関桂三
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せき けいぞう
関 桂三
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関 桂三
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生誕 | 1884年1月3日 奈良県山辺郡 |
死没 | 1963年5月2日(79歳没) |
国籍 | ![]() |
民族 | 日本人 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
活動期間 | 1908年 - 1963年 |
配偶者 | あり |
子供 | 関集三(三男) |
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。
来歴・人物
奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後[1]、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた[2]。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた[3][4]。同時に繊維統制会会長にも就く[5]。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか[6] 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。1946年から1950年まで公職追放 [7]。1955年学位論文「日本綿業論」により母校東京大学より経済学博士号を授与された[8]。
俳句を野村泊月、高浜虚子に師事。『ホトトギス』の同人となり野村とともに俳誌『桐の葉』を創刊・主宰した。句集『春日野』(1956年)がある。俳号は圭草[9]。
脚注
- ^ 『東京帝国大学一覧 従明治41年至明治42年』東京帝国大学、1908年、p.128、法律学科/明治41年(1908年)7月卒業生/森田桂三
- ^ 關桂三氏追懐録 1965, pp. 463–472, 年譜.
- ^ 但しこの期間は商工経済会法の施行に伴い、大阪府商工経済会に改組されていた。※日本商工経済会
- ^ 『大阪商工会議所八十五年史』大阪商工会議所、1965年、pp.88-89
- ^ 關桂三氏追懐録 1965, p. 467, 年譜.
- ^ 『関経連四十年の歩み』関西経済連合会、1987年、p.341、役員一覧
- ^ 關桂三氏追懐録 1965, pp. 468–469, 年譜.
- ^ 論文ID:NAID 500002388998
- ^ 關桂三氏追懐録 1965, pp. 423–441.
参考文献
- 『關桂三氏追懐録』關桂三氏追懐録刊行会、1965年。
外部リンク
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