駿府城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 14:42 UTC 版)
概要
今川館時代
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
文明8年(1476年)、今川義忠が戦死すると、後継者の龍王丸(後の今川氏親)の後見人である伊勢盛時(北条早雲)と一門の小鹿範満が対立、11年後の文明19年(1487年)、盛時は今川館の範満を襲って龍王丸を当主に据えた。
天文5年(1536年)、花蔵の乱にて氏親の子である今川義元が今川館の主となる。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、桶狭間の戦いで義元が戦死すると甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消された。
永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。
ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である[1]。
安土桃山時代
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。この時に初めて天守が築造されたという。そして翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去する前、徳川方の東軍につくことを決め、戦いの後に嫡子の中村一忠が伯耆に転封されたため、駿府は内藤信成が治めた。
江戸時代
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した(それにより駿府藩は一時的に廃藩となった)。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。1607年(慶長12年)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)完成した。天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
駿府城の築城に当たっては伊豆石という伊豆半島産の石材も使用されたようである。沼津市井田の井田高田四郎家文書、宝暦・明和・文化年間の井田村「村差出帳」に、水戸徳川家の石丁場と、江戸・駿府城の為に石を切り出した公儀の石丁場が所在した記録が残っている。また、細田家史料には、「駿河様御丁場」の記載がある。沼津市重寺村付近の、地元の室伏家文書には、天和年間に江戸の町人請負、寛永六年頃に駿河徳川家、寛永十二年頃に越前最小、享保十四年「村差出し」などから駿府城・久能山・江戸城の御用石を商人請負で切り出していたことがわかっている[2]。
1609年(慶長14年)に家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。
現在
三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しているが、二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として市民に開放されている。三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存しない。中堀は現存するが一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっている。また、内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。
1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が伝統的工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。また、2014年(平成26年)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。「駿府城二之丸東御門」が、平成9年度手づくり郷土賞受賞。
2016年(平成28年)8月より天守台の発掘調査が始まった。調査は2020年2月まで行われ、石垣の状態確認や学術データの採取が実施される[3]。
注釈
- ^ 静岡駅前(地図 - Google マップ) ※該当地点は赤色でスポット表示される。
- ^ 安西4丁目交差点(地図 - Google マップ) ※該当地点は赤色でスポット表示される。
- ^ 葵区本通3丁目(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。
- ^ 駿府城 坤櫓(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
出典
- ^ 大石泰史『城の政治戦略』KADOKAWA〈角川選書〉、2020年、62-76頁。ISBN 978-4-04-703676-5。
- ^ 『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、75-76頁。
- ^ a b 静岡市 観光交流文化局 歴史文化課 駿府城エリア活性化係 (2019年3月26日更新). “駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査”. 公式ウェブサイト. 静岡市. 2019年10月10日閲覧。
- ^ a b c d 田中 2012, p. 162.
- ^ a b c 田中 2012, p. 164.
- ^ a b c d e 公園整備課 1996 [要ページ番号]
- ^ a b 田中 2012, p. 165.
- ^ a b 教育委員会 1999, p. 184.
- ^ 今尾 2018, p. 286.
- ^ a b 静岡市 都市局 都市計画部 公園整備課 建設係 (2019年3月26日更新). “駿府公園の整備について”. 公式ウェブサイト. 静岡市. 2019年10月10日閲覧。
- ^ a b 田中 2012, p. 168.
- ^ “駿府城坤櫓の一般公開について”. 公式ウェブサイト. 静岡市. 2019年10月10日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 「駿府城公園:秋空に映える白い壁 坤櫓の復元工事進む 来年3月完成予定、1階内部一般者見学も /静岡」『デジタル毎日』毎日新聞社、2013年10月11日。2019年10月10日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 「〔Webリポート〕160年ぶり復元 駿府城公園 坤櫓の内部公開」『アットエース』静岡新聞。2019年10月10日閲覧。[出典無効][リンク切れ]
- ^ 『家康公四百年祭「駿府天下泰平まつり」 9月18日(金)~9月27日(日)開催! - 静岡市』(プレスリリース)株式会社共同通信ピー・アール・ワイヤー、2015年9月9日 。2019年10月10日閲覧。
- ^ 「駿府城跡、豊臣方の「幻の城」天守台の石垣見つかる」『デジタル毎日』毎日新聞社、2018年10月16日。2018年10月17日閲覧。
- ^ 『駿河御城指図』東京大学附属図書館所蔵
- ^ 西ヶ谷 1996 [要ページ番号]
- ^ 平井 1996 [要ページ番号]
- ^ 『徳川家康と駿府大御所時代』 静岡市経済局商工部経済事務所大御所四百年祭推進室、2008年
- ^ 加藤・溝口 2008 [要ページ番号]
- ^ 内藤 2000, pp. 51–63, 66–72.
- ^ 八木 1996, pp. 84–85.
- ^ 学研 1995, p. 67.
- ^ 学研 2004, pp. 6–7.
- ^ 大竹 1994, pp. 140–143.
- ^ 香川・西ヶ谷他 2009, p. 259.
- ^ 学研パブリッシング 2009, pp. 16–17(口絵)。
- ^ 駿府城天守閣建設可能性検討委員会 (2010年3月). “駿府城天守閣建設可能性検討委員会報告書” (PDF). 公式ウェブサイト. 静岡市. 2010年12月23日閲覧。
- ^ 『[1]駿国雑志 34巻』(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー,明治 8年)
- ^ a b 小川龍彦編著『写真集明治大正昭和静岡 ふるさとの想い出13』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 「横内門跡・草深門跡」P16、国書刊行会、1978年12月
- ^ a b 小川龍彦編著『写真集明治大正昭和静岡 ふるさとの想い出13』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 「大手門跡・城代橋附近」P17、国書刊行会、1978年12月
- ^ a b c d e “駿府御薬園跡”. 静岡市. 2020年1月20日閲覧。
固有名詞の分類
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