普仏戦争 フランス国防政府による継戦~ドイツ帝国樹立

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普仏戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 13:51 UTC 版)

フランス国防政府による継戦~ドイツ帝国樹立

臨時政府樹立

ナポレオン3世が捕虜になったニュースはパリに衝撃を与え、9月4日にルイ・ジュール・トロシュ(Louis Jules Trochu)将軍、ジュール・ファーヴル(Jules Favre)、レオン・ガンベタ(Leon Gambetta)らが仕掛けた無血クーデターが成功し、フランス第二帝政は打倒された。彼らはボナパルト派の第二帝政を退け、国防政府フランス語版英語版(臨時政府)を樹立させて、共和国を宣言した。これが将来の第三共和国につながっていく。なお、ナポレオン3世はドイツへ連行され、翌1871年3月19日に解放された。

セダンでのドイツ勝利の後、ナポレオン3世の軍はドイツに降伏して皇帝自身が捕虜となった。バゼーヌ元帥の軍はメスで包囲されて動けなくなっており、残っているフランス軍部隊の大部分は戦闘に参加していない。この状況を受けて、ドイツ側としては交戦状態を公式に終わらせて休戦し、更に講和につなげる道筋を望んだ。特にプロイセン宰相ビスマルクは、可能な限り早く戦争を終わらせたかった。多くの国と接するプロイセンのような国にとって、戦争が長引くという事は、他の勢力からの干渉を受ける危険性が増す事を意味する。ビスマルクは、その危険を最小限にすると固く決心していた。

当初、和平への道筋は明るいと考えられていた。ドイツ側は、フランス新政府は自分たちの手で倒した前皇帝の始めた戦争を続けることに興味はないだろうと推測していた。和平の道を探るため、ビスマルクはフランス新政府をフェリエール城(Château de Ferrières)で開かれた交渉に招き、穏当な講和条件のリストを示した。それにはアルザスにおける限定的な領土要求も含まれていた。

プファルツ州のライン川沿いの国境争いは1840年からなされており(アドルフ・ティエール、ライン危機)、ドイツ人はライン川の両岸を守るいう意識が強かった[注釈 3]。プロイセンは最近カトリック人口の多い広範囲の地域を獲得したため、更なる拡張は望ましくないとビスマルクは考えていた。

休戦拒否と継戦

"パリのカフェでの戦争論議"
(画) フレッド・バーナード[44]
パリ包囲戦のプロイセン砲兵

共和国政府は、賠償金支払いや、アフリカまたは東南アジアの植民地をプロイセンに割譲する案も検討できたのだが、9月6日、ジュール・ファーブルは国防政府を代表して、フランスは「領土1インチたりとも、要塞の一石たりとも、譲り渡しはしない」と宣言した[45]。そして、共和国は改めて宣戦し、全国で兵を徴募し、敵軍をフランスから追い出す事を公約とした。

これらの状況の下で、ドイツ軍は戦争を継続せねばならなくなった。とはいえ、ドイツ軍周辺でこれといった軍事的抵抗は確認されなかった。残っているフランス軍はパリ付近で塹壕を掘って布陣しているため、ドイツ軍の指導部はパリを攻撃して圧力を掛けることを決めた。9月15日までに、ドイツ軍は堅固な要塞と化したパリ市街の郊外に到着した。9月19日、ドイツ軍はパリを包囲し、障害物を構築してパリを封鎖した。これは継続中のメス攻囲戦と同じ戦法である。

普仏戦争の開戦当初は、ヨーロッパの公論はかなりドイツ寄りであった。例えば、多くのイタリア人がフィレンツェのプロイセン大使館に来て志願兵に申し込もうとしたし、プロイセンの外交官はカプレーラ島ジュゼッペ・ガリバルディを訪ねもした。ところが、フランス帝政が倒れて共和国政府が成立し、ビスマルクがアルザス返還を要求すると、イタリア世論は劇的に変化した。

その最たる例は、パリ革命直後のガリバルディの反応であろう。彼は1870年9月7日のジェノヴァの「Movimento」において、次のように言った「昨日までは、私は君たちにこう言った:『ボナパルトを倒す戦争だ』と。しかし今日は君たちにこう言おう:『フランス共和国を、あらゆる手段を尽くして救おうではないか』」[46]。その後、ガリバルディはフランスへ赴き、ヴォージュ軍の指揮を執ることになる。

パリ攻囲戦

"戦争: パリ防衛 砦の守りに就く学生たち"。パリ攻囲戦の象徴的な画像の一つである。
"プロイセンのスパイ"。
市民が女装したスパイを発見。[47]

