韓国光復軍 韓国光復軍の概要

韓国光復軍

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光復軍
광복군
太平洋戦争ビルマ戦線に9名[1]に参加
韓国光復戦線青年工作隊在柳州与各機関団体代表留別記念撮影(1939年4月4日)
活動期間 1940年9月17日1946年1月9日
活動目的 民族主義、交戦国・交戦団体への昇格
構成団体 朝鮮民族
指導者 池青天, 李範奭, 金元鳳, 金学奎, 朴始昌, 金弘壹
本部 中華民国 重慶市
活動地域 中華民国重慶市
兵力 339[2]~514名[4]
上位組織 国民革命軍[5]
大韓民国臨時政府
関連勢力 アメリカ戦略情報局(OSS)
敵対勢力 大日本帝国
戦闘 戦地の宣伝活動などに派遣(戦闘参加の記録はない)
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韓国光復軍
各種表記
ハングル 광복군
漢字 光復軍
発音 クァンボククン
日本語読み: こうふくぐん
ローマ字 Gwangbokgun
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概要

大韓民国臨時政府を正式な交戦国・交戦団体に昇格させて連合国の一員とするという政治目標を持った組織であり、正式な軍隊として連合国に認定されること[6] を“目指した”点で、他の組織とは一線を画したとされる。

結成当初は人員を確保できなかったため、総司令部だけが作られた。総司令は池青天で、参謀長は李範奭であった。1942年に朝鮮人共産主義者・金元鳳率いる朝鮮義勇隊の兵員に加えて、組織を拡大した。重慶では蔣介石を長とする国民党政府軍事委員会の国民革命軍の傘下に、1944年まであった。構成は、日本軍満洲国軍からの離脱者、十三道倡義軍独立軍や朝鮮義勇隊などの中華民国指導下の民族主義者と共産主義者である抗日パルチザンの出身者という右派左派混在し、末期の最大時でも300から500名程の規模だった。

中国全域では中国共産党影響下の朝鮮人抗日組織の方が勢力が強かったが、「光線(光復戦線)」と「民線(民族戦線)」の統合が要求されて、直接の指揮下にない朝鮮人部隊も名目上は光復軍を名乗ることがあった。結果、国家主義者と共産主義者が混在することになって、日中戦争中も消えることがなかった中国大陸内における国共内戦の対立構造の中で不和が目立った。1945年8月に漸く統帥権を得て、光復軍は朝鮮半島への潜入などいくつかの計画を温めていたが、実行する前に日本がポツダム宣言を受諾したことにより、計画は未遂に終わった。

軍隊を称していたが、連合軍の参加は認められておらず、臨政が国家として承認されなかったので国軍でもない。参戦の計画はあったが、その前に終戦に至り、9名をインドに派遣した以外はほぼ戦闘に参加することはなかった。

軍政期冷戦対立が顕在化する中で、大韓民国臨時政府は正式な政府とは認められず、光復軍も民線(左派)が含まれていたことからすでに解体を命じられ、兵士と将校はばらばらに帰国するように指示された[7]。結局、1946年1月9日、アメリカ軍政政府の命令によって武装解除・解散命令を受けた。大韓民国臨時政府および光復軍を朝鮮独立の礎となすという構想は実現せず、韓国陸軍の前身もアメリカ軍政時代アメリカ軍政庁が結成した南朝鮮国防警備隊に譲ることになった。

皮肉にも、この組織は日本軍および満洲国軍の朝鮮人将校(右派)を中心幹部としていた。光復軍は正規軍事教育不足・西欧的思考欠如・英語力の点で、米軍事顧問団からの評価が低かったために、元光復軍軍人の入隊者は少数であった[8]。また、金元鳳など旧朝鮮義勇隊メンバーを中心に朝鮮人共産主義者らは朝鮮人民共和国の建国を支持して北に行ってしまい、朝鮮人民軍に入隊した者もいた。

光復軍の最大の支援者であった中国国民党も、戦後の内戦で中国共産党に敗北して中国大陸から追われて台湾に逃れ、中国には中国共産党中華人民共和国が成立した。臨時政府の幹部の中では、臨政初代大統領も務めた李承晩がアメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして首班候補にまでなり、1948年8月15日に建国された大韓民国でも初代大統領に擁立された一方で、光復軍を構想から立ち上げた金九は、その李承晩との政争に敗れ、1949年に暗殺された。

