フロリダ準州とフロリダ州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 15:17 UTC 版)
「セントジョンズ川」の記事における「フロリダ準州とフロリダ州」の解説
1821年、フロリダがアメリカ合衆国に併合されたあとの1年目、白人開拓者とセミノール族インディアンとの間に暴力的な紛争が起きた。セミノール族には逃亡したアフリカ人奴隷が入っていることが多かった。フロリダ準州設立時のアメリカ人とセミノール族との衝突は、セントジョンズ川沿いの町や目印に、その紛争に直接巻き込まれた人の名が付けられていることで振り返ることができる。フロリダがアメリカ合衆国の中に組み込まれる前の1818年であっても、アンドリュー・ジャクソン少将がスワニー川より西にいるアラチュア・セミノール族を排除する任務があり、インディアンを殺すか、南のレイク郡に移動させるかがその手段だった。ジャクソンが動いたことで第一次セミノール戦争となった。ジョージア州との州境近く、セントジョンズ川の幅が広い所で、牛がジャクソンビルに渡った場所がカウフォードと名付けられた。ジャクソンが攻勢を掛けた結果、フロリダがアメリカ合衆国に譲渡されることになった。セミノール戦争が終わった後、蒸気船の運航によって、セントジョンズ川沿いでは商業を営む者を含め人口が次第に増加した。蒸気船はこの川の全盛期を演出し、鉄道が開通するまで、州内の内陸に到着する唯一の交通手段だった。ジャクソンビルの市民にとって船の競走をみるのも気晴らしの1つだった。1860年代までに、ジャクソンビルとサウスカロライナ州チャールストン、ジョージア州サバンナを結ぶ毎週の便で、観光客、木材、綿花、柑橘類が運ばれた。セントジョンズ川沿いの土壌は、甘いオレンジを栽培するのに特に適していると考えられた。 南北戦争のときのフロリダ州はまだ人口が少なかったので、他のアメリカ連合国の州に比べれば、関与することが少なかった。フロリダはセントジョンズ川を航行する蒸気船で南軍に物資を供給したが、川と大西洋岸は北軍海軍によって封鎖されていた。この戦争におけるフロリダの役割の1つは、セントジョンズ川をパトロールし、物資が南軍に届かないようにしていた北軍の外輪船USSコロンバインを沈没させたことだった。1864年、パラトカ近くで、ジョン・ジャクソン・ディキソン大尉が指揮する南軍部隊が、USSコロンバインを捕獲して燃やし、沈めた。おそらく南軍に乗っ取られた唯一の北軍艦船となった。同年、それより下流で、南軍はメイプルリーフという北軍の船を再度沈めた。この船はジャクソンビルの南、ジュリントン・クリークの近くで、爆発物を積んだ浮いた樽に当たり、泥の中に鎮座することになった。この沈船の一部が1994年に引き上げられ、南北戦争時代の工作物が多く見つかった。その中にはダゲレオタイプ写真や木のマッチも入っており、川の泥の中に保存されていたものだった。 過去にスペインが2世紀の間フロリダを植民地にしていたが、アメリカ合衆国の東海岸では最後まで開発や探検が遅れていた場所となった。南北戦争の後、フロリダ州は負債が多すぎて、道路や鉄道が引けず進歩を妨げていた。1881年、フロリダ州知事ウィリアム・ブロクサムが、ペンシルベニア州を本拠とするハミルトン・ディストンという工業資本家に直接訴えて、まずカルーサハッチー川を通る蒸気船の航路を改善するために運河を建設し、さらに州の中央部の土地の排水を行って農業の生産を上げられる土地にすることを目指した。ディストンはさらに中央フロリダの土地400万エーカー (16,000 km2) を100万ドルで買取りを勧められた。これは当時、歴史上でも最大級の土地買収だと伝えられた。ディストンは最終的に土地の排水に成功したが、その投資は観光業を興し、鉄道界の大立者であるヘンリー・モリソン・フラグラーやヘンリー・ブラドリー・プラントをしてフロリダの東海岸に鉄道を建設させることを可能にした。またサンフォードからタンパまでの鉄道も引かれた。ディストンはキシミー、セントクラウドの町や、その他フロリダ西海岸の町幾つかを設立した。 1843年、ディストンの行った改革を報告する「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、ディストンが土地を購入してその後の開発を行う前に、フロリダで見る価値のある数少ない場所はジャクソンビルとセントオーガスティンであり、おそらくパラトカまではセントジョンズ川を一夜の旅だった。1883年までに、観光地の呼び物は250マイル (400 km) 南まで延伸された。人口が増えるに連れてセントジョンズ川により多くの注目が集まるようになった。フロリダはその水や柑橘類で衰えた健康を癒すことのできる異国情緒のある不思議の国というふうに描かれ、この地域は旅行記で特集されるようになった。詩人ラルフ・ワルド・エマーソンは患っていた気管支炎を癒すために短期間セントオーガスティンに滞在し、北フロリダを土地投機家が群れ集まる「グロテスクな地域」と呼んだ。エマーソンは奴隷の公開売買を痛切に嫌っており、その嫌悪の列に加えていた。しかし南北戦争後、著名作家のハリエット・ビーチャー・ストウがジャクソンビルの近くに住み、セントジョンズ川を遡ってそれを感情を込めて記した。「大洋からセントジョンズ川の入口は私がこれまで通った中でも最大級に並みはずれて印象的な景色であり、天気が良ければ、その景色は壮大なものになる」と記した。ストウの回想録『ヤシの葉』は1873年、一連の故郷への手紙として出版され、大変影響力を持ったので、北部の住人をフロリダに誘うことになった。 フロリダを多くの人々が訪れるようになって、予期せぬ問題が大きくなった。パラトカ近くの冬の家に住んでいる女性が、その裏庭を美化しようとセントジョンズ川にホテイアオイを導入した。その10年後、紫の花が着いたホテイアオイは川面とその側道5千万エーカー (200,000 km2) を覆うほどに繁殖し、深刻な外来種問題になった。ホテイアオイは密度濃く繁茂するので、船の航行や釣りを妨げ、川底まで太陽光が届かないので水中の動植物にも影響した。フロリダ州政府はこの植物が厄介者だと判断し、1890年から1930年の間に60万ドルを費やして、北フロリダのクリークや川から排除しようとしたが、うまく行かなかった。
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