山本徳郁 山本徳郁の概要

山本徳郁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 15:46 UTC 版)

山本“KID”徳郁
基本情報
本名 岡部 徳郁(旧姓:山本)
通称 KID
神の子
国籍 日本
生年月日 (1977-03-15) 1977年3月15日
出身地 神奈川県川崎市
没年月日 (2018-09-18) 2018年9月18日(41歳没)
所属 PUREBRED大宮
→PUREBRED東京
KILLER BEE
KRAZY BEE、KRAZY BEE糸満
身長 162.6 cm[1]
体重 61.2 kg[1]
リーチ 167.6 cm[1]
階級 フェザー級バンタム級
バックボーン レスリング修斗
家族 山本郁榮(父)
山本美憂(姉)
山本聖子(妹)
親戚 山本アーセン(甥)
ダルビッシュ有(義弟)
テーマ曲 狂蜂の詩
(たなか雄一狼 feat. SHINGO☆西成
テンプレートを表示
獲得メダル
男子 レスリング フリースタイル
全日本レスリング選手権大会
1999年 58kg級
全日本学生レスリング選手権大会
1999年 58kg級
全日本大学レスリング選手権大会
1999年 58kg級

ニックネームは「神の子」または「KID」。

人物

ミュンヘンオリンピックレスリング・グレコローマン日本代表だった山本郁榮を父親に持ち、姉・美憂、妹・聖子レスリング世界選手権を制覇している。同じくレスリング選手・総合格闘家の山本アーセンは甥。 その他スポーツで著名な活躍をしている親族としてプロ野球選手のダルビッシュ有は義理の弟(聖子の夫)、祖父は水泳のオリンピック選手だったと自身のブログで写真付きで公開している。

好物は和食・朝鮮料理・タイ料理。また、トレーニングの集中期間中は食事のレパートリーは三品のみであり、その中の一つである豚キムチと米がお金も掛からなく一番良いと発言している[4]

タトゥーマニアであり全身に多くのタトゥーを彫っている。生前ワードリーフ株式会社のインターネットニュース『THE PAGE』に寄せたインタビューでは「俺のタトゥーのひとつひとつに意味があるから」と語っている[5]

動物好きで知られ、殺処分される予定であった犬を引き取り「カッシー」と名付け、家族の一員として迎えている。

親の影響から食に対するこだわりは強く、現役時代の食生活の中でヴィーガンを採用していた時期もある。結果的に、動物好きからベジタリアンになり、晩年はヴィーガンになっており、2018年4月28日に沖縄市で開催された「沖縄ヴィーガンフードフェス」にもゲスト出演[6] しているが、トーク中に「試合前は肉を口にする」と述べている。

また、主宰しているジム「KRAZY BEE」は、沖縄ヴィーガンフードフェスに協賛し、ジムのオリジナルグッズに会場で本人がサインを入れて販売。売上を動物保護活動を行っている3つの団体(Shie's Happy TailsクックハウスLife Investigation Agency(LIA))に、沖縄ヴィーガンフードフェス事務局を通して寄付している。

2004年、自身がプロデュースを手掛けるブランドHARDHITを立ち上げる。

2008年から大田区馬込に自身でスポーツジムYSA(ヤマモトスポーツアカデミー)、KRAZY BEEの経営を開始。

2012年5月24日、Twitterを開始したことをブログにて発表。山本"KID"徳郁 (@KID_KRAZYBEE) - X(旧Twitter)

2014年7月に品川区大井に、自身がプロデュースするカレー屋「Curry Shower」をオープン。

2017年7月に沖縄県糸満市に自身が主催するKRAZY BEE糸満を、11月に埼玉県越谷市にKRAZYBEE越谷を創設。

2018年5月29日、若手選手の登竜門となるオンライン視聴型アマチュア格闘技大会『KRAZY LEAGUE』を設立。6月30日に第1回大会が開催された[7]

2018年9月18日、多臓器不全で死去、41歳没。

私生活

モデルのMALIAと2003年に雑誌の撮影で知り合い[8]、2004年8月に結婚。2005年1月に第1子男児、2006年11月に第2子女児が誕生したが、2009年に離婚。子供はMALIAが引き取った[9]