歴史

構想から編成

光復軍の兵士
OSS将校と光復軍幹部
前列中央が李範参謀長

朝鮮独立運動家金九らによって上海1919年に設立された臨時政府である大韓民国臨時政府は、一部の秘密結社やテロ組織以外には自らの軍事組織を持たず、満洲で活躍した独立軍などの抗日パルチザンは臨時政府の指導下にはなかった。

1937年になって上海の臨時政府は独自の軍創設を計画したが、日中戦争が起こって延期された。臨時政府の所在地も上海から杭州に移動し、日本軍の進撃に追われるように、1937年11月に長沙広州を経て、1938年に柳州、1939年に四川省綦江と転々としていた。1940年9月に重慶に落ちつき、ここで光復軍総司令部が創立された。これはライバル組織である朝鮮義勇隊の成立に遅れること1年半後であった。

大韓民国臨時政府主席である金九は、光復軍宣言文を発表し、「光復軍は韓・中二つの国の独立を回復しようと共同の敵・日本帝国主義を打倒し、連合国の一員として抗戦することを目的にする」とその主旨を明らかにしたという。

光復軍総司令部創設式典は重慶の嘉陵賓館で挙行された。兵員を確保できなかったため、総司令部だけを組織した[9]。創設時の編制について明確に知られていないが、8月15日付で発刊された「大韓民國臨時政府広報」によれば、総司令に李青天、参謀長に李範奭、参謀に蔡元凱、李復源、李俊植金学奎、公震遠、副官に黄学秀、王仲良、趙時元、伝令将校に高一鳴と兪海濬、主計に安勲、金毅漢、李象萬、閔泳玖、軍医に劉振東、林義澤、厳益根が就任する予定であった[9]

1940年10月、「韓國光復軍總司令部組織條例」が公布され、これによれば総司令部は司令官と参謀長を中心に秘書処(処長:崔用徳)、参謀処(処長:蔡元凱)、副官処(処長:黄学秀)、政訓処(処長:趙擎韓)、管理処、編練処(処長:宋虎聲)、砲工兵処、経理処(処長:趙擎韓)、軍法処、衛生処(処長:劉振東)の10個処からなり、特務隊と憲兵隊を置くとした[9]。一応の組織体制を確立したが、組織を運営する人員がいなかった[9]。10個処のうち7個処にしか責任者が居らず、そのうち崔用徳、蔡元凱、宋虎聲はこの時点では中国軍に勤務しており、趙擎韓は政訓処と経理処を兼任していた[9]

1940年11月、総司令部は西安に移転[9]。李青天総司令と李範奭参謀長は中国との協議のため重慶に残り、黄学秀を総司令代理とする西安総司令部暫定部署を組織し、西安に派遣した[9]。西安総司令部暫定部署は華北地区移住の朝鮮人を対象に兵士募集活動を展開した[10]

総司令部が西安に移動するのと同時期に3個の支隊を編成した[9]。第1支隊(支隊長:李俊植)、第2支隊(支隊長:公震遠)、第3支隊(支隊長:金学奎)の3個支隊編制であった。

1941年1月1日に、韓国青年戦地工作隊が光復軍に編入[11]。韓国青年戦地工作隊は第34集団軍と連携して1940年末の時点で100余名の隊員を確保しており、戦地工作隊の編入とそれに伴う第5支隊(支隊長羅月煥)の編成は光復軍が初期に収めた最も大きな成果だった[12]。第5支隊は戦地工作隊で行っていた徴募活動をそのまま引き継ぎ、4個支隊の中で最も兵力を確保して光復軍の主力部隊に発展していった[13]

当初は中国政府は援助に熱心ではなかったが、1941年11月に軍事委員会から臨時政府に対して『韓国光復軍行動規則九箇条』を提案した[14]。提案が受け入れられた後、軍事委員会は多くの中国人将校を光復軍の総司令部と各支隊に派遣して強化した[14]。終戦直前には総司令部将校56人のうち、派遣された中国人将校は43人を占めた[14]。また10個処あった総司令部は参謀処、総務処、政訓処の3個に縮小して副司令と副参謀長を増設し、1942年10月に西安から重慶に移転した[9]

