レギュラー放送開始
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「TWWAプロレス中継」の記事における「レギュラー放送開始」の解説
1968年1月3日から『TWWAプロレス中継』のタイトルで、毎週水曜 19:00 - 19:55でレギュラー番組として放送開始。同時に団体名も「TBSプロレス」と名乗った。当初は日本テレビの『日本プロレス中継』とは異なり、モノクロビデオ放送だった。定期放送第1回のメインイベントは、『オープニング・ワールド・シリーズ』開幕戦日大講堂大会の実況生中継。王者ルー・テーズに草津が挑戦するTWWA世界ヘビー級選手権試合で、放送開始時間に合わせて試合が開始された。前述の記者会見で当初JNN加盟20局で放送と発表されていたためか、後年の文献ではそれが定説化されているが、ネット局の欄にあるように静岡放送は当初からのネット受けをしておらず(一説には『日本プロレス中継』を既に放送していた関係から日本テレビ・日本プロレスと同番組提供の三菱電機からの圧力により放送を取り止めたと言われる)、このことから実際は20局ネットでなかったのが事実である。これらを考慮すると、静岡放送以外にもネット受けをしなかったJNN加盟局がある可能性もあり、放送当初の正確なネット局数は不明である。なお、このTWWA選手権は東郷の画策で1967年に設立されたいわばお手盛りのタイトルである。試合前、TBSの関係者がテーズに対し、エースに目論んでいた草津に「花を持たせる」ことをそれとなく要求する。歴戦をくぐり抜け何度となくNWA世界ヘビー級王座にも就いたテーズにとって、キャリア3年にも満たず大きな実績もない草津に負けることなど認めがたいことであり、大いに憤慨。吉原もTBS側の無礼ぶりを認めたが、「TBSに顔が立たないから表面上は了承したふりをしていてほしい。でも実際に従う必要はない」とテーズに語り、テーズも了承する。 試合が始まると、草津の受け身が未熟であることを見抜いたテーズは、必殺のバックドロップを見舞う。現在残された写真では、急角度の危険なものではなかったが、食らった草津はあえなく失神(草津自身は、実際には失神はしておらず、セコンドにいた東郷の指示で寝ていただけだと語っている)。草津はそのまま試合放棄で敗戦となり、TBSの目論みは潰れることとなった。「エース」がテレビ放映の初戦でこのような無残な負け方をするなど前代未聞であり、その後の国際の苦難の道を暗示した一戦といわれる。ライバル団体である日本プロレス関係者もこの試合を酷評し、長谷川淳三社長は「キャリア不足の草津がテーズに挑戦するなど、力道山が尊敬していたテーズを冒涜している」として、急遽本番組開始当日に蔵前国技館で興行をぶつけて興行戦争を仕掛け、かつ日本テレビで17:30からの1時間枠で特番で放送した他、当日の蔵前大会の直後にアメリカ遠征に出発するため、東京国際空港に行く途中で立ち寄ったベースボール・マガジン社(当時は神田錦町に所在)でこの試合を本番組で観戦していた上田馬之助も、「草津の試合ぶりはプロとして恥ずかしく、しかも動きが幼稚」などとコメントした。草津VSテーズは1月8日に行われた鹿児島県体育館大会でノンタイトル戦で再戦が行われ(この試合もテーズの勝利)、TBS労働組合のストライキのため生中継が中止となった1968年4月24日に生中継の代替として録画中継された。開始1か月間の視聴率も『日本プロレス中継』と互角で、『日本プロレス中継』を隔週金曜20時台の放送から、毎週金曜20時台への放送に変更させたほどであった。一方で、社外モニターも上田同様に厳しい評価を下し、同年1月24日に実況生中継された台東区体育館大会(テーズVSダニー・ホッジなどを放送)に関し、電通がTBSに提出した社外モニター報告書では「テーズ・ホッジは一流で、ぶざまな負け方をした杉山・豊登・草津よりも役者が上だった」などと記されている。 1968年2月19日開催の『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』静岡県浜松市体育館大会(テレビ未放送)では、東郷とTBSプロレスとの間で、ブッキング料を巡るトラブルが発し、東郷は招聘した外国人選手全員(ファビュラス・カンガルーズのアル・コステロ&ドン・ケント、フレッド・カリー、『オープニング・ワールド・シリーズ』から残留参戦したホッジとブルドッグ・ブラワー)の試合出場をボイコットさせ、TBSも、同年2月21日放送分を1月12日開催の『オープニング・ワールド・シリーズ』九電記念体育館の録画中継に変更した。『オープニング・ワールド・シリーズ』と『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』では万が一の際の予備で中継予定がない会場でも番組収録が行われ、一部は放送された(後述)。同時に団体名もTBSプロレスから国際プロレスへ戻った。翌2月20日には、国際プロレスが会見を開き、東郷との絶縁並びに、外国人招聘ルートをヨーロッパに変更することを発表した他、東郷と外国人選手全員も、2月23日に記者会見を開き、国際との絶縁並びに外国人選手全員を帰国させることを発表した。 