奈良電気鉄道 運行ダイヤ

奈良電気鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/11 07:03 UTC 版)

運行ダイヤ

京阪神急行電鉄・京阪電気鉄道との直通運転

前述のように、終戦直後の1945年(昭和20年)12月21日から近鉄合併後の1968年(昭和43年)12月20日まで、奈良電気鉄道(→近鉄京都線)は京阪神急行京阪線(→京阪本線)の丹波橋駅に乗り入れており、その上両線を結ぶ連絡線も存在したため、その間は京阪神急行電鉄・京阪電気鉄道と奈良電気鉄道・近畿日本鉄道の間で直通運転が行われていた。奈良電の堀内駅を廃止してまで乗り入れ工事を推進した背景には、奈良電の沿線に陸軍師団弾薬庫などが存在したことから、軍による空襲時の代替線確保要請[76]が出されたためという当時の時勢[要出典]があるが、結果としては戦後に完成したことになる。

当初は奈良電から京阪神急行への片乗り入れであったが、1947年(昭和22年)4月1日からは京阪神急行からの奈良電・近鉄乗り入れも開始され、相互直通運転となった。1949年12月1日からは京阪神急行から京阪が再分離され、乗り入れる鉄道事業者が京阪神急行から京阪に変更されたが、直通区間については不変であった。

その後丹波橋駅への乗り入れと直通運転が廃止となった背景には、それまで両社線とも架線電圧が直流600Vであったものが、近鉄京都線の直流1,500Vへの昇圧[77]が決定したこと、両社共に1968年(昭和43年)9月(京阪)、10月(近鉄)に相次いで独自仕様のATSを採用したこと[78]、丹波橋駅で両社の路線が平面交差しており、さらに同駅を管理している京阪側の優先通行とされていたため、特に近鉄側のダイヤ作成時の支障となっていたこと、近鉄京都線に大型車を導入することになったことがある。この分離に当たっては、送電線の関係から、乗り入れ開始後も近鉄が旧来の線路用地を手放さずにそのまま確保してあり[79]、問題にはならなかった。

1947年(昭和22年)に京阪線・宇治線側から直通運転が開始された当時の運転系統は、おおむね以下のようなものであった。

  1. 三条駅 - (京阪神急行) - 丹波橋駅 - (奈良電) - 大和西大寺駅 - (近鉄) - 近畿日本奈良駅(現・近鉄奈良駅)・橿原神宮駅駅(現・橿原神宮前駅) …3社(1963年より2社)乗り入れ
  2. 京都駅 - (奈良電) - 丹波橋駅 - (京阪神急行) - 宇治駅 …2社乗り入れ

車両は1の運用では奈良電か近鉄(1963年(昭和38年)以降。800系や特急車など一部の車両は対象外)、2の運用では京阪神急行→京阪のもの(1950年運転開始の特急車2000系2200系、また2代目700系など一部の車両は対象外)を使用していた。

1の運用は乗務員の取り扱い上の理由もあり、近鉄合併後も京阪の車両と共通の東洋電機製造デッカー電動カム軸式制御器を備える旧奈良電車が引き続き使用されたが、一時は当時最新の近鉄820系が用いられたこともあった。しかし820系は2両編成であったため、今度は京阪線内での積み残しという問題が出てしまい、程なく旧態に復している。2の運用については、最末期には既に一般車に格下げされ、宇治線でも運用されるようになっていた1700系や、時にはカルダン車初代1800系も使われていたが、ほとんどの場合はこの2形式以外の車両が入っていた[80]

1953年(昭和28年)には、三条駅 - 橿原神宮駅駅間の列車を急行とした[81]が、1956年(昭和31年)には橿原神宮駅駅乗り入れの列車はなくなった[82]。運転本数は、1957年(昭和32年)までは、1、2とも1時間当たり各2往復だったが、その後は1時間当たり各1往復となった。同時に運転時間帯がおおむね6 - 19時台であったものが8 - 18時台に短縮された[83]。また、1の系統の一部は急行・準急で運転された。1967年(昭和42年)には、朝夕が準急、昼間が普通であったダイヤが、朝夕が急行、昼間が準急に変更された。奈良発着列車の停車駅は以下の通りであった[84]

  • 急行:三条、四条七条伏見稲荷、丹波橋、桃山御陵前大久保新田辺大和西大寺油阪、近畿日本奈良
  • 準急(設定時 - 1957年):三条 - 丹波橋間各駅、桃山御陵前、大久保、新田辺 - 近畿日本奈良間各駅
  • 準急(1957 - 1967年):三条、四条、七条、伏見稲荷、丹波橋、桃山御陵前、大久保、新田辺 - 近畿日本奈良間各駅
  • 準急(1967 - 1968年):三条、四条、七条、伏見稲荷、丹波橋 - 近畿日本奈良間各駅

