清水澄子 (さゝやき)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 06:22 UTC 版)
しみず すみこ 清水 澄子 | |
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生誕 |
1909年5月1日[1][2] 日本 長野県小県郡上田町大工町(現・上田市中央三丁目)[1][3][注 1] |
死没 |
1925年1月7日(15歳没)[4][5] 日本 長野県上田市 信越線上田駅西方[6][5] |
死因 | 自殺(轢死) |
墓地 | 浄福寺[7][8] |
記念碑 | 生家跡(うえだ敬老園横)[9][10] |
国籍 | 日本 |
教育 |
上田市立女子尋常小学校卒業 長野県上田高等女学校(在学中に死去) |
生涯
生い立ち
1909年(明治42年)5月1日、長野県小県郡上田町大工町(現・上田市中央三丁目)にて[注 1]、父・袈裟雄と、母・千代の長女として生まれる[1]。両親は共に学校教師で[1]、袈裟雄は長野県立上田中学校(現・長野県上田高等学校)教諭、千代は上田女子尋常高等小学校(現・上田市立清明小学校)訓導であった[18]。地方都市としては、最高水準のインテリ家庭であった[19]。また弟に、1911年(明治44年)生まれの龍郎がいた[2][注 2](家族については#家族も参照)。
千代は澄子の死後、「あゝ澄子や、思へば思ふ程、お前は生を此の世に享けた時から、既に既に淋しい悲しい運命でした。お前の生れた其の時はお父様は東京に御生活。私の側には誰も居ず。名をつけてくれる人も届けてくれる人もなく、真から祝福してくれる人もなく、ほんとにお母ちやんは悲しかつた。(中略)けれど今お前といふ私には最大のものを失つた、此の死なむばかりの悲みに比べては、あんな苦痛はまあどうして苦痛であつたでせう」と書き記している[20][注 3]。
小さいときから千代によれば、「年寄で歩るけないから可哀さうの、彼のややのお母さんはややを大人と一緒にお湯に長く入れてゐるから可哀さうの、何がか可哀さう彼が可哀さうと、よくそんなに可哀さうなことが眼につくと笑はれる程、他人のことは可哀さうがる」子供だった。一方で自分の悲しさ、苦しさなどは人に見せることを嫌い、7歳のときに叔母に預けられていたことがあったが、たまにようやく会いに行った母の帰り際には、便所へ閉じこもって涙を隠していたという。また転んで机の角で目を打ったときも、転ぶと同時に幕の中へ隠れ、痛みに出る涙を隠していた[22]。
また、千代は自身が嫁入り後に苦労した経験や、自身が多忙で身体も弱いことから、様々な用事を澄子に言いつけていたが、澄子は忍耐強く仕事をこなし、子供が嫌がるような用事も、決して嫌と言うことはなかったという[23]。
1916年(大正5年)4月、上田市立女子尋常小学校(現・上田市立清明小学校)に入学。この頃から読書を好み、尋常科の4、5年生の頃からは『赤い鳥』『少女の友』『少女世界』などを熱心に読んだ。また6年生になってからは同時に単行本も読み始めた。また、4年生の頃から短歌を作り、5年生からは小品も書き始めている[1]。澄子によれば5年時に、土屋つた先生が初めて澄子に小説を書かせ、その題は『柿の花』で、母を亡くした少女が新たに嫁いできた継母を憎むが、教会で知り合った少女に感化されて改心する、という筋のものだった[24]。
小学校時代は優等生で、特に唱歌は音量のある美声で教師らから評価された。尋常4年生のときには、音楽会の壇上で紫の被布姿で『笹の葉』を歌い、「第一等の出来」と教師らから褒められたという[25]。
尋常4年生のときには、潜伏結核の診断を受けている。以降2年間、家では毎日2回の検温、10日ごとの体重測定を行い、様々な滋養物を取らせたほか、学校も3時間に限るよう要請して、体操や掃除を免除してもらった。このようにして医師の指示通りに養生した結果、6年時には丈夫な身体になり、直江津や烏帽子岳にも行くことができるようになった[25]。
