沙沙貴神社 概要

沙沙貴神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/28 04:14 UTC 版)

概要

楼門

少彦名命を含めて計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。近江源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。

歴史

神代に少彦名神小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったという。このことからこの地は「ササキ」と呼ばれるようになり、その地に少彦名神を祀ったことが当社の始まりであるという。古代に沙沙貴山君大彦命を合わせて祀り、景行天皇志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。

平安時代には近江国蒲生郡式内社となっている。

宇多源氏源成頼がこの地に土着するようになると、孫の佐々木経方佐々木氏と称するようになった。そして、もともとこの地に住んでいた沙沙貴山君の子孫である沙沙貴氏と次第に融合していくと、沙沙貴氏の氏神であった沙沙貴神社に宇多源氏の祖である敦実親王とその父・宇多天皇を新たに合祀し、自らの氏神とした。以降当社は宇多源氏とも近江源氏とも呼ばれる佐々木氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬するようになった。

戦国時代、この地を治めていた佐々木氏の嫡流・六角氏織田信長によって放逐され、当地は信長の支配下に入った。後には信長の居城である安土城が付近に築城されたが、当社は破却を免れて維持されている。

江戸時代天保年間(1831年 - 1845年)に火災によって社殿が焼失するが、弘化5年(1848年)に丸亀藩京極高朗により本殿、権殿、拝殿、楼門などが再建された。その際、水原源四郎俊勇が棟梁となって平安時代、鎌倉時代の様式で再建が行われている。それらの建物はいづれも滋賀県指定有形文化財となっている。

明治時代になると、当社は県社に列せられている。

婆沙羅大名佐々木道誉、信長に徹底して反抗した六角義賢、当社を再建した京極高朗の他、日露戦争での203高地の戦いで有名な乃木希典も佐々木一族である。現在も宇多源氏佐々木氏は、六角氏京極氏朽木氏黒田氏三井家など220余姓の末裔の篤い信仰を集めている。

祭神




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