当時、京阪本線にも三条発天満橋行(1963年(昭和38年)以後は淀屋橋行)の準急(朝ラッシュ時のみ、時期により運転がないこともあり)が運転されていたが、この準急は当時は寝屋川市駅まで各駅停車であったので、三条駅 - 丹波橋駅間では停車駅の異なる2種類の準急が存在していた。なお2の系統はすべて普通列車として運転された。

その他、主にひらかたパーク利用客向けの臨時列車として、京都駅 - 枚方公園駅間急行「ひらかた号」などが運行された[85]。これは、直通運転終了直前まで実施された[86]

この乗り入れにおける乗務員(運転士車掌)は、京阪(京阪神急行時代より)・奈良電(近鉄合併後も廃止まで)ともに丹波橋で交代することなく、自社の車両でそのまま他社線へ乗り入れて運転を行なっていた。

特急電車

奈良電の旅客は1947年に買出しや復員輸送のためにピークを迎えたが、以後は減少して1954年には最盛期の6割程度にまで落ち込んだ。

奈良電ではその対策として、観光客・通勤客を誘致するために高速運転を行う料金不要の「特急」を1954年に新設することとした。これは近鉄奈良線の上本町駅 - 近畿日本奈良駅間で、同様の「特急」[87]が新設される1956年より2年早いものであった。

この特急運転開始に伴い、デハボ1200形2両を新造し、さらに1940年に紀元2600年記念式典等に伴う橿原神宮参拝客輸送用として製造したクハボ600形2両を改造・整備し、デハボ1200形-クハボ600形の2両編成2本で運用に充当することとなった。

こうして特急は同年10月23日に5往復体制で運転を開始した。この時は京都駅 - 近畿日本奈良駅間39.0kmを35分(最高速度105km/h、表定速度66.8km/h)で結んだが、これは阪神電気鉄道本線梅田駅 - 元町駅間32.2kmで運行していた特急(所要27分、表定速度71.5km/h)に次ぎ、関西地区では2番目に速い列車となった。

その後、この特急運転が好評であったことから順次増発が行われ、デハボ1200形と同等の車体を備えるが機器は在来車からの流用品でまかなったデハボ1350形3両の投入により、1956年5月25日からは6往復、1957年3月21日からは12往復運転となった。

近鉄買収直前となる1963年1月21日からは、2往復が京都駅 - 橿原神宮駅駅間運行となり、京都駅 - 近畿日本奈良駅間運行の列車は10往復となった。さらに同年9月21日の、奈良電最後のダイヤ改正実施時には、京都駅 - 近畿日本奈良駅間運行の特急が7往復、京都駅 - 橿原神宮駅駅間運行の特急が6往復となった。

なお、当時の停車駅は以下の通りである。

  • 京都駅 - 丹波橋駅 - 大和西大寺駅 - 近畿日本奈良駅(現:近鉄奈良駅)
  • 京都駅 - 丹波橋駅 - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - 橿原神宮駅駅(現:橿原神宮前駅)[要出典]

この「特急」は近鉄にそのまま運行が引き継がれ、1964年10月から同年12月にかけて有料化され、現在の「京奈特急」・「京橿特急」となった。以後の変遷は近鉄特急史を参照。

なお、無料特急時代は停車駅だった丹波橋駅は有料化とともに通過駅となり、京阪の駅との分離を経て、再び近鉄丹波橋駅に特急が停車するようになったのは、38年後の2002年3月20日のことである。


注釈

  1. ^ 橋脚が夜間演習の障害になるとして、陸軍より計画の変更を求められたと社史にあるが、無橋脚を求めたのは現地部隊であり、本省の方での最終決定は一基は設けても良いとのものであった。
  2. ^ 建設においては、干拓中であった巨椋池の築堤をかなりの区間で流用し、これはすでに同池の全面的な干拓計画が進行中であったという幸運な条件があったという説が散見されるが、巨椋池の干拓事業が決定されたのは開業後の1932年(昭和7年)のことであり、この説には無理があるとも思われ、当時の奈良街道(大和街道)の重要性を考えると、完全に崩して鉄道用に使うことは難しかったと思われる。そのため、現存する太閤堤由来の地形と、干拓直前の航空写真にある奈良街道の築堤から考えて、移設などにより干拓前に街道と共存する形で鉄道用に流用できた築堤は、宇治川 - 小倉間3km以上のうち向島駅前後の数百mに過ぎないと考えられる。[要出典]
  3. ^ その代わりとして、近鉄が保有していた京福電気鉄道の株式が京阪に譲渡されている。
  4. ^ のちに京都営業所(京田辺市内)と平城営業所(精華町以南)管内となる。山田川 - 上野市など廃止となった路線もある。
  5. ^ 跡地は系列の運送会社、近鉄物流の南京都営業所となり、同社がグループ外の近物レックスとなったのちも使用している[67]
  6. ^ ただし、向島ニュータウン周辺の路線は団地の開発に伴う1970年代後半以降の開設。竹田と向島を結ぶ路線は2011年に桃山以北の延伸による開設であり、近鉄バスの現存路線に奈良電由来の路線はほぼ残っていない。
  7. ^ 『日本鉄道旅行地図帳』では4月1日改称[71]。『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』では竹田駅に1月改称[72]