一般女性と再婚し、2014年11月に第3子女児[10]、2017年8月に第4子女児が誕生した[11]

来歴

レスリング

幼い頃よりレスリング(フリースタイル)で活動。 高校時代は単身でアメリカにレスリング修行、アリゾナ州の王者に3度輝いた。 大学では日本に帰国、全日本学生レスリング選手権大会優勝(フリースタイル58kg級)など数多くの実績を残した。シドニーオリンピック出場を目指していたが、1999年の全日本レスリング選手権大会(同級)で惜しくも準優勝。

総合格闘技転向・修斗

オリンピック出場への道が絶望的になったのと同時期に姉・美憂の夫(当時)であるエンセン井上に師事して総合格闘技に転向。姉から総合格闘技のビデオを見せられたのがきっかけになったという。2000年7月、愛知で行われたアマ修斗ワンマッチにて2RKO勝ちでアマデビュー。同年9月第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級(-63 kg)で優勝。翌2001年にプロデビューし修斗で世界ライト級ランク2位まで登り詰めた。

2002年9月16日、プロフェッショナル修斗公式戦で勝田哲夫と対戦。試合前に勝田がKIDに対して「彼はレスリングの実績があるけど、総合におけるレスリングってものを俺が教えてあげますよ」と挑発したことに対してKIDは不快感を露にしていた。試合ではKIDがパウンドの連打で勝田をKOしたが、レフェリーストップがかかったにもかかわらずレフェリーの制止を無視して舌を出して笑顔で勝田を殴り続けたため120日間のライセンス停止処分を受けた[12]

2003年12月14日、修斗世界ライト級(-65 kg)チャンピオンシップで王者アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラに挑戦予定であったが、練習中に右手人差指を骨折し、全治2か月となり欠場した。

K-1・HERO'S

2004年2月24日、K-1初参戦となった「K-1 WORLD MAX 2004 〜日本代表決定トーナメント〜」1回戦で村浜武洋と対戦。村浜を相手にK-1ルール初挑戦ながら圧倒的なスピードとパンチ力を発揮、ノーガードで村浜のパンチを避け、ダウンを奪った後も追撃する2RKO勝利。だが、試合前から負傷していた右手第二中指骨を骨折し、準決勝を棄権した。

その後トニー・バレント安廣一哉ジャダンバ・ナラントンガラグを総合ルール(安廣のみミックスルール)にて一本・KO勝ち。そしてナラントンガラグ戦後、リング上からマイクで魔裟斗に対戦を要求。魔裟斗もこれを受け、2004年12月31日のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦。1Rに魔裟斗からダウンを奪った直後、金的を貰いダウン。リプレイが流れた会場では悲鳴が上がるほどのダメージを受け、実況席からも続行は無理と言われる程であった。また、完全に視線が下にいっている魔裟斗のリプレイ映像を見て解説の船木誠勝が故意であることを匂わせる発言をした。インターバルの後に試合は再開されたものの、精彩を欠いたKIDは2Rにダウンを取り返され、判定負け。

2005年3月3日のHERO'S旗揚げ発表会見に出席し、HERO'S参戦が発表されるも、怪我のため、3月26日のHERO'S旗揚げ戦は欠場となった。

2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005のスーパーファイトにてK-1ルールで出場。しかしマイク・ザンビディスと対戦し、右フックでキャリア初のKO負けを喫した。

2005年7月6日、HERO'S 2005のスーパーファイトでイアン・シャファーと対戦し、TKO勝ち。

2005年9月7日、HERO'S 2005ミドル級(-70 kg)世界最強王者決定トーナメント準々決勝でホイラー・グレイシーと対戦し、右フックで失神KO勝ち、準決勝では宇野薫をパンチで出血させ、ドクターストップでTKO勝ち。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてトーナメント決勝戦を須藤元気と対戦し、右フックのダウンからパウンドの連打で1RKO勝ちを収めトーナメント優勝を果たし、キャリア初のベルト戴冠となった。この試合の決着場面において「レフェリーストップが早かったのでは?」という指摘が須藤とファンから挙がったが、後日にTBSで放送された格闘王で、レフェリーストップ直後に立ち上がった須藤の脳が揺れて足元がふらついてコーナーまでよろめいている映像が放送され、事なきを得た。須藤も後に「ストップされた時は、(ダメージがあったため)あまり覚えていない」と語っている。