女学校時代
1921年(大正10年)に長野県上田高等女学校(現・長野県上田染谷丘高等学校)に入学[1]。合格当時は非常な喜びを感じていた澄子だったが[26]、1年のときには既に、小学校時代を懐かしんで泣くことがよくあった。母に澄子は、「小学校は自由でよかつたけれど女学校は窮屈でいやだ」と訴え、教師に「先生の机の上に在りました」と言えば、まだ小学時代のつもりかと叱責され、「お机つておつしやい」と言われるなどと訴え、母は途方に暮れたという[27]。また余り勉強もしなかったために成績も中位となったが、両親はその程度の勉強でこの程度を取れるなら大丈夫として、特に試験には口出しをしなかった[27]。
一方で入学以降は、母の購読していた『婦人公論』『主婦の友』、父の購読していた『ほととぎす』『東亜の光』などのほか、小説や詩も多く読むようになった[1]。好んで読んだのは佐藤春夫、里見弴、宇野浩二、島崎藤村、北原白秋、徳冨蘆花などだった[28]。両親は成績には口出しをしなかった一方、澄子が勉強をせずに雑誌を読んでいる際には、「下らない雑誌を読んではいけない」と注意することが度々あった。すると澄子は家では読まず、学校で友人に借りて読むなどするようになった[27]。
女学校時代には、文章を書くことにも一層熱中するようになった[29]。澄子が2年生のとき、その作品を偶然目にした母の千代は、その内容に感嘆し、「六冊ばかりあつた雑記帖を見たら、僅か数へ年十五のお前が、断片とか、随筆だとかいふ名の下に、それは人生を論じ、死を論じ、有島事件を批評し、恋愛を論じ、筆が自由に達者にまわつてゐて此の母も及ばない所があると思つた程でした」と記している。千代は袈裟雄に「エライものが書いてありますよ」と知らせたが、袈裟雄は「何に、雑誌のぬき書きだらう自分の思想ではあるまい」として、見ようともしなかったという[30]。
女学校でも文学的な自己表現の場はあったとみられ、1922年(大正11年)12月22日の学芸会では、各クラスから一つずつ披露された出し物で、澄子は1年孝組の代表として「汝の母より」を朗読している。また、1924年(大正13年)3月の校友会雑誌の和歌の部は、「母うれし」という題の、澄子の作品14首を掲載しており、その数は他の生徒が一人当たり1-5首ほどである中、際立って多い[31]。そのほか、同校生徒の作品集『松の操』にも「彼女の手帳より」という作品を発表していたとみられるが、これは散逸している[32]。
一方、2年に進級した頃には、校風や教師に失望と不満を抱くようになり、「此の学校にもう三年もゐるといふことは全く苦痛だ」などと書き記すようになっている。その原因である出来事の一つとして、教師が無断で澄子の机の引き出しを開け、『女性改造』を発見して澄子を呼び出し、激しく叱責したということがあった。澄子は、同級生が自分の母親に渡すよう依頼されたものだと弁明したが信じてもらえず、「人の留守に黙つて生徒の机の中を見るなんてあんまりだ。家のお父さんでもお母さんでも、私の机の中や箱の中へは手を付けやしない。家ではかういふことは罪悪だと教へられる。家での罪悪は学校の先生が行はれた時は神聖になるのだ。人間の世の中には不思議なことがあるものだ。下らない学校」と、怒りや疑問を綴っている[26]。
後述の「さゝやき」にも、教師への不満が随所に見られ[33]、国語の授業について「この先生は感想なんかちつとも聞かないで語句の解釈きりです」と不満を述べたり[34]、「まるつきり飛び離れた自由主義の生徒を訓練訓練と訓練ばかし言つてる頭の古い教師。生徒のアラ探しを喜んでるこれも頭は古いが、ちつとばかし英語を知つてる教師……」[35]と断じたりしている[33]。また、修身の時間に校長へ「先生は悪るい所をあげるのにいつも信州人は信州人はとおつしやいますが、信州人は他の県人よりかそんなにいけない人間なのですか」と質問したことも記している[36][33]。
