奥殿藩
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奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた藩。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。
田野口藩(龍岡藩)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 17:50 UTC 版)
信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる。西洋の築城術に関心を寄せていた乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)とすることを計画、元治元年(1863年)より田野口村で築城を開始した。田野口陣屋(龍岡城)は、函館の五稜郭とともに日本に2例のみの星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが、城郭としては未完成のまま明治維新を迎えたという。 藩政においてはいちはやくフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った。乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行、慶応2年(1866年)に老中・陸軍総裁に任じられ、江戸幕府を支えるために奔走した。 慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が蕃松院(佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。 なお、乗謨は明治維新後に大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名、日本赤十字社の前身である博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した。明治17年(1884年)に子爵、明治40年(1907年)に伯爵に昇った。
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田野口藩(龍岡藩)
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譜代。1万6000石。 松平乗謨(のりかた) 正四位下 縫殿頭 〔老中格。陸軍総裁〕
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