その後の変化
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「東京都交通局6000形電車 (鉄道)」の記事における「その後の変化」の解説
1988年秋頃に側面のみであった青帯を正面前照灯にも回り込むように変更した。また1989年春からは一部編成を除いて冷房化と車体修繕(都営地下鉄方針B修繕)も開始した。改修内容は以下の通り。 化粧板を白ベースに薄茶の模様付きに張り替え、側扉は車内側もステンレス地のままとなった。なお、初期車のうち増結車の一部は行われなかった。 ワイパーを空気式から電動式に交換。 冷房装置は6271・6281編成は集中式、6121・6151 - 6261編成は集約分散式2台が設置された。冷風吹き出し口はいずれもスポット方式である。 冷房装置のスペースのみ確保し営業運転をしていることがあった。 車体修繕に関しては志村車両工場(当時)にて京王重機整備が出張工事の扱いで担当している。現在でも秩父鉄道5000系電車と熊本電気鉄道6000形電車の車内で京王重機の銘板を見ることができる。また1993年度より東京都のシンボルマークである「いちょう」が先頭車の前面と側面に貼り付けられた。
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その後の変化
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民間で繰り広げられていた児童文化運動に転機が訪れるのは、1938年(昭和14年)に内務省刑保局図書課による「児童読物改善に関する内務省指示要綱」の発令であった。昭和初期から目立ち始めていた扇情的、興味本位中心の児童向け雑誌や赤本漫画に危惧を抱いていた波多野完治ら児童文化運動を繰り広げていたメンバーは相談を受け、協力するが、やがて国家統制的な小国民文化に強制的に移行され、児童文化という言葉も消されてしまうのだった。戦後になって再び児童文化という言葉は復権するが、1960年代になり、大人が子どものためにだけでなく、子どもたち自身が子どものために創作したものも加えるべきとの議論も行われるようになり、滑川道夫その他の研究者がさまざまな概念定義を対案として提出した。さらに、1980年頃から児童文化に対抗して、子どもを取り巻く一切の文化、児童文学、唱歌などの芸術的な創作だけでなく、遊びや歌、言葉、また商品的にマーケットとして提供されるようなものまで含めて子どもの文化、子ども文化といった概念も登場し、児童文化は、大人によって子どものために創作、提供された文化を指して言う狭義の意味のとして使われる傾向が強くなってきた。
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その後の変化
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「大阪市交通局6000形電車」の記事における「その後の変化」の解説
堺筋線用の60系の登場を控えた1968年(昭和43年)より、6000形は800形に、6100形は900形にそれぞれ改称・改番された(ともに元の車両番号-5200)。時を同じくして特徴的だった塗装も当時の標準色であった上半分アイボリー、下半分タキシーイエローのツートンカラーに改められた。 1969年(昭和44年)の本町 - 谷町四丁目間開業を機に中央線全線の保安装置が、打子式ATSからWS-ATCに変更されることになったため、営業運転で先頭に出る運転台は車上装置設置の関係で助士席側の前面窓が30系と同様に小型化され、窓の寸法は左右非対称になった。 また、車両側にラインカラーを表示することになり、1975年(昭和50年)頃より塗装がアッシュグリーン地にスペクトリウムグリーン(中央線のラインカラー)の帯へと変更された。前面については当初規定により貫通扉に表示していたが、高架線上での視認性向上のため後に腰部全体へも追加された。なお、森之宮検車場配置の50系には一部谷町・中央・千日前線共通運用となっている車両が存在していたため、共通運用解消までラインカラーの表示が遅れていたが、800・900形は製造の経緯から中央線専用となっていた。この間に余剰となった911号が1972年(昭和47年)3月に廃車された。 後年さらなる固定編成化が進むにつれて、本形式のような1C4M方式車は扱い難い存在となったため、1978年(昭和53年)から全車を対象に運転台の撤去および電装解除を実施した。同時に車内の照明設備の見直し(蛍光灯グローブの撤去・灯数削減)も実施された。800形は5800形へ、900形は5900形へそれぞれ改称・改番し(車番は原番+5000)、谷町線所属の50系の中間付随車へ転用されて全車谷町線へ転属した。 その後、同線の50系運行終了に伴い、1991年(平成3年)までに全車廃車された。
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その後の変化
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「秩父鉄道500系電車」の記事における「その後の変化」の解説
登場以来変化のなかった500系であったが、1985年頃には前面のサボを廃し助士席側に100形と同タイプの方向幕が取り付けられた(前面サボ受けには「秩父鉄道」のサボを表示)。1986年には黄色に茶帯のカラーになった。この際「秩父鉄道」のサボとサボ受けは撤去され、同位置に「秩父鉄道」のロゴが取り付けられた。白熱灯であった前照灯も、1980年代後半にシールドビーム化されている。
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