潮丸元康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 09:28 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 高見佐野→天福→潮丸 | |||
本名 | 佐野元泰 | |||
愛称 | ウッシー | |||
生年月日 | 1978年5月11日 | |||
没年月日 | 2019年12月13日(41歳没) | |||
出身 | 静岡市葵区 | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 169kg | |||
BMI | 54.56 | |||
所属部屋 | 東関部屋 | |||
得意技 | 突き、押し、両差し、寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭10枚目 | |||
生涯戦歴 | 482勝448敗41休 (92場所) | |||
幕内戦歴 | 68勝92敗20休 (12場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1994年3月場所 | |||
入幕 | 2002年9月場所 | |||
引退 | 2009年5月場所 | |||
引退後 | 年寄・小野川→東関 | |||
趣味 | カラオケ | |||
備考 | ||||
2019年12月14日現在 |
現役時代は童顔と相撲人形のような体つきでファンの人気を集めた。その丸々としたあんこ型の体型を生かした突き押し相撲を得意としたほか、差し身が良く、もろ差しや右差しの体勢からの寄りを見せる事も多かった。
来歴
一人っ子として生まれる。小学生時代にはソフトボールを経験した。中学では野球部に所属し、一塁手と4番打者を務めた。生徒会長も務めた。身体が大きかったため、特注のユニフォームを製造する会社の社長の紹介により、東関親方(元関脇・高見山)からスカウトされた。相撲は未経験だったものの、母親を楽にしてあげたいとの気持ちから入門する決意を固めた。
中学卒業後に東関部屋に入門し、1994年3月場所において初土俵を踏んだ。2002年1月場所で新十両へ昇進し、その1月場所では11勝4敗の好成績を挙げた。同年7月場所では13勝2敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、翌9月場所には新入幕を果たした。新入幕の場所こそ勝ち越したものの、その後は左膝・左脚の怪我に悩まされて幕内と十両の往復に終始した。2005年には幕下に2度陥落したが、いずれもすぐに十両に復帰している。
2007年のハワイ巡業の際に、ハワイの地元紙「ホノルルアドバタイザー」にて、師匠の東関親方から後継者に指名されていた[1]。同年の5月には結婚している。
師匠である東関親方の定年退職を目前に控えた2009年5月場所を6勝9敗の成績で終えた後、同場所の千秋楽である同年5月24日に引退を表明し、北の湖が所有する名跡を借りて年寄・小野川を襲名した[2]。同年6月16日に東関親方が定年退職したことに伴い、年寄・東関に名跡変更し、師匠である12代東関と同じ「東関大五郎」の年寄名を名乗り、13代東関を襲名して東関部屋を継承した[2]。
2010年1月31日には「潮丸引退東関襲名披露大相撲」(断髪式)が催された。引退相撲では同部屋の現役力士である高見盛との割が組まれ、この「最後の一番」を勝利で飾った。止め鋏は先代の東関親方が入れた。
2012年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌では、平年寄としては異例となる勝負審判に就任した。この役員改選前の地位は平年寄で、勝負審判は現役時代の最高位が前頭2枚目以上でかつ委員の親方が原則として務めることとなっていたが、役員改選後も昇格はせずにそのまま平年寄に留め置かれた(2013年2月に主任へ昇格)。
2012年12月25日に胸椎後縦靱帯骨化症で入院して手術を受けた。手術を前に、病気が判明した後の2012年11月場所より審判の職務を休んでおり、代わりに一門の千田川親方(元小結・闘牙)が代理を務めている。手術後も1か月近く入院していたが、2013年1月場所中に退院し、同場所千秋楽にて現役を引退した高見盛の引退記者会見にも同席した。同年の春巡業において職務へ復帰している。
師匠としては、弟子たちに毎日ノートを提出させ、その日の相撲や稽古の反省、その他思うことを報告させることで弟子との密なコミュニケーションを図っている。また、支持者のふりをして近づく反社会的勢力を排除するため、金銭の発生する会合に弟子が出るときは必ず報告を義務付けていた。
