蝦夷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/21 10:23 UTC 版)
えぞ
中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である[注 4]。鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある[45]。
アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる[50])と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。
鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党」[注 5]、「日の本」[注 6]、「唐子」[注 7]に分かれ、「日の本」と「唐子」は農耕をせず言葉も通じず、「渡党」は多毛だが姿は似ていて和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている[51]。また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。
室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。
注釈
- ^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[15]。
- ^ 工藤雅樹もこれを支持する[20]。
- ^ 下線部「「毗」は田へんに「比」の一文字、「儾」は「亻」(にんべん)に「嚢」の一文字。
- ^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。
- ^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。
- ^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。
- ^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。
出典
- ^ a b “「エミシ」と「エゾ」”. 青森県立郷土館. 2021年4月5日閲覧。
- ^ 高橋 1974, p. 33.
- ^ 高橋 1986, pp. 25–26; 工藤 2001, p. 26.
- ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀。
- ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, p. 49; 工藤 2001, p. 33.
- ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, pp. 49–50.
- ^ 金田一 2004, pp. 64–65, 110–116, 126.
- ^ 高橋 1974, pp. 27–28; 高橋 1969, pp. 52–53.
- ^ 『山海経』第9海外東経(平凡社ライブラリー 132-133頁)。[要文献特定詳細情報]
- ^ 工藤 2001, pp. 46–47.
- ^ 高橋 1986, p. 16.
- ^ 高橋 1974, pp. 32–33.
- ^ 高橋 1974, pp. 32–33; 高橋 1969, p. 50.
- ^ 松浦武四郎『天塩日記』
- ^ 高橋 1986, pp. 20–21.
- ^ 人見蕉雨『黒甜瑣語. 第3編』、人見寛吉、明治29年
- ^ a b c d “北海道の名前について”. 北海道立文書館. 2020年1月20日閲覧。
- ^ 中道等『奥隅奇譚』、郷土研究社、昭和4年、p.3
- ^ 金田一 2004, pp. 116, 127.
- ^ 工藤 2001, pp. 117–118.
- ^ 高橋 1969, p. 53.
- ^ 高橋 1986, pp. 22–24.
- ^ 高橋 1986, pp. 12–13(81例中14)
- ^ 『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。
- ^ 熊田 1986, pp. 162–165.
- ^ 蝦夷は、倭・高句麗戦争直後から日本へもたらされた馬および騎射の技を、和人よりも高度に習得し磨いた。
- ^ 滝沢規朗. “概説2 新潟県の弥生時代後期~古墳時代前期” (PDF). 新潟県. 2019年6月2日閲覧。
- ^ 春日真実. “概説3 新潟県の古墳時代中期~後期” (PDF). 新潟県. 2019年6月2日閲覧。
- ^ “Ⅱ-2 考古学” (PDF). 新潟大学附属図書館. 2016年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
- ^ 記念講演2「東北からみた古津八幡山古墳」 菊地芳朗(福島大学) (PDF) [リンク切れ], “シンポジウム「蒲原平野の王墓古津八幡山古墳を考える‐1600年の時を越えて‐」を開催しました”. 新潟市. 2014年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
- ^ 藤澤敦「小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究」平成15年度-平成17年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書,課題番号:15520473、2006年3月、2021年10月1日閲覧。
- ^ a b “国指定史跡 菖蒲塚古墳”. 新潟市. 2017年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
- ^ “山辺 歴史散歩 第293話” (PDF). 山辺町. 2014年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
- ^ “胆沢のクニの始まり”. いわての文化情報大事典. 岩手県. 2019年6月2日閲覧。
- ^ “福島県喜多方市 灰塚山古墳第3次発掘調査報告” (PDF). 東北学院大学. 2019年6月2日閲覧。
- ^ 川崎利夫. “最上川流域における古墳の出現と展開” (PDF). 国土交通省東北整備局山形河川国道事務所. 2019年6月2日閲覧。
- ^ 大塚初重「東北日本における古墳文化の成立と展開:とくに福島・宮城・山形県を中心として」『駿台史学』第67巻、駿台史学会、1986年3月、90-118頁、ISSN 05625955、NAID 120001442149。
- ^ 熊谷 1986, p. 90.
- ^ 熊谷 1986, pp. 87–90.
- ^ ただし渡嶋については、北海道南西部は、考古学的に古代の馬の骨は発見されておらず詳細は不明である。
- ^ 『類聚三代格』巻19
- ^ 森嘉兵衛 『県史シリーズ』 3巻、山川出版社、1972年、38-41頁。内容:岩手県の歴史。
- ^ この頃、オホーツク人が南下し、道北・道東へ居住した。
- ^ 宇野俊一ほか 編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年、141頁。ISBN 4-06-203994-X。
- ^ a b 小泉保 『縄文語の発見』青土社、1998年。ISBN 4791756312。[要ページ番号]
- ^ 高橋克彦 『東北・蝦夷の魂』現代書館、2013年。ISBN 9784768457009。[要ページ番号]
- ^ De Boer, E., Yang, M., Kawagoe, A., & Barnes, G. (2020). Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread. Evolutionary Human Sciences, 2, E13. doi:10.1017/ehs.2020.7.
- ^ 古田史学の会 編 『古代に真実を求めて』 第7集、明石書店〈古田史学論集〉、2004年。ISBN 4750318981。[要ページ番号]
- ^ 『吾妻鏡』貞応3年(1224年)2月29日条にある難破した高麗船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、長弓を用いる和人に対し、短弓を使用していた。このような蝦夷の武器(短弓、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の騎馬民族には刺青の風習はなく、日本在来馬の起源も蒙古馬から対州馬を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米のネイティブ・アメリカンの例でもある様に、渡来した集団(この場合白人)から馬を手に入れ、文化に組みこまれたものと思われる。
- ^ “オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー”. 北海道新聞. (2012年6月18日)
- ^ 福崎孝雄「エミシ」とは何か(現代密教第11・12合併号)
蝦夷と同じ種類の言葉
- >> 「蝦夷」を含む用語の索引
- 蝦夷のページへのリンク