パフラヴィー朝時代
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1925年ガージャール朝廃止を決議した国民会議の推戴によってパフラヴィー朝が誕生した。 散文に関していえば、この時代に現代ペルシア散文学の創設者ともいわれるジャマールザーデ(英語版)が登場した。ジャマールザーデは、従来不適当とされてきた俗語・口語・卑語の多用により、大衆の生活を短編小説で描いた。彼は文学作品を通して痛烈な社会批判を行い、民衆の覚醒を試みた。ジャマールザーデの基本路線を受け継ぎ、さらに発展させたのがサーデグ・ヘダーヤトである。彼の代表的な作品『盲目の梟』は、1930年代のイラン知識人たちの暗澹たる精神状況を芸術的に昇華させた傑作である。へダーヤトの流れを汲み登場したのがサーデク・チューバク(英語版)である。彼もまた俗語を駆使して執筆を行った。人間行動の内面的動機への鋭い洞察力は高く評価されている。 第一次世界大戦期から第二次世界大戦期にかけて人気を博したのはムハンマド・へジャーズィー(英語版)であった。彼は政府の要職を歴任した高官であり、作家としても多くの短編・長編小説を執筆した。ムハンマド・へジャーズィーとほぼ同時期の作家にアリー・ダシュティー(英語版)がいた。その後は左翼活動に従事した作家ボゾルグ・アラヴィーが登場した。 この時代の詩は、第一次世界大戦前までは、古典詩のスタイルを踏襲する形で社会問題をテーマにしているということが特徴だった。例えば、20世紀を代表する愛国詩人バハール(ペルシア語版)、女流詩人エーテサーミー、ファッルヒー(英語版)、ラーフーティー(英語版)がこの時期を代表する詩人である。 第一次世界大戦以降は、古典・伝統派に挑戦し、新たな手法によって作詩を試みる詩人が現れた。ここでいう新たな手法というのは、古典詩の詩形、韻律の脱却した自由詩をいう。この自由詩運動の先駆者・指導者がニーマー・ユーシージであった。 立憲革命から20世紀前半までのペルシア文学の傾向は、西欧の文学を取り入れることにあった。しかし、1960年代になると、そのような西欧化は知識人の間で問題視されるようになる。この時代のイランの西欧化に対して声高に意義を唱えたのは知識人ジャラール・アーレ・アフマドであった。このような西欧化批判は、ゴラームホセイン・サーエディー(英語版)の小説や、アハヴァーネサーレス(英語版)、フォルーグ・ファッロフザードの詩にみられる。
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パフラヴィー朝時代
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イランでは王朝の交代とともに遷都が行われるのが常であったが、レザー・シャーは首都をテヘランのままにし、逆に大規模な改造を次々と行っていった。 1934年には城壁が撤去され、跡地には北のシャー・レザー通り(現在のエンゲラーブ通り)、東のシャバーズ通り、南のシューシュ通り、西のネザミ通りの4つの大通りが整備された。また、旧市街を貫通する直線の大通りを建設し、旧城壁の環状道路と直線道路の交点には円形の広場が設置された。旧城壁の南端、シューシュ通りの南側にテヘラン中央駅が建設されたのもこの時期のことである。現在のテヘランの基本構造はこの時期によって完成したため、現在のテヘランは「レザー・シャーの個人的創造物」ともいわれる。 第二次世界大戦中、レザー・シャーは親ドイツの立場をとり、ナチス・ドイツに侵攻されているソヴィエト連邦への支援ルートとしてイラン縦貫鉄道を使用することを拒否したため、ソ連軍とイギリス軍によって1941年に イラン進駐が引き起こされ、レザー・シャーは退位。9月17日には両軍がテヘランに入城した。王位は息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーが継いだ。1943年には連合国首脳がテヘランに集まり、テヘラン会談を行った。 戦後、モハンマド・レザー・パフラヴィーは父王の政策を受け継いで近代化を進めた。テヘランは首都として急成長を続けており、城壁の撤廃によって郊外への都市の成長も急速に進んだ。とくに、扇状地の北端はガージャール朝時代より避暑地として上流階級の別荘地となってきたが、都市の急成長とモータリゼーションの進行は。この地域を新興高級住宅地とし、さらにこの両区域を結ぶ地域も高級住宅街として発展していった。富裕層が住むシャー・レザー通りの北側には新たなビジネス中心が作られ、開発が進んだ。モハンマド・レザー・パフラヴィーも1971年にペルシャ帝国建国2500年祭記念事業としてシャーヤード・タワー(現アーザーディー・タワー)を市の西部に建設するなどモニュメントの建設を行い、テヘランの整備に努めた。
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パフラヴィー朝時代
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「東クルディスタン」の記事における「パフラヴィー朝時代」の解説
1930年、シムコはオシュナビーエ(英語版)周辺でパフラヴィー朝に殺害された。この後、レザー・パフラヴィーはクルド人に厳しい政策を取るようになり、何百人ものクルド人首長が難民にされ、土地は接収された。 1941年9月、第二次世界大戦が始まると、連合軍は中立国のパフラヴィー朝を侵略し、国軍は直ちに撃破された。テヘランに監禁されていたクルド人首長の息子達は脱出する機会を得た。バーネ(英語版)出身のHama Rashidは、西部のサルダシュトやバーネ、マリーバーンを征服した。 1944年、Hamaは国軍に追放された。 1945年8月、イラン・クルディスタン民主党(英語版)が結成された。 1946年1月、ソ連の傀儡政権として、西アーザルバーイジャーン州西部にマハーバード共和国が建国された。首都はマハーバードで、他にはブーカーンやピーランシャフル、オシュナビーエを支配した。12月、ソ連撤退に伴うパフラヴィー朝の侵略によって、マハーバード共和国は11ヶ月で滅亡した。 1947年3月、カーズィー・ムハンマド(英語版)元大統領は絞首刑で殺害された。
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パフラヴィー朝時代(1925~1979年)
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「日本とイランの関係」の記事における「パフラヴィー朝時代(1925~1979年)」の解説
1957年6月、イランの皇妹ファーテメ・パフラヴィー(ペルシア語版、英語版)と同夫君が訪日。1958年5月、皇弟ゴラームレザー・パフラヴィー(ペルシア語版、英語版)が訪日し、その後、皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが国賓待遇で訪日した。その後、皇族が訪日することなく1979年に王政が打倒されたので、王政復古が起こらない限りは、これが史上最後のイラン皇族の訪日となる。また、これまでイランの最高指導者が訪日した例はないので、現時点では、1958年の皇帝来日がイラン国家元首の最後の訪日となっている。(後にハータミー大統領が訪日するが、イランの国家元首は最高指導者であり、大統領は首脳ではあるが国家元首ではない。) 1971年10月、三笠宮妃百合子が、ペルシャ帝国建国2500年式典台臨のためイランを訪問。以後、日本の皇族がイランを訪問したことはないので、これが日本の皇族がイランを訪問した最後の例になっている。 1978年9月、福田赳夫内閣総理大臣がイランを訪問。翌年2月に革命が起こってパフラヴィー朝が崩壊したので、これが日本の首相による最後のパフラヴィー朝イラン訪問となった。
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