2006年2月17日、修斗代々木大会に出場した同門の菊地昭の試合後にドクターチェック中であった中山健児リングドクターに対し、暴言を吐いた上、足先で臀部を小突いた。事態を重く見た日本修斗協会は2月21日、山本に修斗全公式戦会場立入禁止、山本が代表を務めるKILLER BEE(現・KRAZY BEE)所属全選手および関係者へ修斗全公式戦出場停止処分を下した[13]。翌2月22日にKIDが中山リングドクターに謝罪し、和解したが3月6日付けでインターナショナル修斗コミッション(ISC)よりKIDへの無期限ライセンス不許可処分およびKILLER BEEへの厳重注意処分を受けた。10月12日にKIDがISCおよび日本修斗協会に謝罪し、10月13日付けで無期限ライセンス不許可処分が解除された[14]

2006年5月3日、HERO'Sで宮田和幸と対戦し、開始4秒の左跳び膝蹴り一発で失神KO勝ち。この膝蹴りで宮田は下顎骨を骨折する重傷を負った。試合後のマイクでは「ヤバイ、かっこ良すぎる、俺」と自画自賛した。

レスリング復帰

2006年7月23日、レスリングに復帰し、2008年北京オリンピック出場を目指すことを宣言。プロ格闘家活動を一時休止する。

2006年12月、スポーツ用品ブランド「リーボック」とのパートナー契約を締結[15]

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で総合格闘技のリングに一時復帰。アテネオリンピックレスリング・グレコローマン55kg級金メダリストのイストバン・マヨロシュと対戦し、首相撲からの膝蹴りでKO勝ち。

2007年1月28日、天皇杯平成18年度全日本レスリング選手権フリースタイル60kg級2回戦でアテネオリンピック銅メダルの井上謙二(自衛隊)の巻投げで右肘を脱臼、試合開始16秒でフォール負けを喫した。なお、大会前に同階級の有力選手からは「(山本に)1ポイントも与えるつもりはない」「7年もブランクがあっては通用しない」など、長期のプロ活動から復帰した山本に対しての発言があった。

2007年6月、北京オリンピック出場に望みをかけレスリング明治乳業杯全日本選抜選手権に出場を予定していたが、肘の脱臼が完治せず、練習も満足に出来ていないため出場を取りやめた。

2007年9月17日、総合格闘技復帰戦となったHERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦ビビアーノ・フェルナンデスと63kg契約で対戦。試合の1週間前に左手首の豆状骨を骨折しており、腕ひしぎ十字固めをかけられ回転して逃げるなど危ないシーンもあったが、スタンドでのローキックなどでダメージを与え、判定勝ち。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!ハニ・ヤヒーラと61kg契約で対戦。ヤヒーラのグラウンドには付き合わずスタンドでの攻防となり、最後は左フックでKO勝ち。ヤヒーラがダウンした後の頭部へのサッカーボールキックに対してイエローカードが提示された。

DREAM

2008年7月21日、DREAM.5ジョセフ・ベナビデスと対戦予定であったが、練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、欠場となった。同年8月1日に手術を受け、成功した。同時に前年に骨折していた左手首の手術も受けた。この怪我以降、急激にKIDの戦績が下降していった。

2009年4月5日、DREAM.8のテレビ放送の解説を務めた。

DREAM.7から開幕したDREAMフェザー級(-63 kg)グランプリでは実績を考慮されて1回戦をシードされた。

2009年5月26日、約1年5か月ぶりの復帰戦となったDREAM.9のフェザー級(-63 kg)グランプリ2回戦でジョー・ウォーレンと対戦。ムエタイ・スタイルへと変貌を遂げた打撃をヒットさせるが、グレコローマン・レスリング世界選手権優勝というKIDを上回るレスリング実績を誇るウォーレンに何度もテイクダウンを奪われてパンチを浴び判定負け。総合格闘技ルールでの敗戦は実に7年ぶり2度目。

