趙匡胤 趙匡胤の概要

趙匡胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 05:26 UTC 版)

太祖 趙匡胤
北宋
初代皇帝
王朝 北宋
在位期間 建隆元年1月5日 - 開宝9年10月20日
960年2月4日 - 976年11月14日
都城 開封
姓・諱 趙匡胤
一説に元朗[1]
諡号 英武聖文神徳皇帝
啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝(真宗による)[2]
廟号 太祖
生年 天成2年2月16日
927年3月21日
没年 開宝9年10月20日
976年11月14日
趙弘殷
昭憲太后杜氏
后妃 孝恵賀皇后(追尊)
孝明王皇后
孝章宋皇后
陵墓 永昌陵
年号 建隆 : 960年 - 963年
乾徳 : 963年 - 968年
開宝 : 968年 - 976年
燕王趙徳昭
秦王趙徳芳

生涯

父は後唐の禁軍将校であった趙弘殷(後周の武清軍節度使太尉を追贈され、宋で宣祖の廟号を追贈された)。母は杜氏。後唐の天成2年(927年)に洛陽夾馬営で、次男として生まれる。本貫莫州清苑県後漢の初め頃には不遇の身であり各地を転々としていたが、襄陽のある寺の老僧に勧められ、後に後周の太祖となる後漢の枢密使郭威の軍に身を投じる。

後周の世宗が即位すると近衛軍の将校となる。北漢の軍を迎え撃った高平の戦いにおいては、左翼の軍勢が敗走して後周軍が危機に陥る中、趙匡胤は同僚を励まし、北漢軍の前衛を打ち破る活躍をして、後周に勝利をもたらした。

世宗の南唐征伐に従軍し、南唐の節度使であった皇甫暉・姚鳳らを自ら虜にする功も立てる。その後、揚州を攻めていた同僚の韓令坤が南唐の援軍を前に撤退を求めてくると、世宗より援軍として派遣され、「もしも逃げる者があれば、その足を斬る」と督戦し、韓令坤らの必死の防戦の末、南唐軍万余りの首級を挙げることに成功した。その後も趙匡胤は次々と南唐の城砦を抜いた。

趙匡胤の威名を恐れた南唐の李璟は趙匡胤と世宗の間を裂こうと、趙匡胤に手紙と白金3千両を贈るが、趙匡胤はすべて世宗に献上して、君臣の間に亀裂は生じなかった。

世宗が崩御して、わずか7歳の恭帝が即位すると、これに付け込んだ北漢の軍勢が来寇する。その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった軍士により、皇帝の象徴である黄衣を着せられて皇帝に冊立される(陳橋の変)。趙匡胤は軍士たちに自分の命令に従うをことを確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた上で、帝位に即くことに同意した。開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、国号をと改めた。

その後、各地に割拠する諸国を次々に征服していったが、残るは呉越と北漢のみとなり天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。その死因については古来、弟の太宗趙光義により殺害されたという説(千載不決の議)が根強いが、日本の東洋史学者・宮崎市定を始めとする一部の研究者は、生前の太祖が陳橋の変の時に見られるように非常な大酒飲みだったことから、脳溢血などの疾患による急死だったのではないかと指摘している。

崩御の翌年である太平興国2年(977年)正月に太祖廟号が贈られ、英武聖文神徳皇帝された。

諡は大中祥符元年(1008年)8月に真宗によって啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝と改められた[2]

趙氏の出自

趙匡胤自身は遠祖は涿郡蠡吾県の人である前漢の名臣の趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば日本江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。

岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として[3]、趙匡胤は涿郡(河北省保定市北京市の南)の人であるが、涿郡はソグド人テュルク系人契丹人などが多く住む外国人住地であり、安禄山営州の人で、母はテュルク系人であり、范陽郡の涿郡)を根拠に唐に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋の皇帝となったように、突厥沙陀人の後唐の親衛隊あるいは同様に出自に問題のある後周の親衛隊長という点からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている[4]


  1. ^ 『飛龍全伝』に「姓趙。名匡胤。表字元朗。」とある。野史『羅雲村史』にもあり。正史『宋史』では字を記さない。
  2. ^ a b 宋史本紀太祖三による。本紀真宗二では啓運立極英武聖文神徳玄功大孝皇帝とする
  3. ^ 岡田英弘『だれが中国をつくったか』PHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、72頁。ISBN 978-4569646190 
  4. ^ 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書1761〉、2004年12月18日、113-114頁。ISBN 978-4061497610 
  5. ^ (陳 1992)
  6. ^ 誓詞三行:一云柴氏子孫有罪,不得加刑,縱犯謀逆,止於獄中賜盡,不得市曹刑戮,亦不得連坐支屬;一云不得殺士大夫,及上書言事人;一云子孫有渝此誓者,天必殛之。 宋稗類鈔 参照。
  7. ^ 第1条の内容は、陳舜臣が紹介したものとやや異なっており、「柴氏の子孫が罪を犯しても処刑しないこと。謀反を起こした場合も獄中で賜死させ、(謀反人への処遇である)公開処刑は行わないこと、また一族に刑を連座させないこと」となっている。


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