1942年3月1日、第5支隊長の羅月煥が暗殺。暗殺容疑で隊員など20余名が逮捕され、このうち朴東雲、李何有、金東洙、李海平、李道淳、高如順、金松竹、金容珠ら8名が死刑または懲役刑を宣告された[15]。羅月煥と彼らは徴募活動と教育訓練を通じて第5支隊を発展及び運営していた中心人物であり、この事件で幹部を全て失ったことにより、第5支隊の活動はほぼ麻痺状態に陥った[16]。暗殺から1か月後の4月1日に第5支隊は既存の第1、2支隊と統合し、新たに第2支隊を編成した[16]

1942年5月、朝鮮義勇隊が光復軍に編入して第1支隊に改編された[17]

なお、アメリカ政府の国務省公式歴史記録(1945年2月5日付)によれば、極東局長ジョセフ・ウィリアム・バランタインが蔣介石の国民党政府要人邵毓麟中国語版と面談したときのこととして、当時中国重慶には2,000名もの日本軍の朝鮮人部隊(朝鮮人日本兵)捕虜が存在し、これらが韓国光復軍と地下工作員の訓練に協力していたという[18]。邵はアメリカ軍から韓国光復軍へ武器供与をできないかと尋ねているが、バランタインは国防省が回答すべきこととして否定的な発言をし、独立運動よりも個人的な利益と野心の実現に熱心な韓国人(朝鮮人)リーダー達の態度を問題視していた。邵も実際に朝鮮半島に潜入してみて、リーダー達の嫉妬と協力体制の欠如を目の当たりにして、中国での活動との協力の必要を説いたという[19]

終戦まで

1941年12月8日真珠湾攻撃が起きてアメリカが参戦すると、中国は対日宣戦布告を行い、連合軍の一員となりたかった臨時政府も12月10日対日宣戦布告をしたが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は無かった。

1941年3月から5月下旬にかけて華北に移動した朝鮮義勇隊は4度に分けて黄河を渡り、八路軍根拠地であった太行山に逃亡した。隊内で密かに活動していた中国共産党の指示であった。そのため、国民党管内に取り残された隊長の金元鳳と残った義勇隊の一部は軍事組織として有名無実化し、国民政府軍事委員会の命令により、1942年5月、国民政府軍事委員会傘下の韓国光復軍に編入されることになり、残っていた義勇隊は第1支隊に改編され、既存の第1、2、5支隊は統合して第2支隊に編成した[20][9]。第1支隊長は金元鳳(別名・金若山、副司令兼任)、第2支隊長は李範が就任した。参謀長には軍事員会高級参謀の尹呈輔少将(保定軍校4期、中国陸軍大学8期)が就いた。なお1945年6月に金弘壹が就任するまで、参謀長は尹呈輔や趙徳樹[21] などの中国人の国民革命軍所属の現役将校が歴任した。

光復軍は作戦計画として中国戦線での招募・訓練などと戦闘部隊への編入、韓国内での地下軍組織及び破壊工作、太平洋方面で派遣司令部設置と韓国人同胞への再訓練、韓国飛行隊の設立などを構想した。

1943年9月、印緬戦区工作隊(印緬戰區工作隊인면전구공작대[1] をインドに派遣[22]。宣伝や尋問などの工作を担当した。任務を完了した工作隊は1945年7月に重慶へ帰還した[22]

1944年、日本軍の長沙作戦に多くの志願兵、学徒兵、徴兵1期兵など多くの朝鮮出身の軍人が投入されたが、彼らが光復軍の宣伝活動で臨時政府の存在を知ると、戦闘の度に脱走が続出した[23]。長沙には第1支隊第3区隊があったが、長沙作戦の終わった1944年末には、先任同志2名、学徒兵12名、志願兵2名、徴兵1期159名の計175名の部隊に成長した[23]。1945年3月の時点で光復軍の兵力は514人(中国人将校43人を含む)であったという[10]