また、弟の龍郎によれば、澄子は2年の頃から「時々僕に死といふことを問ひかけ」るようになったという。澄子が死後の「永遠の世界」について口にするたび、龍郎は「永遠の世界なんていふものがあるものか。死ねば腐つてしまふばかりだ」と言って撥ねつけていた[37]。
3年生の5月頃からは、短歌・詩・エッセイ・小品などを約2ヶ月ごとにまとめて綴じ、手製の小文集「さゝやき」を作るようになった。「さゝやき」は10月頃までに、未完のものを含めて4冊作製されている[29]。澄子は友人たちも小説を書いている旨を随筆に記しており、友人同士で作品を見せ合っていた可能性もあるが、同人誌を発行するまでには至らなかった[38]。
澄子は政治や社会に対しても幅広く関心を持ち、「さゝやき」で、それらに対する自分の意見を表明している[39]。虎ノ門事件に対しては、「山本内閣を幻内閣とした不敬事件。ほんとに恐ろしいですね。日本もロシヤのやうになつたなと新聞で見た時私は思ひました。(中略)でも内閣を倒すなんて自分の命を失ふと思つてすれば造作ないことですねえ。悪るい例が開けたものです」「日本には近頃急に恐ろしい思想が流行してゐるぢやないですか。私には流行としか思へないのです。急激に西洋の激しい思想を日本に入れたため、あんな変挺な思想が続出するのぢやないでせうか」[40]などと意見を述べている[39]。他にも、「近頃の新聞を賑はした有島事件は、讃美すべきものでないと私は思ふ」「私はつく/″\政治界の憲政と政友の喧嘩は面白いと思ふ。官報の附録に出て来る議会の問答など読んで実際面白くてならない」[41]といった、社会問題に深い関心を示す記述がある[39]。
また、自然科学への関心も見せており[39]、「……星も地球も月も何もない世の中はどんなであつたらうなどと思つてみた。其の時は真暗闇で世界も宇宙も何から何までどろ/\した土のやうなものであつたらうなどと思つた」[42]「地球や太陽が滅亡すれば、自然人類の滅亡つてなるんでせう。無理に人類といふものを此の宇宙の中に置かなくたつて、滅亡するならするで私は良いと思ひます」などと記しているが、同時に「私は此頃余り地球だとか何とかいふものですから、お父さんに『変な方へ頭を突き込んぢやいけない』つて言ひます」と、袈裟雄に注意されたことも記している[43]。千代に関しても、「お母さんに言はせればいつだつて私をほめたことなんかありやしない。だから私が『そんな事言つたつて何処がいけないの』と言へば、笑ひながら『皆が……すべてがいけない』と言ふ。私は私がどんなにいけない子だとしてもすべてが悪るくちや、生きてる甲斐がないと思ふ。私だつて良い所がある」[44]と苛立ちを見せている[39]。矢嶋(1995)はこうした記述について、「両親は教育者であり、自分の子供の学習の面倒をみるなど教育熱心ではあったが、親子のコミュニケーションは不足していたのではないだろうか」と推察している[39]。
一方で3年生になってからは、「今年からは教科書を勉強して、しつかり今までのを取りかへす」と言い、よく教科書を読むようにもなった。しかし2年の頃よりも成績は下がり、澄子は母に「学校中が厳しく採られるので皆が下つた」などと言っている[45]。そして、1924年(大正13年)の夏から秋にかけての時期には、小学校時代の文章や、女学校1年生から2年生夏にかけて書いた小品・感想・小説なども、殆どを焼き捨てている。これは、小説の内容が恋愛を扱ったものであるために父母からはよく思われていなかったこと[29]、両親が澄子を女子大学の英文科に進学させるつもりで準備を始め[注 4]、11月からは学校の宿題以外の文章を書かない決心をしたことなどが関わっているとみられている。そのため、「さゝやき」第四号のための作品も中途で放置され、日記も11月19日を最後に書かれなくなっている[47]。常に好んで読んでいた新聞も全く手にしなくなり、専ら教科書のみを開いて勉強に専念するようになった[48]。
