日朝修好条規 条約締結後の問題

日朝修好条規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 16:13 UTC 版)

条約締結後の問題

開港地の選定

日朝修好条規において、釜山以外に二港を開港するとしながら、どこにするかという具体論になると交渉は難航した。日本は候補の一つとして文川郡松田里を強く推したが、その地は王陵(王家の墓地)があるために朝鮮側が難色を示した。代替として候補に挙がったのが徳源府元山津であった。日本はこれを受け入れ、1880年5月開港となった。日本は十万坪強の居留地を設定し、領事館を置いた。元山は単に貿易の要所としてだけでなく、対ロシアの拠点としての機能も重視された。そのため明治政府は積極的な移住政策を推し進めた。

もう一つの開港地として日本側が求めたのは仁川済物浦である。仁川は朝鮮の首都漢城の外港にあたる地であるため交渉は非常に難航したが、朝鮮側が妥協して1881年2月受諾を通告してきた。ただ実際の開港は壬午事変が発生したため、延期となった。1882年に領事館が置かれたものの、開港はさらに遅れ、最終的には1883年1月になって漸く開港された。同年9月には七千坪ほどの居留地が設けられた。

公使常駐問題

朝鮮側の認識では、日朝修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えていた。決して近代的な国際関係の中に自国が置かれたとは考えていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることはなかったのである。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良いと主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。

日朝間で激しいやりとりがあったが、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来し、1880年12月には漢城に公使館を設置することで長期滞在を既成事実化したため、朝鮮側も黙認せざるを得なくなった。同年、朝鮮側も東京に公使館を設置している。

一方朝鮮側は1876年5月、日本側の勧めにより答礼使節として両班を成員とする修信使を日本に派遣した。開化途上にある日本の現状を視察するのが本来の目的であったが、派遣された両班たちには保守的な者が多く、1回目の派遣はあまり成果が無かったといわれる。金弘集に率いられた2度目の修信使は、駐日清朝公使何如璋及び黄遵憲と面会し、黄の『朝鮮策略』を持ち帰っている。第二回修信使の見聞、日本政府との交渉、『朝鮮策略』の持参によって、朝鮮の対外政策は欧米に対する開国政策へと舵を切り始めた。

経済問題

日朝修好条規締結後、多くの日本人が朝鮮開港地を訪れた。たとえば日本列島に近接する半島南東部の釜山では開港当時居留人口は数百人程度であったが、1882年には2000名弱の日本人が在留。主に大阪九州対馬の商人が多かったという。貿易額も比例して大きくなり、やがて中朝貿易と比較して日朝貿易の比重がより大きなものになっていった。しかしそれに伴い、多くの問題が発生することになる。

まず日本の国内価格よりも非常に廉価である米穀が朝鮮から大量に輸出されるようになり、輸出差益を期待した官や豪商等による米の買占めもあって朝鮮国内において深刻な米価騰貴をもたらした。また当初は貿易額の右肩上がりを支えていた無関税貿易であったが、次第に著しい貿易不均衡の問題が表出するようになってゆく。遅まきながら関税設置の必要性を悟った朝鮮政府は、条約を無視して一方的に釜山の朝鮮人商人に税を課しはじめたが、軍艦派遣を含む日本側の厳重な抗議によってこの企みは頓挫した。その後幾度か関税についての使節を日本に派遣したが、交渉はいずれも成功しなかった[13]。その後、税率交渉のため日本から弁理公使花房義質が漢城へと派遣されたが、壬午事変の発生によって交渉は中断を余儀なくされ、最終的な決着は1883年(明治16年)7月に締結された日朝通商章程の成立を待たなければならなかった。この章程の規定により、日朝貿易は無関税制から協定関税率制へと移行することになった。

上記のような経済問題は、領事裁判権問題とも密接な関わりがあった。大倉喜八郎や福田増兵衛といった政商、第一銀行といった大資本が朝鮮貿易に参入するようになると、対馬商人たちは経済的に脇に追いやられるようになり、本来貿易が許されないはずの開港地の外縁へと暴力的に進出していくようになる。そのため朝鮮人ともめ事を起こすことになっていくが、当然、対馬商人たちは日本側が引き取り裁判を行った。このような日本側の姿勢は「てんびん棒帝国主義」と評された。


  1. ^ 外務省・日本外交文書デジタルアーカイブ第9巻1「江華島事件ノ解決並ニ日鮮修好条規締結一件」[1]DFVU-P.58(※閲覧にはブラウザのダウンロード要)[2]
  2. ^ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p59
  3. ^ 砲艦外交の要請:「即今我軍艦一、二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して、海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、・・・又結交上に於ても、幾分の権利を進むるを得べきは、必然の勢なり」(下記田保橋潔本より、原載『朝鮮交際始末』)
  4. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p29。また、吉野誠「江華島事件」(『明治維新と征韓論』証書店、2002、192頁)など。「雲揚号事件をめぐる一考察」金光男(茨城大学人文学部紀要no.43 p.33-45 社会科学論集2007-3-30)[3]
  5. ^ 「自主」の解釈1(当時の見方):たとえば清朝の外交機関総理衙門は「朝鮮は中国の藩服に隷すと雖も、その本処の一切の政教・禁令は、向〔さき〕に該国に由り自ら専主を行う。中国従〔かつ〕て與聞せず」(朝鮮は中国の藩属国とはいえ、朝鮮の国政・法律は自らで行い、中国自体はそれに対しこれまで関与してこなかった。〔〕内、加筆者)と述べている。また当時駐華アメリカ公使だったロウは、朝鮮は清朝に貢物を送っているけれども、その性格は中国との交易の見返りとしての性格が強い、清朝は朝鮮に対していかなる形の支配や干渉する権限はないようだ、とアメリカ本国に報告している。
  6. ^ 「自主」の解釈2(現在の研究者の見解):日本側が「独立之邦」ではなく「自主之邦」ということばを用いたことについて、研究者の間でも意見が分かれている。わざわざ両義的な用語を用いることで朝鮮側が条約締結に応じやすくしようとしたとする説(高橋秀直)と、日本側は用語の両義性を認識していなかったという説(岡本隆司)がある。
  7. ^ 下関条約第一条:「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし」
  8. ^ 寺島宗則の条約観:寺島宗則外務卿はイギリス書記官プランケットに対し、日朝修好条規は下田においてペリーと締結した最初の条約に似ている、と言明している。
  9. ^ 宗属関係切断の試み:ただフランスとベトナムとの間で1874年締結された条約では「共和政府大統領、今より後、安南王を王と待し、且諸外国に対し安南独立なるへきを証」すると記し、清朝のベトナムに対する宗主権を否定している。
  10. ^ パークスの条約観:パークスは、欧米諸国と日本の間の条約における治外法権の条項について、日本側は苦情を述べているのに、朝鮮における日本人についての領事裁判権をこの日朝条約に明記したことは特筆に値すると本国に書き送っている。
  11. ^ 明治初期の円ドル為替レート:日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』並木書房、復刻版、1995。
  12. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p30。
  13. ^ 日本側は条約締結当初から日本が欧米諸国と取り決めた税率水準(一律5%であるが、対朝鮮においてはある程度融通を利かせて品目別に課税することも想定していた)程度であれば許容するつもりであったが、朝鮮側は品目別課税(最高35%)を主張して譲らなかった。(国立公文書館『朝鮮国信使税則該判概略書ノ件』P14~「海関税則草案」)






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