2009年7月13日、約4年2か月ぶりのK-1参戦となったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8チョン・ジェヒと対戦し、1Rに先に有効打をヒットさせて追撃したところを右アッパー、左フックの連打を受け失神KO負け。

2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦でSRCフェザー級(-65 kg)王者金原正徳と対戦。63kg契約の試合であったがリーチ差に手を焼き、2Rには金原のパンチを受けてジェヒ戦を思い起こすようなダウンを喫したが、最終3Rに打撃で猛反撃。試合終了直後に腕立て伏せをしてダメージの無さをアピールしたが、判定負け。復帰後、K-1ルールを含め3連敗となった。この試合がMMAルールで唯一、日本人選手に敗北した試合となった。

2010年5月29日、ケージ開催となったDREAM.14キコ・ロペスと60kg契約で対戦し、KO勝ち。2007年12月31日以来、2年5か月ぶりの勝利となった。

2011年、DREAMを離脱しUFCと契約する。「またベルトをもらって、日本のファンに恩返ししたい」と語った[16]

UFC

2011年2月5日、UFC初参戦となったUFC 126デメトリアス・ジョンソンと対戦。テイクダウンを奪われるなどして0-3の判定負けを喫した[17]

2011年5月28日のUFC 130クリス・カリアソと対戦予定だったが、負傷により欠場した。

2011年9月24日のUFC 135でダマッシオ・ペイジと対戦予定だったが、負傷により欠場した。

2011年11月12日、UFC on FOX 1ダレン・ウエノヤマと対戦。2Rにパンチでダウンを奪うも、グラウンド状態で劣勢となり、0-3の判定負け。

2012年2月26日、12年ぶりに日本で開催されたUFC 144ヴァウアン・リーと対戦。1Rに右フックを効かせ、よろけたリーを左右フックの連打と膝で金網際まで追い詰めるも、後半にリーの右フックを受けて体勢を崩す場面を見せ、直後にタックルを決めたが下からの三角締めから腕十字を極められてタップアウト。生涯初の一本負けを喫した。

2013年7月21日開催のUFC 165においてアイヴァン・メンジバーとの試合が発表されるも[18]、怪我により欠場。[19] また、2014年9月20日に日本で開催されるUFC Fight Night 52での復帰戦が発表されるものの、肺に肋骨が刺さる怪我によってまたも欠場となった。

UFC参戦後に頚椎ヘルニアを患っていたことを対談で明かし、一時は右手の握力がわずか8kgにまで落ちるまで症状が悪化した。[20][21] そのため、3試合を終えた後に長期休養に入る。本人によると、骨折や靱帯断裂等の選手生命の危機を経験してきたが、それとは比較にならない程の痛みで、初めて死んだら楽になるのかなと考えたとのこと。

2015年2月28日、ロサンゼルスで開催されたUFC 184において、ローマン・サラザールと対戦。UFC 144以来実に3年ぶりの復帰戦となった。2RにKIDの右手指がサラザールの目に入ったことで試合が一時中断。インターバル中にサラザールが視力が回復しないと申告したため、KIDが試合を優勢に進めていたが無効試合となった。これが生涯最後の公式戦となった。

2015年9月27日に開催されるUFC Fight Night: Barnett vs. Nelsonにおいてマット・ホーバーとの対戦が発表されたが、両者が負傷したため中止された。

2015年12月31日、TBSで放送された『史上最大の限界バトル KYOKUGEN2015』内の東日本大震災チャリティーイベント『NIPPONFIGHT』において、同年に現役復帰を表明した魔裟斗と11年ぶりに再戦。2ラウンド目に左フックでダウンを奪われ0-3の判定で敗れた。前日計量時点でKIDは62.1 kg、魔裟斗は74.7kgと、両者には軽量級ながら12kg以上の大きな体重差と体格差があったため、KIDは試合後控室の映像で「あそこまで体重に差があると…」と初めて体重差を気にする内容を口にした。

2016年6月19日に開催されるUFC Fight Night: MacDonald vs. Thompsonにおいてクリス・ビールとの対戦が予定されていたが、負傷により欠場となった。