しかし、暇さえあれば勉強に勤しんで第二学期の試験に臨んだにも拘わらず、12月24日の成績発表では、平均点は一学期よりも1点上がったのみであった。また同日には講堂での訓話で、一科目でも欠点のある者は落第とする旨を聞かされている[48]。これを受けて澄子は、「私ほんとに落第するでせうか」と袈裟雄に尋ね、袈裟雄は他の点が落第などという点でないから大丈夫だとして、澄子の心配を否定している。千代も澄子が落第するなどとは思わず、「何をそんなことが」と思っていたが、澄子はその後も、4日間も繰り返して同じことを袈裟雄に尋ねた。また27日頃には再び成績のことを持ち出して、千代に「お母ちやん私人に顔向けが出来ないやうな気がする」と言い出し、慰められている[49]。
千代はこのときの澄子の様子を、「いつも点など気に懸けぬお前にしては後に考へれば誠に変なことでした」と振り返っている[50]。また袈裟雄はこのときの澄子の心情について、「……感受性の強き彼女は自己が幾何三十五点にして欠点なるにより、当然落第せしめらるべしと覚悟し、既に雑誌の耽読を廃し専心学修して尚斯くの如し。われは明かに劣等者なりと確信し、劣等者として生存するは苦痛なり、又生存するの価値なしとし終に自から決するに至りたるものの如し」と推察している[51]。
また袈裟雄によれば、幾何の時間に教師が生徒たちに「こんな問題が出来ないなら首でも吊つて死んでしまへ」と言うことが2、3度あったといい、澄子は「お父さん首を吊るつてむづかしいことかい」と質問していたという。袈裟雄は澄子の死後、「教師の激励したること真偽素より知る所にあらずといへども、一般に女性に対し、殊に感受性の強き女性に対しては、われ等自から教育者として多大に考へしめらるゝ所なくんばあらず」と述べている[51]。
自殺
1925年(大正14年)1月7日の午後7時頃、澄子は鉄道自殺を遂げた(15歳没)[7][52][5][注 6]。場所は上田市の千曲川近く[54]、信越線上田駅西方[4]、松平神社(現・真田神社)南方の地点の鉄路で[55]、身体は午後6時50分の上り列車に轢かれ、更に次の貨物列車にも轢かれ、現場には肉片や頭髪が散乱していたという[5]。自殺時刻は午後7時5分ともされる[5]。
千代によれば澄子は、元日の学校の式にも行かないと言っていたが、両親からそれは良くないとの説得を受けると、それ以上は拒否せずに晴れ着に着替えて出掛けている[50]。翌2日の夜、千代は澄子が鼻をかむ音を聞きつけ、翌朝見ると眼が腫れていたことから、どうしたのかと問い掛けると、「私、昨夜は眠られなかつたから、自分を反省して見たら、何だか今の私は、余りみすぼらしい姿だと思つて泣きました」と答えた。しかし千代のほうでは、澄子が元日から月経であったことから、「月経の時は少しセンチメンタルになつて困るね」と答え、さして気には留めなかった[56]。
そのやり取りを交してのち、澄子は、「学校へ作文を書いて行かなくては」として、1月3日のうちに「泪」「不可解」「アルファベット」の三つの作文を書き、翌4日には「冬の夜」という作文を書いている[56]。これらの作品はいずれも『さゝやき』の「消ゆる前」に遺書と共に収録されており、このうち「不可解」は、人生や世の中は全て不可解であると繰り返し書いた文章、「泪」は自分の人生や自分の死のことを考えてとめどもなく涙を流したことを書いた文章、「冬の夜」は、読んでいた物語の末尾にあった聖書の一節を引用し、「事柄はちがうけれど、悲しみは同じなんだ。"私の心もいたく憂いて死ぬばかりだ"……心でひそかに思う」と記している文章である[52]。また、「アルファベット」は自分の好きな人のタイプを12例挙げたもので、東(2002)は「……澄子が心にひそめていた理想を仮託したもので、「不可解」「泪」「冬の夜」に書いた、現実の人生の悲しみや疑いと対照的であり表裏をなすものといえよう」としている[57]。「泪」には2日の夜に泣いていた理由が、以下のように書かれている[58]。
