谷崎潤一郎 来歴・人物

谷崎潤一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 20:28 UTC 版)

来歴・人物

谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者早稲田大学教授)となる[1]

母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家[3]から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった[1]

1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[4]。卒業後、第一高等学校に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]

一高時代、校長の新渡戸稲造と(1908年〈明治41年〉)

1908年(明治41年)、一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1910年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった[5]

大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[5]

関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[6][7]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[7]

太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている[8]

同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。 1950年代には『細雪』、『蓼喰ふ虫』が翻訳され、アメリカでも出版[9]ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ[10][11]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[11][12]。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[13]


注釈

  1. ^ 小谷野敦『谷崎潤一郎伝』中央公論新社によると、これは弟の精二も作家であったため、区別のため「大谷崎」「小谷崎」とされたもので「だいたにざき」とルビを振った文章が昭和初年に見られるが、のち小林秀雄や三島由紀夫が尊称と勘違いし、三島は「おおたにざき」と呼ぶべきだとした。
  2. ^ 没後に数度刊行。新版は2015年‐2017年に刊行(中央公論新社・全26巻)
  3. ^ 水島爾保布の初刊装画による『人魚の嘆き・魔術師』(春陽堂書店、2020年)が刊行。研究者の山中剛史が『谷崎潤一郎と書物』(秀明大学出版会、2020年)で(他作品も含め)論じている。

出典

  1. ^ a b c d e 「江戸素町人の血」(アルバム谷崎 1985, pp. 2–17)
  2. ^ 「谷崎潤一郎年譜」(夢ムック 2015, pp. 262–271)
  3. ^ 谷崎精二『生ひたちの記』には、里見氏から出た家柄とある。また、潤一郎の『朱雀日記』「嵯峨野」の章には、新田義貞の妾だった江澤局(えざわのつぼね)が父方の先祖だったと記されている。
  4. ^ 『尋中一中日比谷高校八十年の回想』(如蘭会編、1958年)、須藤直勝 『東京府立第一中学校』(近代文藝社、1994年9月) P.147
  5. ^ a b 「極彩色の悪夢」(アルバム谷崎 1985, pp. 18–31)
  6. ^ a b c d e 「関西移住と美意識の変容」(アルバム谷崎 1985, pp. 32–64)
  7. ^ a b c d e f 「古典回帰の時代」(アルバム谷崎 1985, pp. 65–77)
  8. ^ 谷崎松子瀬戸内寂聴の対談「愛と芸術の軌跡 文豪と一つ屋根の下」(別冊婦人公論 1983年夏号)。『あざやかな女たち――瀬戸内晴美対談集』(中央公論社、1984年1月)。瀬戸内 1997, pp. 137–180に所収
  9. ^ 「大谷崎の死をいたむ 世界文学の損失」『日本経済新聞』昭和40年7月30日夕刊7面
  10. ^ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年 日本経済新聞2014年1月3日、2014年1月7日閲覧
  11. ^ a b 64年ノーベル文学賞:谷崎、60年に続き最終選考対象に 毎日新聞 2015年1月3日閲覧
  12. ^ 谷崎潤一郎と西脇順三郎、ノーベル賞候補に4回 読売新聞 2013年1月14日閲覧
  13. ^ a b 「戦中から戦後へ」(アルバム谷崎 1985, pp. 78–96)
  14. ^ 石川悌二『近代作家の基礎的研究』、p.226-229
  15. ^ 石川悌二『近代作家の基礎的研究』、p.223-224
  16. ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日
  17. ^ a b c d 三島由紀夫舟橋聖一の対談「大谷崎の芸術」(中央公論 1965年10月号)。『源泉の感情』(河出書房新社、1970年10月)。三島39巻 2004, pp. 485–498に所収
  18. ^ a b c 「大谷崎」(『現代日本文学全集18谷崎潤一郎集』月報 筑摩書房、1954年9月)。三島28巻 2003, pp. 344–346に所収
  19. ^ 「谷崎文学の世界」(朝日新聞夕刊 1965年7月31日号)。三島33巻 2003, pp. 484–487に所収
  20. ^ a b c 小谷野 2006
  21. ^ 「『国を守る』とは何か」(朝日新聞 1969年11月3日号)。三島35巻 2003, pp. 714–719に所収
  22. ^ 作家論 1974
  23. ^ 「日本の誇り得る探偵小説」。江戸川24巻 2005, pp. 196–200に所収
  24. ^ 類別トリック集成江戸川27巻 2004, p. 209に所収
  25. ^ D坂の殺人事件江戸川1巻 2004に所収
  26. ^ 「日本探偵小説の系譜」。江戸川27巻 2004, pp. 406–409に所収
  27. ^ 「作品 第二號」創藝社、1948(昭和23)年11月15日
  28. ^ 谷崎潤一郎『谷崎潤一郎全集 第二十二巻』中央公論社 1968年 362頁
  29. ^ 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集 33』新潮社 2003年 485頁
  30. ^ 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集 36』新潮社 2003年 95-96頁
  31. ^ 谷崎潤一郎『谷崎潤一郎全集 第四巻』中央公論社 1967年 452頁
  32. ^ a b 「一 つれなかりせばなかなかに」「二 我といふ人の心は」「三 ああ、青春の日よ」「四 『影』」「五 話をこわしたのは、このぼくなんだよ」(瀬戸内 1997, pp. 5–136)
  33. ^ a b 丸谷 1993, pp. 58–60
  34. ^ 「比類なき『大谷崎』——震災と変容」(太陽 2016, pp. 75–87)
  35. ^ 今東光 『東光金欄帖』(中公文庫、1978年)谷崎潤一郎 P.111 - 123
  36. ^ 直井明 『本棚のスフィンクス』(論創社)P.336
  37. ^ 小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』(幻冬舎新書 2007年9月)P.102 - 104
  38. ^ 『翻訳小説』号。他に、山本有三訳「永遠の兄弟の眼」(シュテファン・ツヴァイク)、正宗白鳥訳「沈黙」(ポウ)、佐藤春夫訳「揚州十日記」(王秀楚)。他に、死の四、五日前の芥川龍之介にも依頼があった。( 木佐木勝『木佐木日記』1927年7月30日)
  39. ^ 単行版が、伊藤整『谷崎潤一郎の文学』(中央公論社、1970年)
  40. ^ 小田原文学館”. 小田原市. 2024年1月6日閲覧。






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