わったことはない。モリエールやベジャール兄妹も、私を友人としてというより、家族の一員のように手厚くもてなしてくれた。だから、ペズナスで開かれる三部会への出演依頼受けた時も、私を一緒に連れて行ってくれたのだ。ペズナスに着いてからも、あの人たちはこの私をこぞって歓待してくれた。とても口では言えないほどだ。どんなに仲のいい兄弟でも、ただで食べさせてやるなど、一か月もしたらいやになる世間では言うけれど、モリエールとベジャール一家の人たちは、どんなに仲の良い兄弟よりも気前良くて、私が彼らと一冬中、食卓を共にしたのに、嫌な一つしなかった。(中略)彼らと一緒にいるとまるで自分の家にいるような気がしたものだ。あれほど善良で、飾り気がなく、ちゃんとした連中には今までお目かかったとがない連中毎日舞台の上王家の人々演じているが、実生活でもその資格があるんじゃないかと思うほどだった。 1656年11月劇団庇護者1人であったオービジュー伯爵亡くなった。それから間もなくのこと、1657年同じく庇護者1人であったコンティ公突如カトリック改宗し敬虔な信者となったこれまでの奔放な行い深く悔いカトリック秘密結社である聖体秘蹟協会一員となったのである。これと同時にモリエールらの劇団庇護を失うどころか、「罪深い娯楽」として激し弾圧対象となったこのように相次いで庇護失ったことは、当然劇団影響与えた安定した収入見込んでいたのに、その当て消え失せたことで財政的な危機直面してしまった。この財政危機きっかけとなって劇団パリへ進出を、モリエール盛名座残党パリへの帰還決意したのだった

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