日朝修好条規
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条約締結の影響
- 条約の締結によって李氏朝鮮は開国し、それまでの慣習法を基にした伝統的な日朝関係が、国際法を基にした近代的なものへと置き換えられた。
- 日朝間の条約締結をうけて、欧米諸国はなおも鎖国政策を継続しようとする朝鮮に対してより一層開国を迫るようになった。
- 砲艦外交や米価騰貴、領事裁判権などいくつもの要因が重複して、朝鮮側は日本への悪感情を蓄積させていった。それはやがて壬午事変の暴発を招いた。
- 条約締結以後、清朝は建国以来の冊封国朝鮮を維持しようと、朝鮮に積極的に関与するようになる。朝鮮を冊封体制から近代国際法的な属国へと位置づけし直そうとし始める。同じく日本も朝鮮を影響下に置こうと画策し始めていたため、日本と清朝の対立が深まり、日清戦争の遠因となった。
主要参考文献
- 田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上、原書房、1973復刊(原著は朝鮮総督府中枢院より1940年刊)
- 彭澤周「江華島事件をめぐる諸問題」(『明治初期日韓清関係の研究』塙書房、1969、ISBN B000J9KK1G)
- 姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』平凡社、1977、ISBN B000J8YMY8
- 石井孝「日朝国交成立の国際的背景」(『明治初期の日本と東アジア』有隣堂、1982、ISBN 4896600517)
- 糟谷憲一「近代的外交体制の創出-朝鮮の場合を中心に-」(荒野泰典ほか編『アジアのなかの日本史Ⅱ 外交と戦争』東京大学出版会、1992、ISBN 9784130241229)
- 高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995、ISBN 4488006051
- 原田環『朝鮮の開国と近代化』渓水社、1997、ISBN 4874404502
- 大江志乃夫「近代日本の異常な五〇年」(『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998、ISBN 4651700764)
- 吉野誠「江華島事件」(『明治維新と征韓論』明石書店、2002、ISBN 4750316598)
- 岡本隆司「丙寅洋擾から江華条約へ」(『属国と自主のあいだ―近代清韓関係と東アジアの命運』名古屋大学出版会、2004、ISBN 481580494X)
- アンドレ・シュミット著、糟谷憲一訳『帝国のはざまで―朝鮮近代とナショナリズム―』名古屋大学出版会、2007、ISBN 4815805490
- 王明星『韓国近代外交与中国(1861―1910)』中国社会科学出版社、1998、ISBN 7500423861
- 吉野誠、「明治初期における外務省の朝鮮政策 : 朝廷直交論のゆくえ」『東海大学紀要.文学部』 1999年 第72輯, 東海大学文学部
- 吉野誠、「明治六年の征韓論争」『東海大学紀要.文学部』2000年 第73輯 p.1-18, NAID 110000195520
- 石田徹、「明治初期日朝交渉における書契の問題」『早稲田政治経済学雑誌』 2004年 356巻 p.102-118, 早稻田大學政治經濟學會
- 金光男、「雲揚号事件をめぐる一考察」『茨城大学人文学部紀要. 社会科学論集』 2007年 43号 p.33-45, 茨城大学人文学部
- 高橋秀直、「江華条約と明治政府」『京都大學文學部研究紀要』 1998年 37巻 p.45-110, 京都大學文學部
関連項目
- ^ 外務省・日本外交文書デジタルアーカイブ第9巻1「江華島事件ノ解決並ニ日鮮修好条規締結一件」[1]DFVU-P.58(※閲覧にはブラウザのダウンロード要)[2]
- ^ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p59
- ^ 砲艦外交の要請:「即今我軍艦一、二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して、海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、・・・又結交上に於ても、幾分の権利を進むるを得べきは、必然の勢なり」(下記田保橋潔本より、原載『朝鮮交際始末』)
- ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p29。また、吉野誠「江華島事件」(『明治維新と征韓論』証書店、2002、192頁)など。「雲揚号事件をめぐる一考察」金光男(茨城大学人文学部紀要no.43 p.33-45 社会科学論集2007-3-30)[3]
- ^ 「自主」の解釈1(当時の見方):たとえば清朝の外交機関総理衙門は「朝鮮は中国の藩服に隷すと雖も、その本処の一切の政教・禁令は、向〔さき〕に該国に由り自ら専主を行う。中国従〔かつ〕て與聞せず」(朝鮮は中国の藩属国とはいえ、朝鮮の国政・法律は自らで行い、中国自体はそれに対しこれまで関与してこなかった。〔〕内、加筆者)と述べている。また当時駐華アメリカ公使だったロウは、朝鮮は清朝に貢物を送っているけれども、その性格は中国との交易の見返りとしての性格が強い、清朝は朝鮮に対していかなる形の支配や干渉する権限はないようだ、とアメリカ本国に報告している。
- ^ 「自主」の解釈2(現在の研究者の見解):日本側が「独立之邦」ではなく「自主之邦」ということばを用いたことについて、研究者の間でも意見が分かれている。わざわざ両義的な用語を用いることで朝鮮側が条約締結に応じやすくしようとしたとする説(高橋秀直)と、日本側は用語の両義性を認識していなかったという説(岡本隆司)がある。
- ^ 下関条約第一条:「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし」
- ^ 寺島宗則の条約観:寺島宗則外務卿はイギリス書記官プランケットに対し、日朝修好条規は下田においてペリーと締結した最初の条約に似ている、と言明している。
- ^ 宗属関係切断の試み:ただフランスとベトナムとの間で1874年締結された条約では「共和政府大統領、今より後、安南王を王と待し、且諸外国に対し安南独立なるへきを証」すると記し、清朝のベトナムに対する宗主権を否定している。
- ^ パークスの条約観:パークスは、欧米諸国と日本の間の条約における治外法権の条項について、日本側は苦情を述べているのに、朝鮮における日本人についての領事裁判権をこの日朝条約に明記したことは特筆に値すると本国に書き送っている。
- ^ 明治初期の円ドル為替レート:日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』並木書房、復刻版、1995。
- ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p30。
- ^ 日本側は条約締結当初から日本が欧米諸国と取り決めた税率水準(一律5%であるが、対朝鮮においてはある程度融通を利かせて品目別に課税することも想定していた)程度であれば許容するつもりであったが、朝鮮側は品目別課税(最高35%)を主張して譲らなかった。(国立公文書館『朝鮮国信使税則該判概略書ノ件』P14~「海関税則草案」)
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