櫻内幸雄 栄典

櫻内幸雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 14:33 UTC 版)

栄典

位階
勲章等

エピソード

少年時代

幸雄は10歳に満たぬ年少の身でありながらすすんで母を手伝った[11]。母のつくった豆腐油揚げは店で売れるのは量が知れていた[11]。母は自分のつくった油揚げを籠に入れて背負い山坂越えて遠く島根県八束郡の外海方面まで行商に行った[12]。幸雄少年も小さな肩に荷物を背負い、近隣の村々を売って歩いた[12]。毎朝五時に家を出て、八時過ぎに帰ってくると、朝めしもそこそこに学校にかけつけ、午後になって帰宅すると、まもなく夕方から豆腐売りにでかけるのである[12]

ときによると、その前に菓子などの行商にも出たというから、少年とはいいながらその奮闘ぶりは周囲の人たちを感動させたものらしい[12]。“士族の坊っちゃまが…”そういって彼らは、つとめて幸雄少年から買ってくれるのであった[12]

家族・親族

桜内家

島根県能義郡広瀬町(現安来市)、鳥取県西伯郡米子町(現米子市)・西伯郡境町(現境港市)、東京都港区
櫻内家は旧幕時代には広瀬藩主・松平佐渡守の家臣であった[13]。広瀬藩は3万石の小藩であるが、藩主松平家徳川将軍家一門で、したがって小藩とはいいながら格式は高く、藩主はもとより藩士の末に至るまでかなり自尊心が強かったようである[13]。今でいうエリート意識である[13]。祖父・四郎左衛門以前の系譜については、現存する公文書には記載されていない[14]。明治新政府になってから、地方官吏の手によってつくられた戸籍原簿は、四郎左衛門からはじまっている[14]。桜内家には、地方の旧家でよく見せられるような、もったいぶった系図がない[14]。四郎左衛門よりさかのぼって語りえないのはいささか残念である[15]
  • 祖父・四郎左衛門(広瀬藩士)
    広瀬藩の藩士のなかに桜内四郎左衛門という武士があった[13]。役は側用人だった[13]。側用人というのは、早くいえば殿様の秘書で、つねに側近にあって殿に奉仕するのが日常の任務であった[14]。桜内四郎左衛門は、役は側用人であるが単なる秘書役的な存在ではなかったらしい[14]。頭脳きわめて明敏、ことに理財の道に長け、松平家広瀬藩の財政経済については、もっぱら指導的な役割りを担当していた[14]。のちに明治維新になってからは、彼は藩に新設された参事の重任を負い、藩主松平直巳を補佐して藩財政の建て直しから、ひいては人事一般についても根本的な方針を確立し、廃藩という非常時局に対処して主家をあやまらしめなかった[14]明治6年(1873年)に、四郎左衛門は隠居の届出をして、家督を長男の和一郎にゆずった[15]
  • 祖母・トセ
    あきらかにその人となりを語る資料を欠く[15]
  • 父・和一郎(広瀬藩士、島根県士族
    1850年嘉永3年)生[16] - 没
    廃藩の頃、松平家からの頂戴金と士族に対する政府の御下げ渡し金とで、櫻内家には一応すくなからぬ金がはいった[17]。それを資本にして和一郎はあれこれと事業に手を出したが、世にいう“士族の商法”でうまくいかず、次第に食いつぶしてしまった[17]隠居した四郎左衛門が、広瀬藩きっての理財家であったことを考えると、和一郎の失敗はいささか首をかしげたくなるのであるが、所詮は激動する社会の波に乗り切れなかったのであろう[17]。和一郎の手腕才能をうんぬんする前に、明治維新という革命によって起こされた社会変動の大きさと深さとを改めて考える必要がある[17]
    和一郎は、1885年明治18年)鳥取県西伯郡米子町(現米子市)に一家を移し、水車業を経営しようとした[18]。和一郎と綾女は、境遇の激変に負けることなく力を合わせて馴れぬ商売と取り組んだので、どうやら糊口に窮することはなかった[18]。ところが1886年(明治19年)秋に山陰地方一帯は大水害を蒙ってしまった[18]。せっかく手に入れた水車はあっというまに破壊され、家具家財いっさいは、あるいは水びたしとなり、あるいは流失するという有様で惨憺たるものであった[18]。和一郎夫婦は、手をとり合って自分たちの不幸を嘆くほかなかった[19]。気を取りなおして彼らはふたたび安住の地を求めて、郡内の境町(現境港市)に移った[19]。幸雄が数え年7歳の秋である[19]。小間物や雑貨を仕入れて小売の店をやってみたが、これもうまくいかなかった[11]。次に豆腐屋をはじめた[11]。商売は軌道に乗り、繁昌したという[20]
  • 母・(広瀬藩儒学者・堀重兵衛の娘[16]
    堀家は、同じ広瀬藩にながく仕えた家で、代々儒学をもって知られていた[16]。したがって、綾女は儒者である父重兵衛により厳格な家庭教育を施され、当時としてはインテリ女性ともいうべき存在だった[16]
  • 姉・清女照女
  • 弟・辰郎(実業家、政治家)
    1886年(明治19年)3月生 - 1954年(昭和29年)11月没
  • 妻・貞子(徳永純の娘[21]
    1903年(明治36年)に幸雄は結婚をした[21]。花嫁は、徳永純の長女で貞子といい、幸雄より2つ年下の22歳だった[21]。徳永という人は異色ある人物で、若いころは仏門にはいって真宗の伝導師をしていたが、壮年期以後は富士製紙会社に入り、かなり重い役職を歴任したらしい[21]
  • 長男・乾雄(実業家・元中国電力会長)
    1905年(明治38年)5月生 - 1977年(昭和52年)4月没
    • 同先妻・百合子(実業家、政治家佐々田懋の孫娘)
    • 同後妻・たま子(実業家葉住利蔵の孫娘)
  • 四男・義雄(実業家、政治家)
1912年(明治45年)5月生 - 2003年(平成15年)7月没