……私が此の女学校へ大なる希望と期待とをもつて、入つたのは三年前だつた。長い時が経つた間に、私の心もすつかり変つた。何時の間にか希望は過去のものとなつて、唯、うつろの心だけが残つて居た。私はそんなことを思ふたびに。生きて居るといふことが、馬鹿らしいほど厭やになつた。(中略)私は泪をぽと/\落しながら、一つのことを思つて居た。
『死んで何処へ行く』それだつた。私はもう死といふことが解りはじめた。其の時から、それを不思議に思ひ、それを知りたく思つて居た。或る時、私はそれを母に聞いた。母は答へた。『私は、プラトンの言つたイデアの境といふものを信じて居る。此の世一つ超えた世界には、永遠の世界があつて。そこには永遠に住んで居ることが出来る。私はそれを信じてゐる』と――
私はそれを聞いた時、少しく安心した。
— 清水澄子「泪」[59]
澄子の作文に眼を通した千代は、「かういふセンチメンタルなものは学校へ出さない方が良い。お前は今は希望もなく、うつろの身だなどといふが、卒業すれば女子大学へも入学するのだし希望がないなどとはおかしいではないの」と感想を述べ、それに対して澄子は笑って応えた[58]。
澄子が遺書を書いたのは、7日の午前中であったと考えられている。このとき、何かを書いている澄子に、龍郎が「見せろ見せろ」と言ったところ、澄子が「お父さん、龍ちやんは邪魔していけないよ」と訴えている。そして、袈裟雄に促されて炬燵へ移り、雑誌を読んでいる父と向かい合って執筆を続けた[60]。午後1時、年始の挨拶から千代が帰宅すると、澄子は学校へ出す作文の清書を終えたところで、「さあお父様もお母ちやんもごらん」と作文を見せようとしたが、袈裟雄は「おれは貴様の書いたセンチメンタルなものは嫌ひだ」として見ようとせず、「澄子文章を書くなら人の思想を書くな、どんなに下手でも自分の思想を書くものだ」と言い聞かせている。すると澄子は珍しく、「私、お父さん今まで自分の思想でないものを書いたためしがありません」とやや怒った様子で答えた[61]。
夕食の際は珍しく3杯も飯を食べ、その後母親と共に銭湯へ出掛けた[62]。その行きがけに汽車の時刻表を眺めていたため、龍郎が「姉さん、そんなものなぜ見るのだ」と尋ねると、澄子は「うむちよつと」と答えて笑った[60]。門口を出たとき、澄子は頭上の星を指さし、「お母ちやん、あんな綺麗な星が一つ輝いてゐる御覧」などと言ったが、風呂の行き帰りに星の話をするのはいつものことであったため、千代は気にすることなく「さうね」と答えている[62]。
銭湯へ入ると、澄子はいつもよりは急いだ様子で黙って身体を洗い、千代よりも3分ほど早く上がっている。普段であれば着物を着て千代を待っているはずであったが、その日は姿が見えなかったことから、千代は急いで家へ帰ったが、家にも不在であった。すぐに袈裟雄や龍郎と共に捜索を始めたところ、知人の一人から「さつき澄子さん、弁天前で見た。とても急いでお辞儀もしないで行つた」との証言が得られている[63]。更に捜索を続けた千代が踏切へ来たところ、轢死があったと噂話をしている者たちがおり、すぐに「これは澄子にちがひない」と確信したという。その後、線路沿いで出会った巡査に連れられて行き、死体を確認すると、澄子であることが確認された。また袈裟雄も行き違いに、千代よりも先に澄子の遺体を確認していた[64]。
両親に宛てて残された遺書は、以下のようなものだった。
お父様。お母様。
何も彼もさよなら。
