佐久鯉の歴史と文化とは? わかりやすく解説

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佐久鯉の歴史と文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 12:12 UTC 版)

佐久鯉」の記事における「佐久鯉の歴史と文化」の解説

コイ料理平安時代文献にも登場し古くから貴重な動物性蛋白源として利用されていた。特に、海から遠い信州佐久では海産魚類の入手難しく日本海から信濃川遡上するサケ下流中流域捕獲され尽くし千曲川上流佐久では漁獲が殆ど無い。そのため淡水魚コイ祭礼祝儀食材として重用されていた。1886年ドイツ鯉移入以前在来種養殖が行われていた。 1592年から(文禄年間~) 野養殖試みる者ありとの言い伝え文献等一切不明)。 1715年正徳5年佐久の小須田家「見帳」に祝物として六疋が贈られたとあり。 1716~35年享保年間このころ佐久市中込地方利根川などの移植したとの伝承あり(文献等一切不明)。 1746年延享3年篠澤家文書伊勢神宮神官福嶋鳥羽太夫招いて鯉こく提供した献立記録1772年安永年間頃) 塚原池田家活魚輸送魚卵移動など行った伝承資料一切不明1781年天明元年桜井臼田丹右衛が淀川のを飼育との伝承資料一切不明1817年文化14) 上塚原など28名が「鯉魚育方議定書」を作る1818年文政元年田野口藩飼池之義御触請印帳」、桜井村「旧夫銭帖」に七本記録1819年文政2) 池田新源太郎ら佃屋と「一括販売契約」結ぶ。 1824年文政7) 野沢並木左衛門岩村田藩主より珍魚賜る1830天保年間臼田衛門大福帳価格等記録1832年天保3年志賀村芳幅池へ放流記録1833年天保4年桜井村購入したというが天保14年説もあり。 1842年天保13年跡部村茂原養鯉日記1844年~(弘化年間浅沼太十郎屋敷裏稲田養鯉1846年弘化3年望月本陣文書に「上物1850年嘉永3年跡部村村定請印帳」に稲田養鯉盗難対策1852年嘉永5年野沢並木家日記鯉料理1857年安政4年六日記に鯉料理1875年明治8年中込野沢県外にも販売される1877年明治10年佐久若者が郡外で養鯉1879年明治30年吾郷桜井鯉魚養殖之図が柳澤真により制作される。同じ頃、桜井稲田内国勧業博覧会出品受賞1886年明治37年ドイツ鯉日本移入される。 1920年大正9年野沢町産業組合誕生1924年大正13年佐久養鯉組合誕生1925年大正14年佐久鯉加工工場設置1928年昭和3年軍用販路進む。 1940年昭和15年稚魚10万匹を支那へ送る。 1943年昭和18年長野県水産試験場佐久採苗設置1954年昭和29年五郎兵衛新田大池採苗試験1962年昭和37年長野県養鯉生産日本一になる。 1965年昭和40年長野県統計書から稲田養鯉の項姿消す。 1966年昭和41年佐久鯉図柄切手発行される2004年平成15年佐久地方コイヘルペスウイルス入り全滅に近い被害

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