出典

  1. ^ a b c d e f g 「私鉄要覧(2)」『鉄道史料』第94巻、鉄道史資料保存会、1999年5月、75頁。 
  2. ^ 「私鉄要覧(1) 運輸省鉄道監督局監修 昭和32年度」『鉄道史料』第93巻、鉄道史資料保存会、1999年2月、59頁。 
  3. ^ アルファベータブックス「近鉄京都線・橿原線 街と駅の1世紀」
  4. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 2-3.
  5. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 3-4.
  6. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 3
  7. ^ a b c 『奈良電鉄社史』, p. 4
  8. ^ a b 『向島村、佐保村間及田辺町、八幡町間鉄道敷設免許の件』 1922年11月16日 (国立公文書館所蔵)
  9. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 4-5.
  10. ^ a b 『田辺町、八幡町間鉄道免許失効の件』 1925年8月26日 (国立公文書館所蔵)
  11. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 5-6.
  12. ^ a b 『起業目論見書記載事項変更の件』 1924年10月25日 (国立公文書館所蔵)
  13. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 6-7.
  14. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 7-8.
  15. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 8
  16. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 8-9.
  17. ^ 『工事施行の件』 1925年8月2日 (国立公文書館所蔵)
  18. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 9
  19. ^ 『線路及工事方法変更の件』 1927年8月12日 (国立公文書館所蔵)
  20. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 9-10.
  21. ^ a b c 『奈良電鉄社史』, p. 10
  22. ^ a b c 『奈良電鉄社史』, p. 11
  23. ^ 『小倉村、伏見町間延長線敷設免許の件』 1926年12月25日 (国立公文書館所蔵)
  24. ^ 「奈良電気鉄道小倉伏見間工事施行一件」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)
  25. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 13
  26. ^ 陸軍省大日記乙輯昭和3年「伏見練兵場及工兵第十六大隊作業場ノ(兵営西方ノ分)一部整理ノ件」(アジア歴史資料センター・データベース所蔵)
  27. ^ 武島良成「奈良電気鉄道の澱川橋梁と高架橋の神話」『京都教育大学紀要』第119巻、京都教育大学、2011年9月、1-16頁、CRID 1050845762913145984hdl:20.500.12176/7177ISSN 0387-7833 
  28. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 15
  29. ^ 計画再変更の時点で、桃山御陵前の地下駅設計図などは既に建設を担当する大林組によって作成が完了しており、先行して同社が担当した京阪電気鉄道新京阪線(現:阪急京都本線西院 - 京阪京都間と類似の施設設計であったとされる。
  30. ^ 徳永慶太郎「近鉄昔ばなし」、『鉄道ピクトリアルNo.569』 pp.121-122
  31. ^ 『奈良電気鉄道の地下化阻止の論拠となった[独自研究?]松原厚博士の論文(松原厚「伏見町の地下水に就いて」『釀造學雜誌』第6巻第8号、大阪釀造學會、1929年3月、568-588頁、CRID 1541417145241622912NAID 110002802312 
  32. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 13-14.
  33. ^ 『伏見線工事施行の件』 1928年3月23日 (国立公文書館所蔵)
  34. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 14.
  35. ^ 『伏見線起点二哩七十鎖、桃山御陵前間工事施行の件』 1928年5月26日 (国立公文書館所蔵)
  36. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 15-17.
  37. ^ a b c d 『奈良電鉄社史』, p. 22
  38. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 25.
  39. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 25-26.
  40. ^ a b 『民営鉄道の歴史がある景観III古今書院』
  41. ^ 「奈良電気鉄道伏見京都延長線免許一件」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)
