日朝修好条規 条約交渉-1-

日朝修好条規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 16:13 UTC 版)

条約交渉-1-

日朝修好条規の締結

条約締結の情景

条約交渉は大きく分けて二段階ある。まずは日朝修好条規そのものの交渉。次に条規附録及び貿易規則に関する交渉。 前者の条約交渉には、日本からは全権大使黒田清隆と副使井上馨が、朝鮮からは簡判中枢府事申櫶と副総管尹滋承が出席した。交渉場所は事件のあった江華島(カンファド)とされた。

交渉は最初から日本ペースで進められた。まず随行兵士の人数や武器携帯をめぐって、本交渉の前に協議されたが、日本側は朝鮮側の抗議を一蹴している。そして1876年2月11日に本交渉が開始された。朝鮮側は、1866年末に起きた八戸事件(香港在住の日本人八戸順叔が清の新聞に征韓論の記事を載せたことから外交紛争となった事件)を交渉の場に持ち出したが、日本側は「八戸の虚説はすでに江戸幕府および対馬藩が否定済みである」と一蹴した。

日本側が突然条約締結を持ち出したのは、以下の理由による。釜山における国交交渉が数年間継続しても挫折しつづけてきたことに焦れた日本はペリーの江戸湾黒船来航の前例に倣い、ソウルに近距離な江華島で威迫交渉することで一挙に積年の懸案を解決しようと図ったのである。そのために朝鮮との交渉に際し、事前に日本側はペリーの『日本遠征記』を研究し、交渉姿勢から後に締結する条約に至るまで模倣したと言われる。[要出典]

朝鮮側はこの突然の条約締結の申し入れに驚き、最初は拒否したが、日本側の提示した条約に対する修正案を出すこととなった。朝鮮側が受け入れたのは、以下の理由による。[要出典]

  • 日本側の砲艦外交に対し、戦端を開く覚悟までは至らなかったこと
  • 清朝の実力者李鴻章が条約締結を助言したこと
  • 朴珪寿らの開国論者たちの努力によって反対派を説得したこと

日朝間の交渉で挙がった修正項目は、両国の国名をどう記載するか、相手国に赴く使臣の交渉相手とその資格・往復回数、開港場所とその数、最恵国待遇などであった。朝鮮側の修正要求は冊封国としての体面的なものが多く、後々問題となる領事裁判権は一切問題としなかった。数ヶ月後に結ばれた条規附録や貿易規則で定められた関税自主権の放棄なども円滑に承認された。

条約批准の段階に至っても、朝鮮側の関心事は体面的なものであった。すなわち批准の際、朝鮮国王の署名を要しないことを日本側に求めた。結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽を新鋳して押下批准することになった。そして、2月27日(朝鮮旧暦2月3日)に江華府練武堂で条約を締結及び批准した。

条約の主な内容

修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。また両国の外交文書は日本語と朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記する事とした。両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。

第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。

この条文は、朝鮮が清朝の藩属国であること考慮して特に日本が挿入した一文である。冊封体制の下での「属国」・「属邦」とは、近代あるいは現代の国際法におけるそれとは表記を同じくしながら、性格を異にする存在とされる。近代国際法の立場から見て、当時の朝鮮をどのように位置づけるかは種々の意見があったが[5]、日本はこの一文を入れることで、解釈の一元化を試み朝鮮を近代国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主の国」=独立国という解釈であった。つまりそう措定することで清朝が朝鮮に介入する余地を無くそうとしたのである。しかし朝鮮側はそのようには解釈していなかった。冊封体制下では「属国」でありながら、「自主」であることは矛盾しない[6]。というより属国か独立国か、という二項対立的な枠組みそのものが近代の所産である。国王が臣下の礼をとっても、朝鮮の国政全般に清朝の影響が及ぶわけではなかった。たとえば清は日朝間の外交関係すらよく把握していなかったのである。清・朝関係は、近代的国際法から見ると極めて曖昧な属人主義的関係であった。この条項に対する両国の思惑の違いは、この後も継続し、最終的な決着を見たのは下関条約の時である。その条約の第一条がほぼ同様の一文となっているのは、そのためである[7]

第二款 日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること。

日本側原案では、公使は常駐であったが、朝鮮側の要求で「随時」とし、必要がある場合に限り派遣することとした。

第四款・第五款 すでに日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港すること。開港においては土地を貸借し家屋を造営しあるいは所在する朝鮮人の家屋を賃借することも各人の自由に任せること。

具体的な開港地の選定などは、改めて後で協議することになっていた。そして1880年元山1883年仁川が開港した。

第七款 朝鮮の沿岸は島嶼岩礁が険しく、きわめて危険であるので、日本の航海者が自由に沿岸を測量してその位置や深度を明らかにして地図を編纂して両国客船の安全な航海を可能とするべし。

