普仏戦争 背景

普仏戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 06:39 UTC 版)

背景

北ドイツ連邦(赤)、南ドイツ諸邦(黄)、エルザス=ロートリンゲン地方(薄黄)

ドイツ統一への目論見

普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。

こうして新たに強い勢力が生まれることは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1815年)で決められたヨーロッパのパワー・バランスが崩れることを意味していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した[3]。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。

次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国ヴュルテンベルク王国バーデン大公国ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。プロイセンが南ドイツ諸国を併合すれば、プロイセンの軍事力は強大化するため、フランスはプロイセンの南ドイツ併合に強く反対した[4]

プロイセンでは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部諸邦においてドイツ民族としてのナショナリズムを呼び覚ます必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠であると分析・判断していた。この狙いはドイツ宰相ビスマルクの「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」という言葉によく表れている[5]。ビスマルクは、南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、ドイツ側の数的優位を確保するためには、フランスを侵略者と見なされねばならないこともよく認識していた[6]。また、多くのドイツ人は、歴史的にフランスがヨーロッパを不安定化させてきたと見なしており、平和を乱さないためにはフランスの力を弱める必要があると考えていた[7]

スペイン王位継承問題とエムス電報事件

ヴィルヘルム1世から言質を得ようとするフランス大使

戦争の直接的な要因は、スペイン1868年革命スペイン語版の末に空位となっていたスペイン王位に、プロイセン国王の親戚である、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家英語版レオポルトが推挙された事にある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。

スペイン王位継承問題は、このようにフランスの外交的勝利で終結するかに見えた。ところが、フランスはこれを明文化させようと、7月13日、温泉保養地バート・エムスに滞在中であったプロイセン国王ヴィルヘルム1世に大使を派遣。しかし、ヴィルヘルム1世はこれを非礼であるとして拒絶した。

同日午後、この事実を電報で知った、プロイセン首相ビスマルクは、この問題を煽ってフランス側から宣戦させることを企図する。ビスマルクは、フランスの非礼と国王の怒りを強調して編集(情報操作)し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。

この日はフランス革命記念日であり、大使の受けた恥辱にナショナリズムを刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌日7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。外交的な問題に加えて、ナポレオン3世と首相エミール・オリヴィエは国内的な政治問題を解決する必要性からも、宣戦の必要があると考えた[8]

一方のプロイセンもフランス同様、国王への侮辱に対し民衆がこの事件にナショナリズムを刺激され、さらにこれが南独にも波及し、諸邦は直ちにプロイセン側に立った[6]


注釈

  1. ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
  2. ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
  3. ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
  4. ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
  5. ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229
  3. ^ Howard 1991, p. 40.
  4. ^ Howard 1991, p. 45.
  5. ^ von Bismarck 1898, p. 58.
  6. ^ a b Britannica: Franco-German War.
  7. ^ Howard, 1991 & 41.
  8. ^ Wawro 2003, pp. 28–30.
  9. ^ a b c d e 林 1967 p74
  10. ^ 林 1967 p74-75
  11. ^ a b c 林 1967 p75
  12. ^ 林 1967 p73
  13. ^ 林 1967 p73-74
  14. ^ a b c d 林 1967 p77
  15. ^ 林 1967 p77-78
  16. ^ Howard 1991, p. 78.
  17. ^ Wawro 2003, pp. 66–67.
  18. ^ Howard 1991, pp. 47, 48, 60.
  19. ^ Wawro 2003, pp. 85, 86, 90.
  20. ^ a b c 林 1967 p78
  21. ^ Wawro 2003, pp. 87, 90.
  22. ^ Wawro 2003, p. 94.
  23. ^ Howard 1991, p. 82.
  24. ^ Wawro 2003, p. 95.
  25. ^ Howard 1991, pp. 100–101.
  26. ^ Howard 1991, p. 101.
  27. ^ Wawro 2003, pp. 97, 98, 101.
  28. ^ Wawro 2003, pp. 101–103.
  29. ^ Howard 1961, pp. 101–103.
  30. ^ a b 林 1967 p79
  31. ^ Howard 1991, pp. 87–88.
  32. ^ 林 1967 p79-80
  33. ^ Howard 1991, pp. 89–90.
  34. ^ Howard 1991, pp. 92–93.
  35. ^ a b 林 1967 p80
  36. ^ Howard 1991, pp. 98–99.
  37. ^ Howard 1991, p. 116.
  38. ^ a b c d 林 1967 p81
  39. ^ a b c 林 1967 p83
  40. ^ 林 1967 p83-84
  41. ^ a b c d 林 1967 p84
  42. ^ 林 1967 p84-85
  43. ^ 1870年9月17日のIllustrated London News誌掲載の挿絵
  44. ^ Craig 1980, p. 31.
  45. ^ Ridley 1976, p. 602.
  46. ^ イリュストラシオン・ユーロピエンヌ 1870, N° 48, p. 381.J.フェラ
  47. ^ Richard Holmes, Falling Upwards: London: Collins, 2013, p. 260
  48. ^ No. 1132: The Siege of Paris”. www.uh.edu. 2016年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月7日閲覧。
  49. ^ Hope”. ウォルターズ美術館. 2013年8月2日閲覧。
  50. ^ Rustow & Needham 1872, p. 229–235.
  51. ^ Wawro 2003, pp. 190–192.
  52. ^ a b Wawro 2003, p. 192.
  53. ^ Maurice & Long 1900, pp. 587–588.
  54. ^ Rustow & Needham 1872, p. 243.
  55. ^ van Creveld 1977, p. 96.
  56. ^ Howard 1991, p. 23.
  57. ^ a b Irvine 1938, p. 192.
  58. ^ Howard 1991, pp. 23–24.
  59. ^ Holborn 1942, p. 159.
  60. ^ Howard 1991, pp. 19–20.
  61. ^ Howard 1991, p. 21.
  62. ^ McElwee 1974, p. 46.
  63. ^ Howard 1991, p. 68.
  64. ^ Howard 1991, pp. 70–71.
  65. ^ Howard 1991, pp. 35–36.
  66. ^ Taylor 1988, p. 133.
  67. ^ Varley 2008, pp. 152?202.
  68. ^ Bailey 2004, pp. 218–219.
  69. ^ a b Howard 1961, pp. 156–157.
  70. ^ Bailey 2004, p. 218.






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