お召し列車運用
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「名古屋鉄道トク3号電車」の記事における「お召し列車運用」の解説
トク3に先立って導入された貴賓車トク1・トク2は、皇族の御乗用車両のほか、浅野氏中興の祖である浅野長政の旧邸跡(後に浅野公園として整備)の最寄り駅が一宮線浅野駅であったため、元広島藩藩主で華族の浅野長勲が同所を訪問する際に運用された。長勲の旧浅野邸訪問は複数回にわたり、またその際には鉄道省名古屋鉄道局長や内務省警保局長など中央政界と通じる要人が陪乗したことによって、貴賓客輸送の実績に加えて郡部線の主要路線区である一宮線・犬山線の存在を中央政界に知らしめたことが、後のお召し列車の運行に繋がったものとされる。 トク3の導入から約半年を経過した1927年(昭和2年)9月末、旧・名古屋鉄道に対してお召し列車運行要請の通知が下された。これは陸軍特別大演習が名古屋地区において同年11月に開催されることが決定し、その視察のため昭和天皇が名古屋を訪れるにあたり、名古屋から犬山地区への行幸に際して旧・名古屋鉄道の押切町 - 犬山間を利用することとなったものである。今上天皇が行幸に際して国有鉄道ではなく地方私鉄を利用するのは史上初のことであり、現・名古屋鉄道(名鉄)発行の社史『名古屋鉄道社史』はこのお召し列車運行を「破格の栄光に浴した」 と自評している。 このお召し列車運行に先立って、旧・名古屋鉄道はトク3を御料車に充当すべく、各部の改造を実施した。車内外の徹底した重整備のほか、甲室側の座席配置を変更してソファーの1席を玉座に充て、玉座前には机を設け、その他陪乗者用にソファーを3席存置した。これらは固定配置とせず、往路・復路とも玉座の向きを進行方向と同一とするよう定められた。また運行に際してはトク3を中間付随車扱いとし、当時最新型の一般用車両であったデセホ700形2両を動力車として前後に連結し3両編成で運行するため、トク3の連結器を従来の連環式連結器からデセホ700形と同一のシャロン式並形自動連結器に交換した。なお、動力車となるデセホ700形2両は同年10月落成の最新型車両デセホ706・デセホ707が充当されることとなり、同2両についてはトク3と連結する側の妻面窓を磨りガラスへ交換し、妻面窓枠を固定窓仕様とするよう指定された。 特別整備は地上設備にも及び、軌条・架線・保安装置などの徹底した点検が実施されたほか、お召し列車の運行区間である押切町 - 犬山間の全ての枕木を新品へ交換した。また復路の乗車駅となる犬山橋駅(現・犬山遊園駅)については、一行の円滑な通行を目的として駅構内の踏切を一時的に撤去し、盛り土を行って段差を除去した。 担当乗務員は技量に優れた者の中から身体検査および思想調査を経て、運転士の加藤鎌太郎以下5名の乗務員が選出された。お召し列車への乗務は社の名誉を一身に背負った業務であり重圧も大きく、加藤は失敗があれば切腹する覚悟であることを周囲に伝えていたとされる。 お召し列車の運行ダイヤは、往路が押切町10:55発・犬山11:40着、復路が犬山橋15:50発・押切町16:35着と決定、1927年(昭和2年)11月2日に常務取締役の跡田直一以下旧・名古屋鉄道の幹部社員数名が添乗し、本番と同一の運行ダイヤにて試運転が実施された。当時の旧・名古屋鉄道は2両編成以上の定期列車の運行実績がなく、またトク3の制動装置は本来連結運転に適さないSM-3直通ブレーキ仕様であったことから、特に制動装置の動作が念入りに確認された。地元紙「新愛知」は、この試運転を翌11月3日付の紙面にて取り上げ、「成績は非常に良好であった」 と報じた。 1927年(昭和2年)11月20日のお召し列車運行当日は、全行程にて取締役社長の上遠野富之助が先導を務め、役員以下全ての本社勤務の従業員が動員されて沿線警備などにあたった。一行は犬山駅にて下車後、犬山城へ立ち寄った後に犬山ホテルにて昼餐会を開き、犬山城周辺から木曽川畔を散策したのち犬山橋駅より帰路に就き、全行程は無事終了した。 後日、昭和天皇より加藤以下5名の乗務員に対して銀盃が下賜されたほか、旧・名古屋鉄道の全社員に対して国旗を掲揚したお召し列車車両が彫り込まれた記念メダルが配布された。
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