プラトン 生涯

プラトン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 19:14 UTC 版)

生涯

ラファエロ画「アテナイの学堂」 フレスコ画。なお、これはレオナルド・ダ・ヴィンチ自画像がモデルとされる。

少年・青年期

紀元前427年アテナイ最後の王コドロス英語版の血を引く一族の息子として、アテナイにて出生[注 3]

当時の名門家では文武両道を旨とし知的教育と並んで体育も奨励された。プラトンの本名は不明であるが、祖父の名にちなんで「アリストクレス」と命名されたのではないかと推測されている。ただし、現存する資料において確たる証拠はない[7]。体格が立派であったため、 レスリング(パンクラチオン)の師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した[2]古希: πλατύς=広い) 。 ただしこれには異説もあり、文章表現の豊かさから名付けられたという説や、額が広かったから名付けられたという説を唱える著者もいる[2]。以降、彼はこの名前を使うため、後世の資料には、プラトンの表記のみが残っている[7]

彼のレスリングの業績について、アリストテレスの弟子(したがってプラトンの孫弟子)であるメッセネのディカイアルコスは、『哲学者伝』第一巻において、プラトンはイストミア大祭に「出場」したと述べている(「優勝」ではない)[2]。この記述は後世になるほど誇張され、アプレイウスはプラトンの出場リストにピューティア大祭を付け加えた他、古代末期の著者不明の書物ではオリュンピュア大祭(古代オリンピック)とネメア大祭で「優勝」したとまで述べているものさえある[8]。現代の研究者は一般にプラトンの古代オリンピックへの出場経験・優勝経験を疑問視しているが、紀元前408年のレスリング優勝者の名前が不明であること等から、優勝の可能性も完全なるゼロではないと指摘する研究者もいる[8]

若い頃はソクラテスの門人として哲学や対話術などを学びつつ、政治家を志していたが、三十人政権やその後の民主派政権における惨禍を目の当たりにし、現実政治に幻滅を覚え、国制・法律の考察は続けたものの、現実政治への直接的な関わりは避けるようになった[3]。特に、紀元前399年、プラトンが28歳頃、アテナイの詩人メレトスの起訴によって、ソクラテスが「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、投票によって死刑に決せられ、毒杯を仰いで刑死した[注 4]ことが、その重要な契機となった。

その後、第一回シケリア旅行に出かけるまでの30代のプラトンは、最初期の対話篇を執筆しつつ、後に「哲人王」思想として表明される政治と哲学を結びつける構想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、既にこの頃、密かに温めていたことが、『第七書簡』等で告白されている。

なお、アリストテレスによれば、プラトンは若い頃、ソクラテスよりもまず先に、対話篇『クラテュロス』にも題して登場させているクラテュロスに、ヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想(感覚的事物は絶えず流転しているので、そこに真の認識は成立し得ない)に、生涯に渡って影響を受け続けたという[9]

第一回シケリア旅行

この後、紀元前388年(-紀元前387年)、39歳頃、プラトンはアテナイを離れ、イタリアシケリア島(1回目のシケリア行)、エジプトを遍歴した。この時、イタリアでピュタゴラス派およびエレア派と交流をもったと考えられている。また、20歳過ぎの青年ディオンに初めて会ったのも、この時である[3]

ギリシア哲学者列伝』第3巻第1章18節-21節には、この際プラトンは、シュラクサイ僭主ディオニュシオス1世(下述するディオニュシオス2世の父)とも交際したが、口論となって僭主の機嫌を損ね、ラケダイモン(スパルタ)人へと売り飛ばされ、アイギナ島で死刑か奴隷売買の危機に遭ったが、キュレネ派のアンニケリスに救われたという説が紹介されているが、真相は定かではない。

学園開設

紀元前387年、40歳頃、プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス英語版の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた[注 5]。場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは天文学生物学数学政治学哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。

紀元前367年、プラトン60歳頃には、アリストテレスが17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトン没後、その甥のスペウシッポスが跡を継いで学頭となり、アリストテレスはアカデメイアを去った。

第二回シケリア旅行

紀元前367年(-紀元前366年)、60歳頃、ディオン[注 6]らの懇願を受け、シケリア島のシュラクサイへ旅行した(2度目のシケリア行)。シュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世を指導して哲人政治[注 7]の実現を目指したが、プラトンが到着して4ヶ月後に、流言飛語によってディオンは追放されてしまい、不首尾に終わる[3]

第三回シケリア旅行

紀元前361年(-紀元前360年)、66歳頃、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ、今度はプラトン自身が軟禁された。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス派の政治家アルキュタスの助力を得て、辛くもアテナイに帰ることができた。

シュラクサイにおける哲人政治の夢は紀元前353年、プラトンが74歳頃、ディオンが54歳にして政争により暗殺されたことによって途絶えた。

最期

プラトンは晩年、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年紀元前348年とも)、80歳で没した。

遺体はアカデメイア内に埋葬された[10]2024年に解読されたパピルスヘルクラネウム・パピルスピロデモスの著作)には、その具体的な場所が記されている[11]。同パピルスには、最期の夜の様子や、奴隷として売られた状況についても記されている[11]