第九款 通商については、各々の人民に任せ、自由貿易を行うこと。両国の官吏は少しもこれに関係してはならない。貿易の制限を行ったり、禁止してはならない。しかし詐欺や貸借の不払いがあれば両国の官吏はこれを取り締まり追徴すべし。

自由貿易について定めた条項。

第十款 日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。しかし双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をすることなく努めて公平に裁判することを示すべし。

領事裁判権に関する条項。この項目については三条実美からは何ら指示がなかった。黒田ら全権大使たちの個人的判断で挿入されたと考えられている。この条約における不平等的性格を決定づけた条項といえる。朝鮮国内においては、国籍によって裁判の管轄を分けるが、日本国内においては一切朝鮮側の領事裁判権を認めないという点で片務的なものとなっている。
朝鮮側がこの条項になんら抵抗を示していないのは、先に述べたように国際法についての無関心からくるのであるが、それ以外に江戸時代の対馬藩との往来の頃には民事案件であろうと刑事のものであろうと、日本人犯罪者は倭館の日本人責任者に引き渡していた慣例があったためである。すなわち朝鮮側は、この時の慣例を条文化したものだと認識していた。開港後、日本人が次第に多く流入するようになると、これが失策だったことに気づくことになる。
  • この他特記しておかねばならないのが、最恵国待遇の条項である。日本側の原案にはこの条項が当然入っていたが、朝鮮側の強い要望により削除された。朝鮮は今後も西欧列強に対し開国する意志がないので無用だというのが、その理由であった。

  1. ^ 外務省・日本外交文書デジタルアーカイブ第9巻1「江華島事件ノ解決並ニ日鮮修好条規締結一件」[1]DFVU-P.58(※閲覧にはブラウザのダウンロード要)[2]
  2. ^ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p59
  3. ^ 砲艦外交の要請:「即今我軍艦一、二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して、海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、・・・又結交上に於ても、幾分の権利を進むるを得べきは、必然の勢なり」(下記田保橋潔本より、原載『朝鮮交際始末』)
  4. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p29。また、吉野誠「江華島事件」(『明治維新と征韓論』証書店、2002、192頁)など。「雲揚号事件をめぐる一考察」金光男(茨城大学人文学部紀要no.43 p.33-45 社会科学論集2007-3-30)[3]
  5. ^ 「自主」の解釈1(当時の見方):たとえば清朝の外交機関総理衙門は「朝鮮は中国の藩服に隷すと雖も、その本処の一切の政教・禁令は、向〔さき〕に該国に由り自ら専主を行う。中国従〔かつ〕て與聞せず」(朝鮮は中国の藩属国とはいえ、朝鮮の国政・法律は自らで行い、中国自体はそれに対しこれまで関与してこなかった。〔〕内、加筆者)と述べている。また当時駐華アメリカ公使だったロウは、朝鮮は清朝に貢物を送っているけれども、その性格は中国との交易の見返りとしての性格が強い、清朝は朝鮮に対していかなる形の支配や干渉する権限はないようだ、とアメリカ本国に報告している。
  6. ^ 「自主」の解釈2(現在の研究者の見解):日本側が「独立之邦」ではなく「自主之邦」ということばを用いたことについて、研究者の間でも意見が分かれている。わざわざ両義的な用語を用いることで朝鮮側が条約締結に応じやすくしようとしたとする説(高橋秀直)と、日本側は用語の両義性を認識していなかったという説(岡本隆司)がある。
  7. ^ 下関条約第一条:「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし」
  8. ^ 寺島宗則の条約観:寺島宗則外務卿はイギリス書記官プランケットに対し、日朝修好条規は下田においてペリーと締結した最初の条約に似ている、と言明している。
  9. ^ 宗属関係切断の試み:ただフランスとベトナムとの間で1874年締結された条約では「共和政府大統領、今より後、安南王を王と待し、且諸外国に対し安南独立なるへきを証」すると記し、清朝のベトナムに対する宗主権を否定している。
  10. ^ パークスの条約観:パークスは、欧米諸国と日本の間の条約における治外法権の条項について、日本側は苦情を述べているのに、朝鮮における日本人についての領事裁判権をこの日朝条約に明記したことは特筆に値すると本国に書き送っている。
  11. ^ 明治初期の円ドル為替レート:日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』並木書房、復刻版、1995。
  12. ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』山川出版社、1996、p30。
  13. ^ 日本側は条約締結当初から日本が欧米諸国と取り決めた税率水準(一律5%であるが、対朝鮮においてはある程度融通を利かせて品目別に課税することも想定していた)程度であれば許容するつもりであったが、朝鮮側は品目別課税(最高35%)を主張して譲らなかった。(国立公文書館『朝鮮国信使税則該判概略書ノ件』P14~「海関税則草案」)






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