1968年2月28日開幕の『日欧決戦シリーズ』からはヨーロッパルートによる外国人招聘を開始。同シリーズにはトニー・チャールズらが参戦したが、東郷とのトラブルを受けての急遽の招聘だったため観光ビザでの来日となり、開幕戦の栃木県足利市月丘高校体育館大会(実況生中継)は入場無料のチャリティー興行として開催。次期の「日・欧チャンピオン決戦シリーズ」では、ビル・ロビンソンが初来日した。 しかし、鹿児島大会における草津VSテーズ戦の放送を境に、放送形態は生中継よりも録画中継がメインとなり、全試合が録画中継というシリーズもあったため、主要スタッフが国際プロレスのサーキットに2〜3戦帯同した場合があった他、収録から1か月〜2か月後に録画中継されるケースもあった。以降の国際プロレス中継におけるこの基本的な放送フォーマットは、本番組の他にも、後継番組である東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』にも継承される。 テレビ中継が行われる大会は、JNN加盟局が所在する地域で行われた大会がほとんどで、JNN加盟局が所在しない地域で開催された大会を中継したのはわずか4大会しかなかった(後述)。当時のTBSは水曜日のプロ野球中継を20時からの放送としていたため、『日本プロレス中継』やNETの『NETワールドプロレスリング』同様に休止になることは殆どなかった(後述)。 当時民放1局の地域だった岩手放送(現:IBC岩手放送)・山陰放送・山陽放送(現:RSK山陽放送)・大分放送の4局では『日本プロレス中継』をネットした経験さえもなく(当時の4局は『近鉄金曜劇場』→『金曜20時台ドラマ』の同時ネット)、本番組が岩手・島根・岡山・大分の4県では初めてのプロレス放映となり、なおかつ岩手・島根・大分の3県では、テレビ岩手とテレビ大分の開局並びに日本海テレビの島根県への電波乗り入れまで、岡山県ではテレビ岡山(現:岡山放送)開局に伴う『NETワールドプロレスリング』開始までは唯一のプロレス中継番組となった他、当時『日本プロレス中継』の非ネット地域だった新潟・福岡の2県でも、新潟総合テレビ(現:NST新潟総合テレビ)と福岡放送の開局に伴う『日本プロレス中継』ネット再開まで唯一のプロレス中継番組となった。特に岩手県・宮城県の2県で行われた興行は、岩手放送と東北放送(本番組開始当時、東北地方に所在したJNN加盟局はこの2局のみだった)が当時圧倒的に強かったのも相まって、国際プロレスが日本プロレスよりも興行成績が上回っており、岩手県で行われた興行における実況生中継や番組収録も、1973年以外毎年のように盛岡市以南の東北本線沿線の各都市で行っていたほどだった(後述)。日本プロレス首脳陣も「岩手県と宮城県ではBI砲がいてもテレビ中継がなくては国際には勝てない」と言わしめたほどだった。さらに当時の国道45号沿線はプロレス興行の黄金ルートと呼ばれていた。 1968年11月4日に開幕した「第1回ワールド・チャンピオン・シリーズ」では、ロビンソン、ジョージ・ゴーディエンコ、ピーター・メイビア、ジョン・ダ・シルバなどの豪華外国人を招聘し、ロビンソンが初代IWA世界ヘビー級王者となった。1969年1月1日には、宮崎県体育館大会の生中継が行われ、2年連続の年始シリーズ開幕戦の生中継となり、翌週8日にも宮崎大会が録画中継された。同時に木村政雄のリングネームも、本名からラッシャー木村に改められた。 1968年から1969年にかけて初来日を果たした主な外国人選手には、ロビンソンやゴーディエンコ、メイビアら以外にも、「'68ワールド・サマー・シリーズ」ではワイルド・アンガス、「'68ダイナマイト・シリーズ」ではアル・ヘイズとミスター・ギロチン(初代ケンドー・ナガサキ)、「'69国際ゴールデン・シリーズ」ではダニー・リンチとパット・ローチ、「'69ワールド選抜シリーズ」ではドリー・ディクソンとアルバート・ウォール、「'69ダイナマイト・シリーズ」ではジャン・ウィルキンスとダニー・リトルベア、「'69ビッグ・サマー・シリーズ」ではスタン・ザ・ムースとオックス・ベーカー、「'69ロイヤル・シリーズ」ではバディ・コルトなどがいる。1970年には「'70新春チャレンジ・シリーズ」においてモンスター・ロシモフが初来日し、同じく初来日となるバーン・ガニアも2月3日開催の広島県立体育館大会(翌4日に録画中継)から2月9日開催の岩手県盛岡市体育館大会(3月4日に録画中継)まで特別参戦した。 1968年 - 1969年の視聴率は20%台で、1968年は年間視聴率ベスト15に入る健闘を見せた。しかし、1968年11月13日に放送された「第1回ワールド・チャンピオン・シリーズ」盛岡市体育館の実況生中継(草津&木村VSロビンソン&メイビアとIWAワールド・シリーズ公式戦の豊登VSシルバを放送)の27.2%を最後に、以降は視聴率が25%を超えることはなかった。
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