晩年は2018年末から体調不良のため、本場所を休場していたが、2019年12月13日21時52分、血管肉腫のため、東京都葛飾区の自宅(東関部屋)で死去[3][4][5]。41歳没。14日に故人の夫人であるおかみと部屋付きの振分親方(元小結・高見盛)がマスコミ取材に応じた。故人は7日から再入院をしており、10日ごろに意識が朦朧となったという。延岡合宿をしていた部屋は11日に帰京し、11日昼に振分親方が病院で面会をしたという。振分親方は「呼吸器は付けていましたが、聞こえる声で『お疲れさま』と言ってくれた」と明かし、「兄弟子で稽古もつけてもらい、胸も出してもらった。身も心も強い人だった。ショックです」と故人を悼んだ[6]。12日昼に東関部屋に戻ったのは、「力士たちに会いたい」とのかねてからの望みをかなえるため、おかみが担当医師に頼んでのことであった。最期は弟子一人ひとりの手を握りながら名前を呼び、最後の名前を口にしたところで呼吸がなくなり、それから一日後の13日夜に息を引き取った[7]。当日、深夜にも関わらず、先代東関親方の渡辺大五郎、一門の八角理事長ら相撲関係者が弔問に訪れたという[8]。14日に行われた沖縄巡業では、同じ一門の隠岐の海は「ショックです。自分が若い衆の時には出稽古でよく胸を貸していただいた。かわいがってもらった」と話し、朝乃山は「関取として(昨年2月の)土俵開きの際は稽古をさせていただいた。すごく残念」と早すぎる死を悼んだ。同年9月に師匠を亡くした鶴竜は遺された弟子たちを思いやり「師匠を亡くす悲しみは分かる」と語っている[9]。18日に営まれた通夜には兄弟子の元横綱・曙も参列し、「悲しい、早すぎる」と涙を拭った。東関部屋師匠は部屋付きの振分親方(元小結・高見盛)が翌年1月30日に継承した。
略歴
- 1994年3月場所‐初土俵
- 2002年1月場所‐新十両
- 2002年7月場所‐十両優勝
- 2002年9月場所‐新入幕、勝ち越し
- 2002年11月場所‐自己最高位前頭10枚目に昇進したが、しかし途中休場となって十両に陥落した。
- 2003年7月場所‐再入幕(2)
- 2004年1月場所‐再入幕(3)
- 2005年5月場所‐この年2回目の幕下での土俵であったが、全勝で幕下優勝。
- 2006年3月場所‐再入幕(4)
- 2006年11月場所‐再入幕(5)
- 2007年1月場所‐新入幕の場所以来26場所ぶりの幕内での勝ち越し
- 2009年5月場所‐引退
- ^ Maui-born Kuhaulua able to bridge generation gap ホノルルアドバタイザー 2007年6月7日付
- ^ a b 元幕内潮丸が引退=東関部屋継承へ-大相撲 時事通信 2009年5月24日
- ^ “東関親方(元幕内・潮丸)が死去…41歳、元高見盛の兄弟子”. スポーツ報知. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ “元前頭潮丸の東関親方が血管肉腫で死去 41歳”. 日刊スポーツ. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ 日本相撲協会公式 [@sumokyokai] (2019年12月14日). "午後1時41分のツイート". X(旧Twitter)より2021年9月29日閲覧。
- ^ “振分親方(元高見盛)もショック「身も心も強い人だった」…兄弟子の東関親方が41歳で死去”. スポーツ報知. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ “東関親方、41歳早すぎる別れ 最期は弟子ひとりひとりの手を握り…”. スポーツニッポン. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ “振分親方「感謝の気持ちしか」死去した東関親方へ”. 日刊スポーツ. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ “隠岐の海「よく胸を貸していただいた」 東関親方死去で悲しみ広がる”. サンケイスポーツ. (2019年12月14日) 2021年9月29日閲覧。
- ^ 『相撲』2012年1月号93ページ
- ^ 二子山部屋が旧東関部屋に移転へ 一門の枠超え継承 日刊スポーツ 2021年4月6日5時0分 (2021年4月6日閲覧)
- ^ “潮丸 元泰 力士情報” (English). sumodb. 2011年8月27日閲覧。
- ^ 左膝外側側副靱帯損傷により10日目から途中休場
- ^ 左脛骨剥離骨折により千秋楽不戦敗
固有名詞の分類
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