1870年9月19日から翌1871年1月28日のパリ包囲戦は、普仏戦争におけるフランス陸軍の最終的敗北を決定づけた戦いである。パリ攻囲戦期間中の1月18日[注釈 1]には、ヴェルサイユ宮殿ドイツ帝国の成立が宣言され、プロイセン国王ヴィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」(ドイツ語: Deutscher Kaiser)として推戴された。

ドイツ軍によるパリ包囲に直面して、フランス政府はフランス各地で幾つかの軍を編成するよう命じた。新しく編成された軍はパリに向けて進撃して、様々な方向から同時にドイツ軍を攻撃する企図であった。更に武装したフランス市民は、ドイツ軍の補給線を攻撃するために、いわゆる「Francs-tireurs」(「自由射手」)というゲリラ部隊を作った。

こうした状況の進展を受けて、ドイツ国内ではパリ市街への砲撃を求める世論が高まった。しかしながら、パリ攻囲戦を指揮していたレオンハルト・フォン・ブルーメンタール英語版少将は道義的な立場から、パリ市街の砲撃には反対であった。この点については、王太子やモルトケなど、軍の最高指導者たちからの賛同も得られていた。

しかしながら、ビスマルクらからの圧力により、最終的にパリ砲撃は実施された。

包囲されたパリ

ガンベタのパリからの出発

パリ攻囲戦に際して、ナダールやゴダール兄弟といった飛行研究家たちが軍事用気球を建造して気球部隊を組織した。ナダールはモンマルトルに拠点を置き、「ジョルジュ・サンド号」(le George-Sand)、「アルマン・バルベス号」(l’Armand-Barbès)、「ルイ・ブラン号」(le Louis-Blanc)と名づけた石炭ガスで膨らませた3機の軽気球で、パリに迫る敵の偵察と撮影、地図作成、手紙の輸送などの作戦に従事した。当時の内務大臣で後の第三共和制成立に重要な役割を果たした愛国者レオン・ガンベタは、パリ包囲後の1870年10月7日に密使としてアルマン・バルベス号でパリを脱出し、トゥールに設置されていた国防政府派遣部に合流して指導者となった。

1870年9月から1871年1月までの間に、ゴダール兄弟がリヨン駅で、ナダールがパリ北駅で、それぞれ臨時の軽気球工場を運営した。66機の気球が建造され、包囲され電信ケーブルも切断されたパリから各地への11トン・250万通の郵便の輸送に従事した。これが世界最初の飛行機械の大量生産であり、世界最初の航空郵便でもあった[48]。しかし軽気球の飛行は風任せの飛行でありどこに着地するかは予測できず、中には海に落ちて行方不明になったもの、プロイセン軍占領地域に着地して没収されたもの、ノルウェーにまで飛んで行き、期せずして当時の飛行最長記録を打ち立てたものもあった[49]。地方からパリ市内に向けて気球を正確に着地させることは不可能だったため、気球はすべてパリ発の一方通行で、地方からの返信にはもっぱら伝書鳩が用いられた。

ロワール方面の戦い

トゥールで国防政府派遣部を指揮するレオン・ガンベタは、新しいフランス軍の徴兵を開始した。

ドイツ軍の「皆殺し」計画についての真偽不明のニュースがフランス人を激昂させ、それによってフランス市民は新政府への支援を強め、数週間のうちに総兵力50万人以上の5個軍が新設された。

こうした動きにドイツ側も気付き、新しいフランス軍がパリ攻囲戦やその他の場所で大きな脅威となる前に発見、攻撃、分散させるため、幾らかの部隊をフランス各地へ派遣した。ドイツ軍はフランス全土を占領する用意はできていなかった。もしフランス全土を占領するとなれば、軍の配置が広がりすぎる。そうなれば1864年1866年に戦って勝利したデンマークやオーストリアに対する備えが手薄になる。

10月10日、オルレアン付近でドイツ軍とフランス共和国軍の間の戦闘が起こった。当初はドイツ軍が勝利したが、フランス軍が援軍を送り込み、11月9日のクルミエの戦いでドイツ軍を破った。しかし、メス攻囲戦においてフランス軍が降伏した後、実戦経験のある10万人以上のドイツ軍精鋭部隊がドイツ軍の「南方軍」に加わった。この結果、フランス軍は12月4日にオルレアンを放棄せざるを得なくなり、最終的にル・マンの戦い(1月10〜12日)においてフランス軍は敗北した。

パリの北方で作戦しているフランス第2軍はアミアンの戦い(1870年11月27日)、バポームの戦い(1871年1月3日)、サン・カンタンの戦い(1月13日)と転戦した。

北部方面の戦い

普仏戦争中の1871年1月2~3日にビエフヴィエ=レ=バポーム(Biefvillers-les-Bapaume)やバポーム(Bapaume)およびその近郊で起こったバポームの戦い。プロイセン軍の進撃をルイ・フェデルブ将軍のフランス「北方軍」が止めた。