死去

2018年8月26日、自身のInstagramにてがんの闘病中であることを公表した[22][23]。公表時にはがんの種類までは触れられていなかったが、のちに胃がんを起因とするがんの全身転移だったこと明かされている[24][25]。交流のあった力士石浦将勝にはがん公表前に既にステージ4の段階まで進行していたことを打ち明けていたという[26]

2018年9月18日、所属ジムの公式ツイッターにより同日、41歳で死去したことが発表された[2][27]。最期は療養先のホスピスがあるグアムで在宅ターミナルケアを選択し、ホスピスを出てグアム内に契約したマンションにて家族と余生を過ごした末に多臓器不全により息を引き取った[25] ことが姉の美憂から語られている[24]

がんとの闘病生活については没後、榊原信行が山本の父・山本郁榮から「2016年時点でステージ4まで進行した胃がんが発覚し、2016年7月から療養を兼ねて沖縄に移住する[25] も、2018年年始にはかなり病状が悪くなり、2018年2月時点にはグアムのホスピスを薦められ、2018年5月から本格的な入院を開始[24]。日本・グアム間を車椅子に乗りながらも往復してファンの為に復帰を目指していた」という内容を告白されたことを2018年9月19日放送のフジテレビ系「ノンストップ!」内で語っている[28]