光を求めて永遠の世界に行きます。永遠の世界では、もつと優等な人間として暮したく思ひます。私の今…………あまりに劣等な人間です。
現実といふものがあまりに厭はしくなつて、毎日々々苦しみ通しました。大きくなるにつれて、劣等な人間になりつゝ行くのを見た時、私はほんとに、生きてをられなくなりました。二年もそれは前でした。それから今まで、死といふことのみ思ひました。しかし人間特有の煮え切らない心を有つた私は、死といふものがあまりに恐ろしくて、どうすることも出来ず。唯一人で苦しみました。私は今、早く此の苦しみから、のがれたいと思つて、永遠の世界に行きます。どうぞ皆様、幸福に暮して下さいませ。色々書かうとすれば、泪が出てたまりません。今初めて私は、雑誌の濫読の悪い影響を知りました。私が、こんなにまで苦しい劣等の人間として生きる様になつたのも、大人の止めるのを聞かないで、唯々、文章家にならうとの心から、下だらない雑誌に読み耽つたからだと今更思つて居ます。
お父様。お母様。健康でお暮しなさいます様、祈ります。
— 清水澄子[65]
このほか、『さゝやき』には、弟の龍郎に宛てた遺書も収載されている。その中で澄子は、「あゝ龍ちやん、姉さんは、どうしてこんな下だらない人間になつたのでせうね。姉さんは、ほんとに自己をふり反つた時、あまりにみすぼらしい自分の姿に声を立てゝ泣きたくなります。龍ちやん、あなたは、雑誌を濫読しないで、これより一層勉強して、皆に負けないで下さい。人間と生れて、人に負けた時ほど、見苦しいものはありませんよ。えらい者になれとは望まないけれど、人に負けないといふことを望みます。これが姉さんの最期の願です」と書き残している[66]。
千代は澄子の死の直後について、「澄子や、お母ちやんは涙一滴出ませんでした。唯「どうして死んだのでせう/\」と一夜言ひ明かしました」と記している。一方で袈裟雄のほうは「おれは随分可愛がつたがなあ。其の愛に酬いてくれるに是では余りひどい」と興奮し、医師を呼んで薬を処方されている[67]。また、千代によれば龍郎は何も言わず涙も見せなかったが、「おれが姉さんのことを忘れる? 思ひどうしだ、つまらないや」「姉さんは馬鹿だなあ」「永遠の世界なんて人間の頭で作つた空想だと思ふがなあ」などと口にし、実に寂しそうな様子であったという[68]。
死後
1925年(大正14年)1月8日、午前10時頃に検屍が終了し、遺体は家へ帰ることなく正午頃に火葬場へ送られ、午後7時頃、荼毘に付された[67]。10日、上田市の大輪寺で葬儀が営まれ[53]、4月5日、澄子は埴科郡東条村(現・長野市松代町東条)の浄福寺に葬られた。法名は「淨心院澄順至清大姉」[7][53]。
澄子の自殺は、『信濃毎日新聞』の1月9日付の紙面に、顔写真を掲載して大きく報道され、翌10日には、遺書の全文と袈裟雄の談話が掲載された。このことにより澄子の自殺は、大きな波紋となって広がったとされる。更に13日に同紙は、「一少女の死に就て 教育的考察」と題した社説を掲載。「上田高等女学校に於ける、一少女の自殺は、吾等を驚かせたが、更らにその遺書によつて、彼女をして死を撰ばしめた心持ちを知り得て、吾等は考へさせられる」との書き出しで、以下のように述べた[69](一部抜粋)。
人の世の悩み――それは覚めたる成人ばかりの持つものと限らぬ。少年少女にも、少年少女の姿に於て、悩みはある。而かもそれが成人から見て、悩みとするに足らぬ姿の悩みであつても、少年少女としては、生一本に、真剣な血の出る悩みであることを、成人は先づ理解し、尊重して、而してこれを善導せなくてはならぬ。
善導の基礎づけは、正しき理解のみであつて、導くものと、導かれるものと、唯一の交響は、敬虔そのものゝ外にない。
少年少女の悩みこそは、敬虔そのものである。而かも、これを頭から馬鹿にしてかゝる成人の姿こそは、これを何に譬へつべきか。面を背向けて唾棄せなくてはならぬ。