注釈

  1. ^ “ヨーロッパの哲学の伝統のもつ一般的性格を最も無難に説明するならば、プラトンに対する一連の脚註から構成されているもの、ということになる”[1](『過程と実在』)。ちなみに、ホワイトヘッドによるこのプラトン評は「あらゆる西洋哲学はプラトンのイデア論の変奏にすぎない」という文脈で誤って引用されることが多いが、実際には、「プラトンの対話篇にはイデア論を反駁する人物さえ登場していることに見られるように、プラトンの哲学的着想は哲学のあらゆるアイデアをそこに見出しうるほど豊かであった」という意味で評したのである。
  2. ^ 「肉体(ソーマ)は墓(セーマ)である」の教説はオルペウス教的と評される。ただし、E・R・ドッズは著作で、通説を再考しこれがオルペウス教の教義であった可能性は低いとみている(『ギリシァ人と非理性』みすず書房、p.182)。
  3. ^ プラトンの家系図については曽祖父クリスティアスの項を参照
  4. ^ この裁判を舞台設定としたのが『ソクラテスの弁明』である。
  5. ^ シュヴェーグラー『西洋哲学史』によれば、この地所はプラトンの父の遺産という。また、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという。
  6. ^ ディオゲネス・ラエルティオスアリスティッポスの説として述べるところによれば、ディオンはプラトンの恋人(稚児)であった。プラトンは、他にもアステールという若者、パイドロス、アレクシス、アガトンと恋仲にあった。また、コロポン生まれの芸娘アルケアナッサを囲ってもいた。『ギリシア哲学者列伝 (上)』岩波文庫、271-273頁。
  7. ^ 対話篇『国家』に示される。
  8. ^ 一般的には「貴族制」を指すが、ここではプラトンは語義通り「優秀者」による支配の意味で用いている。
  9. ^ 一般的にはソロンの改革に見られるような、財産によって階級・権限を分けた「財産政治/制限民主制」を意味する言葉だが、ここではプラトンはクレタスパルタに見られるような「軍人優位の、勝利と名誉を愛し求める体制」の意味で用いている。『国家』547D-548C
  10. ^ ここではプラトンは、この言葉を「財産評価に基づく体制」「財産家・富裕層による支配体制」の意味で、すなわち一般的には先の「ティモクラティア」という言葉で言い表されている意味内容で用いているので紛らわしい。『国家』550D, 551A-B
  11. ^ 『国家』においては「優秀者支配制」の意味で用いられていたが、ここでは本来の意味である「貴族制」の意味で用いられている。
  12. ^ ジャック・デリダグラマトロジーについて』に代表されるように、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と考える者もいるが、上記『第七書簡』の記述からも分かるように、プラトンは「書き言葉」「話し言葉」を問わず、「言葉」全般を不完全なものとみなしてそこへの依存を批判しているのであり、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と解釈するのは明確な曲解・誤解である。
  13. ^ ステファヌス」(Stephanus)とは、フランス姓「エティエンヌ」(Étienne)のラテン語表現。
  14. ^ アリストテレスの思想の成立には、師プラトンが大きく関与したこと考えられている。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。

出典

  1. ^ カール・ポパー「開かれた社会とその敵」(未來社)、佐々木毅「プラトンの呪縛」(講談社学術文庫)、「現代用語の基礎知識」(自由国民社、1981年)90p、「政治哲学序說」(南原繁、1973年)
  2. ^ a b c d ディオゲネス・ラエルティオスギリシア哲学者列伝』第3巻「プラトン」4節。(加来彰俊訳、岩波文庫(上)、1984年、pp. 251-253)
  3. ^ a b c d 第七書簡
  4. ^ 『国家』436A、580C-583A、『ティマイオス』69C
  5. ^ ティマイオス
  6. ^ 法律』第10巻
  7. ^ a b 斎藤忍随『人類の知的遺産7 プラトン』講談社、1983年
  8. ^ a b Miller, Stephen G. (2012), “Plato the Wrestler”, Plato’s Academy: A Survey of the Evidence, Athens, Greece, 12-16 December 2012 
  9. ^ 形而上学』第1巻987a32
  10. ^ 『ギリシア哲学者列伝』3巻41
  11. ^ a b 黒焦げの巻物を解読、プラトン埋葬場所の詳細判明か 最後の夜の様子も”. CNN.co.jp. 2024年5月4日閲覧。
  12. ^ パイドロス』266B
  13. ^ 『プラトン全集13』岩波書店p814
  14. ^ a b 『国家』550B
  15. ^ 『国家』553C, 562B
  16. ^ 『国家』562B
  17. ^ パイドロス』277D-279B
  18. ^ 国家』第10巻
  19. ^ ギリシア哲学者列伝』3巻56-62
  20. ^ G・E・L・オーエン著、篠崎栄訳「プラトン対話篇における『ティマイオス』の位置」、井上忠山本巍 編訳『ギリシア哲学の最前線 1』東京大学出版会、1986年、ISBN 9784130100199。105頁(訳者解題)
  21. ^ 『プラトン全集1』岩波書店 p367, 419
  22. ^ 『メノン』岩波文庫pp161-163
  23. ^ 『饗宴』岩波文庫p8
  24. ^ 『プラトン全集1』岩波書店 p419
  25. ^ 『パイドン』岩波文庫p196
  26. ^ 『ゴルギアス』岩波文庫 p299
  27. ^ 『メノン』岩波文庫pp162-163
  28. ^ 『国家』(下)岩波文庫p433
  29. ^ 『パイドロス』岩波文庫p191
  30. ^ 『テアイテトス』岩波文庫p295
  31. ^ 『プラトン全集3』岩波書店 p396, 435
  32. ^ 『プラトン全集13』岩波書店pp822-828
  33. ^ 『プラトン全集13』岩波書店p829
  34. ^ 『プラトン全集4』岩波書店p409
  35. ^ 納富信留『プラトン 理想国の現在』(慶応義塾大学出版会、2012年)






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