また、同日の複数の報道番組内にて姉の山本美憂はインタビューに答え、KIDから「美憂と一緒にRIZINに出たい」と言われたことを涙ながらに明かしている。


  1. ^ a b c 山本徳郁 UFC JAPAN
  2. ^ a b KRAZY BEE Twitter公式アカウント「山本KID徳郁を応援して下さった皆様へ」”. KRAZY BEE OFFICIAL (2018年9月18日). 2018年9月19日閲覧。
  3. ^ “【DREAM】7・21KID欠場発表会見の全文「6か月ではなく、半分ぐらいで復活する」”. 格闘技ウェブマガジンGBR(現:eFight). (2008年7月18日). https://gbring.com/sokuho/news/2008_07/0718_dream_02.htm 2018年9月19日閲覧。 
  4. ^ 情熱大陸』(2007年2月4日放送分、TBS)、『格闘王』(2007年12月11日放送分、TBS
  5. ^ “追悼。山本KID氏が語っていた戦う理由と「キャラじゃない」写真ポーズ拒否”. ワードリーフ株式会社(THE PAGE). (2018年9月19日). https://news.yahoo.co.jp/articles/ecedd59f2f1bc209740f2b2b7969627263a60d54 2018年9月19日閲覧。  ※2018年10月01日付で『THE PAGE』公式サイトサービス提供終了の為、移転先の『Yahoo!ニュース』のページを出典とする。
  6. ^ 沖縄ヴィーガンフードフェスにゲスト出演”. Okinawa VEGAN FOOD FEST. 2018年4月20日閲覧。
  7. ^ 「KRAZY LEAGUE」設立への想い”. KRAZY LEAGUE公式サイト. 2018年5月29日閲覧。
  8. ^ “山本“KID”徳郁が離婚を発表、ブログには元妻・MALIAへの熱い想いも。”. Narinari.com. (2009年9月3日). https://www.narinari.com/Nd/20090912235.html 2022年8月24日閲覧。 
  9. ^ “山本“KID”徳郁 MALIAと離婚 未練たっぷり「またMALIAと結婚する」”. デイリースポーツ online. (2009年9月4日). https://www.daily.co.jp/gossip/flash/20141118677.shtml 2022年6月8日閲覧。 
  10. ^ “山本“KID”徳郁、再婚していた 25日に第3子女児誕生”. ORICON NEWS. (2014年11月28日). https://www.oricon.co.jp/news/2045167/full/ 2022年6月8日閲覧。 
  11. ^ “山本KID 女児誕生を報告「さっき産まれました」”. スポニチ. (2017年8月4日). https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2017/08/04/kiji/20170804s00003000105000c.html 2022年6月8日閲覧。 
  12. ^ “修斗コミッションが山本徳郁120日間のライセンス停止処分”. BOUT REVIEW. (2002年10月1日). http://www.boutreview.com/data/news/020920shooto-topics.html 2018年9月19日閲覧。 
  13. ^ 山本徳郁およびKILLER BEE所属選手に無期出場停止処分”. 日本修斗協会広報誌 BLOG版 (2006年2月21日). 2018年9月19日閲覧。
  14. ^ “【修斗】 KIDが協会とコミッションに謝罪。10/14横浜大会来場可能に”. BOUT REVIEW. (2006年10月13日). http://www.boutreview.com/data/news05/061013shooto-kid.html 2018年9月19日閲覧。 
  15. ^ リーボック、格闘家山本“KID”徳郁とパートナー契約締結”. リーボックプレスリリース (2006年11月27日). 2006年11月27日閲覧。[リンク切れ]
  16. ^ “KID激白!UFCでベルト獲る!!”. デイリースポーツオンライン. (2011年1月14日). オリジナルの2012年7月31日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/lgp5 2018年9月19日閲覧。 
  17. ^ “【UFC126】KID判定負け、UFCデビュー戦は厳しい船出に”. MMA PLANET. (2011年2月6日). http://mmaplanet.jp/2036 2018年9月19日閲覧。 
  18. ^ Ivan Menjivar vs. Norifumi Yamamoto targeted for UFC 165 in Toronto”. mmajunkie.com. 2018年9月19日閲覧。
  19. ^ WILSON REIS REPLACES KID YAMAMOTO, FACES IVAN MENJIVAR AT UFC 165 IN TORONTO”. SHERDOG (2013年9月3日). 2018年9月19日閲覧。
  20. ^ 健康を応援する企業だからこそ、多くの夢を支援していきたい。”. TOKYO HEADLINE WEB (2012年11月26日). 2018年9月19日閲覧。
  21. ^ UFC、愛弟子・堀口、そして自分――山本“KID”徳郁独占インタビュー”. スポーツナビ (2014年2月10日). 2018年9月19日閲覧。
  22. ^ “山本KID、がん闘病を告白「絶対元気になって、帰ってきたい」”. sponichi Annex (スポーツニッポン). (2018年8月26日). https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2018/08/26/kiji/20180826s00003000308000c.html 2018年9月19日閲覧。 
  23. ^ 私事で急なご報告となりますが、私山本KID徳郁はガン治療のために頑張っています。”. kid_yamamoto (2018年8月26日). 2018年9月19日閲覧。
  24. ^ a b c “山本KIDさん胃がん死だった 戦う魂は美憂に託す”. www.nikkansports.com (日刊スポーツ). (2018年9月19日). https://www.nikkansports.com/battle/news/201809190000131.html 2018年9月19日閲覧。 
  25. ^ a b c “山本“KID”徳郁さん「もう日本には帰れない」の諦念”. smart FLASH (光文社). (2018年9月25日). https://smart-flash.jp/showbiz/50730/ 2018年10月13日閲覧。 
  26. ^ “石浦3勝目 山本KIDさん悼む「とてもお世話に」がん公表前にステージ4と知らされていた…”. sponichi Annex (スポーツニッポン). (2018年9月18日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/09/18/kiji/20180918s00005000165000c.html 2018年9月19日閲覧。 
  27. ^ “山本KIDさん死去 41歳”. ORICON NEWS. (2018年9月18日). https://www.oricon.co.jp/news/2119758/full/ 2018年9月19日閲覧。 
  28. ^ “山本KID徳郁さんの「胃がんが見つかったのは2年以上前」 RIZIN実行委員長が告白”. https://www.hochi.co.jp/ (スポーツ報知). (2018年9月19日). https://hochi.news/articles/20180919-OHT1T50071.html 2018年9月19日閲覧。 
  29. ^ 山本KID徳郁 愛車の“つや消し”ハマーH2をヤフオクに出品”. 有名人&芸能人の愛車データベース (2009年3月22日). 2013年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月19日閲覧。
  30. ^ 格闘技通信2009年9月号
  31. ^ KID、ムエタイ王者に学ぶ。山本“KID”徳郁×ワンロップ・ウィラサクレック”. スポーツナビ (2009年4月22日). 2018年9月19日閲覧。
  32. ^ 山本KIDの愛と夢 〜IT WAS ALL A DREAM〜”. U-NEXT. 2023年12月31日閲覧。
  33. ^ 山本KID徳郁 Instagram”. Mata. 2024年1月1日閲覧。


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