一少女の潜心した「自己省察」は、吾等の生活を永遠に生かす唯一の活路である。そこを真面目に歩まんとして、踏み外して、死を撰ばねばならなかつたのは、嘸淋しかつたらう。其淋しさに対して、一握の藁さへ投じ得なかつた教師は、父兄は、吾等は、考へなくてはならぬ。
— 「一少女の死に就て 教育的考察」(『信濃毎日新聞』1925年1月13日付社説)[70][注 7]
また、末尾では遺書にあった「雑誌濫読」にも言及し、「遺書中の「雑誌濫読」は、悩めるものゝ、満たされぬ心からの渇望であらう。よりよき撰択された副教科書を与へざる限り、徒らに禁止しても、禁止は能きぬ。教育界の一考を促がすべく付言する」と付け加えている[71]。東(2002)は、「この社説の論座は、大正十四年という時代状況に照らして、まさに卓見であり、八十年近い歳月を経た現在の教育課題にあっても、傾聴すべき言説であると思う」と評価している。また、当時の信毎紙では主筆が社説や論説を執筆していたことから、筆者は風見章であろうと推測している[71]。
注釈
- ^ a b 長野県小県郡上田町は、1919年(大正8年)5月1日に市制施行し、上田市となった[15]。また大工町について、志村(2004)は「馬場町」の通称とし[16]、『広報うえだ』は「馬場町と鍛冶町との間の南北約二百メートルの通り」としている[17]。
- ^ 龍郎の読みは「りゅうろう」[16]。
- ^ 当時、袈裟雄は東京の日本大学高等師範部正課で学び直し、中学校教員資格を取り直していた。准教員の袈裟雄は赴任以来20円のまま昇給していなかったが、一方で本科正教員の千代は2年ごとに1円ずつの昇給があった。こうした資格の取り直しは当時、よくある例であったとされる[21]。
- ^ 千代によれば「手先きのぶきなお前は此処の専攻科では覚束ないからと、いろ/\考へた末」、女子大学英文科への進学ということに決まったという[46]。
- ^ 宝文館版『さゝやき』の見返しに示されている地図を基に作成。
- ^ 15歳8ヶ月と7日の生涯だった[53]。
- ^ 太字部分は原文では傍点。
- ^ いずれも現存しない[79]。
- ^ 死因は心臓病であったとされる[104]。
- ^ a b 矢嶋(1994)は、千代の没日を8月8日としている[107]。
- ^ a b 龍郎の二男である若麻績実豊(わかおみじっぽう)は、本名は「豊」で、2003年(平成15年)時点で埴科郡坂城町で寺の住職を務めていた。また、その弟の清水明は、同時点で埼玉県に在住している[111]。
- ^ 復刻版『清水澄子』の刊行日について、藤城(2004)は2003年(平成15年)12月としている一方[115]、志村(2004)は奥付通り「二〇〇四年一月七日発行という日付で(中略)書が出た」としている[116]。
- ^ 番組名について、藤城(2004)は『夭折の詩人清水澄子の心』[115]、『広報うえだ』は『夭折の詩人 清水澄子・魂の叫び』と表記している[119]。
- ^ 千代は付け加えて、「其の執着のなかつた無欲な心が遂に大切な/\肉体まで、何の遅疑する所もなくさらりさつぱりと捨てゝしまつたのですか」と問い掛けている[123]。
- ^ 志村(2002)はこの「どこの国へ行つても」との記述について、嫁入り後のことなどではなく、死の世界を示しているのではないか、と推察している[126]。
- ^ 1903年(明治36年)時点で袈裟雄は33歳[21]。
- ^ 矢嶋(1994)は浄福寺の過去帳と墓碑を根拠としている。袈裟雄の祖父・徳左衛門らしき墓には文政13年とあり、苗字が使われていない[127]。
- ^ 長野県師範学校の同期(卒業時、男子69名・女子23名)に、歌人の四賀光子がいた[129]。
出典
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