ロワール軍の敗北を受けて、ガンベタはルイ・フェデルブ(Louis Leon Cesar Faidherbe)将軍の北方軍に救いを求めた。北方軍はアム(Ham)、La Hallue、アミアンなどで小規模な勝利を挙げていた。フェデルブ軍の部隊は北部フランスの要塞帯に拠ってうまく守りを固めていたため、孤立したプロイセン部隊に対して素早く攻撃を掛け、速やかに要塞帯の後方に退く戦法が可能となっていた。

北部軍は、武器工場群があるリールとの連絡は付いていたものの補給にかなり苦しんでおり、兵の士気は上がりにくかった。1871年1月、ガンベタはフェデルブ将軍に命じて、要塞帯を越えて軍を進め、野戦でプロイセン軍と交戦する事を強要した。軍は既に士気も低く、補給の問題、そして極寒の気象、兵の質が低いことにも苦しめられていた一方、フェデルブ将軍も西アフリカ以来数十年にわたる転戦の結果、自身の健康状態が悪化しており有効な陣頭指揮が出来なくなっていた。

サン・カンタンの戦いにおいて、フランス北方軍は大敗を喫して四散し、数万のプロイセン軍が東部方面に向うのを許す結果となった。

東部方面の戦い

ロワール方面のフランス軍壊滅の後、ロワール軍の敗残兵はフランス東部に集結して東方軍を編成し、シャルル・ブルバキ(Charles Denis Bourbaki)将軍がこれを率いた。フランス北東部のドイツ軍補給線を断つ最後の試みにおいて、ブルバキ軍は北へ進軍してベルフォールを包囲しているプロイセン軍を攻撃し、友軍を救出しようとした。

リゼーヌ(Lisaine)の戦いにおいて、ブルバキ軍の部隊はアウグスト・フォン・ヴェーダー(August von Werder)将軍が指揮するドイツ軍防御線の突破に失敗した。更にエドヴィン・フォン・マントイフェル将軍のドイツ「南方軍」も加わって、ブルバキ軍をスイス国境付近の山地まで追い詰めた。全滅の危機に瀕したブルバキ軍は国境を越えてスイスに入り、ポンタルリエ(Pontarlier)付近で中立国スイスの手により武装解除され捕虜となった。

休戦

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが描いたこの絵画では、普仏戦争後の困窮からの復興に向けた希望の象徴としてオークの小枝を持った女性が描かれている。[50] ウォルターズ美術館蔵。

1871年1月18日、パリに本拠を置く国防政府はプロイセンと休戦交渉を行った。パリの食糧が欠乏し[注釈 4]、ガンベタの地方軍は度重なる敗戦で浮足立っている状況を受けて、1月24日フランス外相ジュール・ファーブルはビスマルクと講和条件を議論するためにヴェルサイユに赴いた。また、ナポレオン三世の愛人であったヴィルジニア・オルドイーニ[注釈 5]がビスマルクと会見し、プロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得した。

ビスマルクは、国防政府がパリ郊外の幾つかの主要な要塞をプロイセン軍に明け渡すという条件の下で、直ちにパリ包囲を中止し、食糧(ドイツ軍の兵糧数百万食も含む)を搬入することに合意した。これらの要塞がなければ、フランス軍はもはやパリを防衛することはできない。パリの世論はプロイセンに対するいかなる形の開城にも譲歩にも強く反対していたが、国防政府の認識では、譲歩せずに戦争を続けた所でパリ陥落はもはや時間の問題であり、ガンベタの地方軍もドイツ軍を突破してパリを救うことはほぼ不可能であろうという認識であった。1月25日、ジュール・トロシュ首相は辞任して、ジュール・ファーブルがその後任となり、その2日後ファーブル首相はヴェルサイユにて降伏文書に署名し、翌午前0時に休戦が発効した。幾つかの情報源によれば、ファーブルはパリに戻る移動の途中で涙を流し、彼の娘の腕の中に泣き崩れたという。そして真夜中、パリ周辺の銃声は止んだ。

1月30日、ガンベタはトゥールでパリからの通信を受け取り、政府が降伏したと知らされた。彼は怒り狂って降伏を拒否し、直ちにオルレアンのドイツ軍に攻撃を開始した。その攻撃は、予想されていたとおり、失敗した。2月5日、パリの外交部の代理人がガンベタと討議するためにトゥールに到着し、翌日ガンベタは辞任して地方軍の指揮権を国防政府に返し、国防政府は直ちにフランス全土での休戦を命じた。


注釈

  1. ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
  2. ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
  3. ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
  4. ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
  5. ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
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  42. ^ a b c d 林 1967 p84
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  71. ^ Bailey 2004, p. 218.






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