日朝修好条規 概要

日朝修好条規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 14:59 UTC 版)

概要

1875年に起きた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文があり、これら全てを含んで一体のものとされる。朝鮮の砲台が日本の軍艦を攻撃した江華島事件について、日本は宗主国として朝鮮を支配する清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張した。これに対して清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と反論したため、「朝鮮が清朝冊封から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。

朝鮮側には「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的な条項も含有されているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約である。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国イギリス帝政ドイツ帝政ロシアフランス)とも締結することとなった。

背景

朝鮮における攘夷高揚

興宣大院君

この条約が締結された当時、朝鮮は冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかし、そのような朝鮮も1860年代以降に欧米列強から近代的な国交・通商関係を求められるようになる。

当時、朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。大院君は鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の行為を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を推進していた大院君が西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高めた。また、朝鮮では、文禄・慶長の役で中国が朝鮮を救援したため、戦時には中国からの救援を期待していた。小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]

しかしながら、1866年のフランス人宣教師を含むキリスト教徒の虐殺事件(丙寅迫害)は報復としてフランス軍が軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾となり、同年のジェネラル・シャーマン号を焼き討ち事件アメリカ合衆国も報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行われる(辛未洋擾)という事態を招いた。

日朝間の懸案:書契問題

西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ築かれていたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といった用語が使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

旧暦で明治元年にあたる1868年以来、何度か朝鮮宛ての日本からの国書がもたらされたが、両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また、長崎の出島のように釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じた。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化し、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。

日本は朝鮮との交渉を有利にするため、朝鮮の宗主国である清朝と対等の条約を進めて、1871年に日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮に修交を促した。

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。

条約締結までの経過

国交交渉

国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉を始めたが、書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じて交渉は決裂、森山は砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開するに留まった。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件

9月20日、日本の雲揚艦が朝鮮側の首都漢城に近い月尾島沿いに投錨中、雲揚所属の端艇が江華島の砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢

ボアソナード

明治政府のフランス人法律顧問ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を「決して朝鮮に譲歩すべきではない」と具申した。

  • 釜山・江華港を貿易港として開港する。
  • 朝鮮領海の航行の自由。
  • 江華島事件についての謝罪要求。

またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。[要出典]

交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。[要出典]

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点及び戦争の発生がロシアや清朝の介入を許容する要因になるかもしれず、その点からも極力は戦争を回避する姿勢であった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

  • 砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
  • 江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。


  1. ^ 外務省・日本外交文書デジタルアーカイブ第9巻1「江華島事件ノ解決並ニ日鮮修好条規締結一件」[1]DFVU-P.58(※閲覧にはブラウザのダウンロード要)[2]
  2. ^ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p59
  3. ^ 砲艦外交の要請:「即今我軍艦一、二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して、海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、・・・又結交上に於ても、幾分の権利を進むるを得べきは、必然の勢なり」(下記田保橋潔本より、原載『朝鮮交際始末』)
  4. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p29。また、吉野誠「江華島事件」(『明治維新と征韓論』証書店、2002、192頁)など。「雲揚号事件をめぐる一考察」金光男(茨城大学人文学部紀要no.43 p.33-45 社会科学論集2007-3-30)[3]
  5. ^ 「自主」の解釈1(当時の見方):たとえば清朝の外交機関総理衙門は「朝鮮は中国の藩服に隷すと雖も、その本処の一切の政教・禁令は、向〔さき〕に該国に由り自ら専主を行う。中国従〔かつ〕て與聞せず」(朝鮮は中国の藩属国とはいえ、朝鮮の国政・法律は自らで行い、中国自体はそれに対しこれまで関与してこなかった。〔〕内、加筆者)と述べている。また当時駐華アメリカ公使だったロウは、朝鮮は清朝に貢物を送っているけれども、その性格は中国との交易の見返りとしての性格が強い、清朝は朝鮮に対していかなる形の支配や干渉する権限はないようだ、とアメリカ本国に報告している。
  6. ^ 「自主」の解釈2(現在の研究者の見解):日本側が「独立之邦」ではなく「自主之邦」ということばを用いたことについて、研究者の間でも意見が分かれている。わざわざ両義的な用語を用いることで朝鮮側が条約締結に応じやすくしようとしたとする説(高橋秀直)と、日本側は用語の両義性を認識していなかったという説(岡本隆司)がある。
  7. ^ 下関条約第一条:「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし」
  8. ^ 寺島宗則の条約観:寺島宗則外務卿はイギリス書記官プランケットに対し、日朝修好条規は下田においてペリーと締結した最初の条約に似ている、と言明している。
  9. ^ 宗属関係切断の試み:ただフランスとベトナムとの間で1874年締結された条約では「共和政府大統領、今より後、安南王を王と待し、且諸外国に対し安南独立なるへきを証」すると記し、清朝のベトナムに対する宗主権を否定している。
  10. ^ パークスの条約観:パークスは、欧米諸国と日本の間の条約における治外法権の条項について、日本側は苦情を述べているのに、朝鮮における日本人についての領事裁判権をこの日朝条約に明記したことは特筆に値すると本国に書き送っている。
  11. ^ 明治初期の円ドル為替レート:日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』並木書房、復刻版、1995。
  12. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p30。
  13. ^ 日本側は条約締結当初から日本が欧米諸国と取り決めた税率水準(一律5%であるが、対朝鮮においてはある程度融通を利かせて品目別に課税することも想定していた)程度であれば許容するつもりであったが、朝鮮側は品目別課税(最高35%)を主張して譲らなかった。(国立公文書館『朝鮮国信使税則該判概略書ノ件』P14~「海関税則草案」)






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