一方、光復軍は中国に派遣されていたアメリカ戦略事務局(OSS、のちの中央情報局)と協約を結んで特務工作訓練(イーグル・プロジェクト、Eagle Project、독수리 작전)を始動させ、3月にアルバート・ウェデマイヤー中国戦区司令官の最終承認を得た[24]。当時、朝鮮人学徒陸軍志願兵制度の実施で朝鮮青年が日本軍に編入され南洋群島と中国戦線に配置されていたが、張俊河らその一部が日本軍を脱出して光復軍に参加。5月1日から8月4日まで西安で3か月間の特殊工作訓練を受けた[25]。これらを山東からアメリカ潜水艦に乗せて朝鮮本国に潜入させて、朝鮮国内の要所を破壊・空港を占領した後にアメリカ軍の飛行機で更なる物資を運び込み、武装蜂起を促すという計画で、張俊河ら45人が選定された[26]

1945年8月初め、光復軍のこの国内進入作戦について、金九とドノバン大佐(OSS長官)は同意したが、この作戦計画を実践に移す直前に日本が降伏した。また同じ頃、参謀長金弘壹が蔣介石と交渉して武漢奪還作戦に光復軍が参加することを計画していたが、これもご破算となった[27]。イーグル・プロジェクトは10月1日に正式に解体された[28]

このような経緯から光復軍は戦闘の実績がほぼなく、インド・ビルマ戦線に光復軍工作隊[29](9名[1])を派遣して朝鮮系日本兵の投降を呼びかけてイギリス軍に協力したことが、数少ない実績であった。

終戦後

終戦後、光復軍は駐華代表団直属となり、団長の朴賛翊と司令官の李青天は、朝鮮人日本軍兵士の光復軍編成及び帰国問題、各地の韓僑について協議した[30]。各地に幹部を派遣し、日本軍及び満洲国軍の朝鮮人兵士の編入と韓僑の保護を行った。北京では申鉉俊李周一朴正煕、尹映九(日本軍学徒兵)が駐北平弁事処長の崔用徳によって第3支隊に編入され、それぞれ平津大隊長、第1、2、3中隊長となっている。

また李範は光復軍を代表してOSSの使節に同行してソウルに赴き、米軍進駐に立ち会った。1945年11月13日からアメリカに後に設置する軍事組織以外の私兵組織は解体命令が出され[31]、1946年1月9日、光復軍を含む全ての準軍事組織は、ソウルのアメリカ軍政政府の命令によって武装を解除することになった。

解散した光復軍は帰国の途に就き、天津から朝鮮に船で渡った。これはアメリカ軍政庁が光復軍を軍隊として認めず帰国を許可しなかったためで、元光復軍兵士は、個人の資格でばらばらに帰国することになった[32]。さらに帰国後も彼らは国軍となることを期待していたが、これも認められず、自壊作用を起こして一つの勢力になることは無かった[32]。朝鮮半島南部に到着して光復軍は解体された[31]

李承晩派、金九派、金元鳳派、李青天派などいくつかの派閥に分かれた。李承晩派であった李範は国務総理・兼国防部長官となったが、金元鳳ら左翼(義烈団派)は越北して北朝鮮に加わった。

結成から解体まで日本軍とは交戦は無かったものの、終戦頃(1945年4月)で、日本軍満洲国軍出身者を含めて339人いたと認定されている[2]。しかし、アメリカの資料では光復軍は中国国民党軍の中の一組織で200未満と記されている。

2014年5月、韓国は、光復軍第2支隊の所在地だった西安市にその活動を称える記念碑を設置した。

2015年、北朝鮮の対南宣伝媒体である『わが民族同士』は、光復軍は戦後に越北した金元鳳が主導していた蒋介石の中華民国傘下の右派武装団体であり、韓国が僅かな人員しかいなかったこと光復軍が「祖国解放の結果を導いた」と主張していることを「自画自賛・美化を越えた完全な歴史歪曲だ」と批判した[33]


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  18. ^ この朝鮮人日本兵捕虜がどのくらい「転向」して光復軍兵士となったか、地下工作員として採用されたのかは書かれておらず、不明。また「captured Korean troops」としか書かれておらず、これに日本人の士官・下士官などが含まれているのかも不明。
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  118. ^ 정병준 1998, p. 110.
  119. ^ a b 邵 1980, pp. 201.
  120. ^ 정병준 1998, p. 109.
  121. ^ a b c 김민호 2022, p. 102.


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