白村江の戦い 名称

白村江の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 02:35 UTC 版)

名称

日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」とも読まれる。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[6]。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す[6]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった[6]。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。

漢語では白江之口と書く(『旧唐書』)[6]

背景

朝鮮半島と中国大陸の情勢

6世紀から7世紀朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。

日本書紀』には倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたとの記述がある。その任那は562年以前に新羅に滅ぼされた。

475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている[7]

一方、581年に建国されたは、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。唐は二代太宗高宗の時に高句麗へ3度(644年・661年・667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

唐による新羅冊封

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[8]649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。

百済の情勢

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[9]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[10]。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[11]。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[11]

659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[11]

倭国の情勢

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出て来たことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。

新羅征討進言

白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

遣唐使

白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。

蝦夷・粛慎討伐

斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。

百済の役

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[12]

百済滅亡

660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[13][14]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[14]唐1万・新羅5万の合計6万の大軍[要出典]が百済に攻め入っていた[15]

百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[14]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[14]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた[14]

黄山の戦い

百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍階伯決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた[要出典]。新羅側は太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍・金品日(きん ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて[要出典]黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[14]。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された[16][17]

唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[18]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[18]

7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[18]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[18]

660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した[13]熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[11]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[6]

百済復興運動

唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[19]と、百済遺民鬼室福信黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した[20]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[20]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた[20]。熊津都督王文度も着任後に急死している[20]

唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[21]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[21]

しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らの任存城や、達率余自信周留城などが抵抗拠点であった[21]

倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

661年、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。


  1. ^ 「日本書紀」天智天皇2年8月条(663年)「大唐の軍将、戦船百七十艘を率いて白村江に陣列れり。」
  2. ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「白村江の戦い」[1]
  3. ^ 旧唐書「劉仁軌の水軍が白江口で倭兵と遭遇し、其船四百艘を焚く」
  4. ^ 世界大百科事典 18. 平凡社. (1967) 
  5. ^ 詳説日本史. 山川出版社. (2004) 
  6. ^ a b c d e f [2]「白村江の海戦 7世紀に起きた日中韓の戦争」川端俊一郎,北海商科大学北東アジア研究交流センター。
  7. ^ 『日本書紀』崇神、応神、雄略等
  8. ^ 三国史記』新羅本紀
  9. ^ 森,1998,p96
  10. ^ 斉明6年7月乙卯
  11. ^ a b c d 森,1998,p97
  12. ^ 森,1998,p92
  13. ^ a b 旧唐書東夷伝
  14. ^ a b c d e f 森,1998,p98-9
  15. ^ a b 森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。森公章1998,p146
  16. ^ 三国史記新羅本記五
  17. ^ 森1998,p100
  18. ^ a b c d 森1998,p102
  19. ^ 森1998,p104
  20. ^ a b c d 森1998,p104
  21. ^ a b c 森1998,p105
  22. ^ 「日本書紀」天智天皇2年8月条(663年)「大唐の軍将、戦船百七十艘を率いて白村江に陣列れり。」
  23. ^ 白村江の戦いと廬原氏”. 静岡県立中央図書館. 2014年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月3日閲覧。
  24. ^ a b 森1998,p118
  25. ^ 「 白村江の戦い、歴史が示す日本の気概 」”. 櫻井よしこオフィシャルサイト (2017年6月8日). 2018年3月20日閲覧。
  26. ^ 日本書紀』「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」
  27. ^ 三国史記
  28. ^ 日本書紀の天智10年(671年)の項
  29. ^ 日本書紀の持統4年(690年)の項
  30. ^ 森1998,p119。『続日本紀』慶雲4年5月
  31. ^ 日本書紀の持統10年(696年)の項
  32. ^ 五十嵐喜善「白村江敗戦と軍事力の組織化-軍防令の理念と実像-」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.
  33. ^ 倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年) P157.
  34. ^ 扶桑略記』では、異説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」と紹介し、山中での狩の途中に行方不明となり暗殺されたことを示唆している
  35. ^ 「東夷傳百済」其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。


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