教皇領 影響

教皇領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 15:26 UTC 版)

影響

以降、教皇ピウス9世は自らを「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と呼び、数代(レオ13世ピウス10世ベネディクトゥス15世)にわたってイタリア政府との交渉を拒否した。ピウス11世の時代にイタリア政府とバチカンの間での和解が模索され、1929年ラテラノ条約が締結され、世界最小の独立国「バチカン市国」が成立した。

脚注

参考文献

  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年。
  • H・I・マルー 『教父時代』2、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史〉、1996年。
  • M・D・ノウルズ 『中世キリスト教の成立』3、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 174 . キリスト教史〉、1996年。
  • William, Barry (1902). The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII. T. Fisher Unwin.
  • 森田鉄郎 著「第1編 イタリア史」、井上幸治 編『南欧史』山川出版社〈世界各国史5〉、1957年3月。 

関連項目


注釈

  1. ^ ローマに駐留したフランス軍については1864年に2年以内に撤退するという「9月協定」がイタリアとフランス間で締結されていた[11]

出典

  1. ^ 新共同訳、「マタイによる福音書」16.18-19。
  2. ^ 尚樹啓太郎 1999, pp. 106–107.
  3. ^ a b William 1902, p. 52.
  4. ^ H・I・マルー 1996, p. 438.
  5. ^ William 1902, pp. 52–53.
  6. ^ a b William 1902, p. 53.
  7. ^ H・I・マルー 1996, p. 434.
  8. ^ M・D・ノウルズ 1996.
  9. ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 5.
  10. ^ 1789年8月26日人間と市民の権利の宣言まで、もしくは1803年ナポレオン戦争まで。
  11. ^ a b c d e f g h i j k 森田 イタリア史,p.153-159.
  12. ^ a b c 森田 イタリア史,p.164-166.


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