他家

  • 叔父・清山乙之進
    幸雄が東京へ出て行くための旅費10円を貸した[24]。10円といえば馬鹿にならない金額である[24]。とにかく、14歳の少年に貸すにしては少々大金である[24]。快く貸してやったのは、この叔父がよほど幸雄少年の人物を見込んでいたからであろう[24]

栄典


  1. ^ 『第十版 大衆人事録』サ九九頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『政治家人名事典』235頁。
  3. ^ 「高架電気鉄道計画」東京朝日新聞 明治39年12月10日『新聞集成明治編年史第十三巻』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  4. ^ 『櫻内家の人々』47頁。
  5. ^ a b 『昭和の政党』419頁。
  6. ^ 『昭和の政党』262頁。
  7. ^ 中国電力(株)『中国地方電気事業史』(1974.12)渋沢社史データベース
  8. ^ a b c d e f 桜内幸雄」 アジア歴史資料センター Ref.A06051182800 
  9. ^ 『官報』第1310号「叙任及辞令」1931年5月15日。
  10. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  11. ^ a b c d 『櫻内家の人々』35頁。
  12. ^ a b c d e 『櫻内家の人々』36頁。
  13. ^ a b c d e 『櫻内家の人々』26頁。
  14. ^ a b c d e f g 『櫻内家の人々』27頁。
  15. ^ a b c 『櫻内家の人々』28頁。
  16. ^ a b c d 『櫻内家の人々』29頁。
  17. ^ a b c d 『櫻内家の人々』32頁。
  18. ^ a b c d 『櫻内家の人々』33頁。
  19. ^ a b c 『櫻内家の人々』34頁。
  20. ^ 『櫻内家の人々』38頁。
  21. ^ a b c d 『櫻内家の人々』75頁。
  22. ^ 『櫻内家の人々』100-101頁。
  23. ^ 『櫻内家の人々』130頁。
  24. ^ a b c d 『櫻内家の人々』45頁。
  25. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。


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