  42. ^ a b 『奈良電気鉄道(株)申請の京都駅表口、東寺間(未成線)地方鉄道運輸営業廃止について』 1963年10月15日 (国立公文書館所蔵)
  43. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 31.
  44. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 34.
  45. ^ 奈良電在籍車両の大阪電気軌道乗り入れに関しては、西大寺 - 奈良・西大寺 - 神宮前(現在の橿原神宮前駅に相当。ただし場所は異なる)、平端 - 天理間について1928年6月29日に申請を実施し、同年11月1日に鉄道大臣の、同月26日に内務大臣の認可をそれぞれ得ている。
  46. ^ 『第37回報告書 自昭和三年十月一日 至昭和四年三月卅一日』、大阪電気軌道、p.2
  47. ^ a b c 『奈良電鉄社史』, p. 41
  48. ^ 『小倉村、中道町間鉄道敷設免許の件』 1929年06月26日 (国立公文書館所蔵)
  49. ^ 『大阪市東成区森町奈良市下三条通間鉄道敷設免許ノ件』 1929年06月26日 (国立公文書館所蔵)
  50. ^ 『平城村、奈良市間鉄道敷設免許の件』 1928年4月4日 (国立公文書館所蔵)
  51. ^ 『奈良市、桜井町間延長線敷設免許の件』 1928年7月1日 (国立公文書館所蔵)
  52. ^ 『奈良、桜井間工事施行願却下の件』 1942年1月27日 (国立公文書館所蔵)
  53. ^ 『運輸協定書(写)』1943年2月6日 (国立公文書館所蔵)
  54. ^ 現在の阪急阪神ホールディングス株式会社。阪神急行電鉄と京阪電気鉄道は阪神急行電鉄を存続会社として1943年10月1日に合併し、戦後の1949年12月1日に京阪由来の路線は淀川西岸(新京阪線)を京阪神急行電鉄(阪急)に残す形で京阪電気鉄道として分離独立した。
  55. ^ 『御請書』1944年7月19日 (国立公文書館所蔵)
  56. ^ 『奈良電鉄社史』
  57. ^ 『鉄道ピクトリアル No.695』p.105
  58. ^ 当時の奈良電気鉄道は資本金9,500万円 発行株式190万株
  59. ^ 神崎宣武『経営の風土学 : 佐伯勇の生涯』河出書房新社、1992年、205頁。ISBN 430900783X全国書誌番号:93005262 
  60. ^ 1962年5月10日に免許
  61. ^ (『奈良電鉄社史』)には1962年4月28日
  62. ^ 『京阪百年のあゆみ』
  63. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 93-97
  64. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 98.
  65. ^ a b 『奈良電鉄社史』, p. 103-104
  66. ^ 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』P867・869
  67. ^ 拠点一覧”. 近物レックス. 2021年12月31日閲覧。
  68. ^ 『奈良電鉄社史』, p. 104-107.
  69. ^ 日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補 8号 関西1”、鉄道フォーラム、2021年10月14日閲覧。
  70. ^ 鉄道省監督局「地方鉄道・軌道異動表」『電気協会雑誌』第224号、日本電気協会、1940年8月、附録5頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  71. ^ 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 8 関西1、新潮社、2008年、27頁。ISBN 978-4-10-790026-5 
  72. ^ 近畿日本鉄道株式会社『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年12月、681頁。全国書誌番号:21906373 
  73. ^ 『奈良電気鉄道(株)申請の小倉、宇治間(未成線)運輸営業廃止について』 1954年8月3日 (国立公文書館所蔵)
  74. ^ 『近畿日本鉄道株式会社、奈良電気鉄道株式会社申請の会社合併について』 1963年8月26日 (国立公文書館所蔵)
  75. ^ 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 8 関西1、新潮社、2008年、27-28頁。ISBN 978-4-10-790026-5 
  76. ^ 京阪の三条駅と奈良電の京都駅のどちらかが被災しても、もう片方の駅を使用して運行ができるようにすること。
  77. ^ 1969年9月21日に実施。なお京阪も1983年12月4日には直流1,500Vに昇圧した。
  78. ^ これにより、1968年9月の京阪線ATS稼働開始の段階で当該ATS装置を持たない近鉄車両による京阪線乗り入れは不可能となっている。
  79. ^ 一部は国鉄からの引き継ぎ域であった。
  80. ^ このうち1700系の近鉄乗り入れの写真が『鉄道ピクトリアル』1984年12月臨時増刊号(電気車研究会編、1984年)に掲載されている。また1800系の近鉄乗り入れの写真が同志社大学鉄道研究会公式ホームページ「DRFC-OB デジタル青信号」に掲載されている(参照)。
  81. ^ 出典:『京阪百年のあゆみ』(京阪電気鉄道編、2011年)資料編214頁
  82. ^ 出典:『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』(日本交通公社関西支社編)1957年1月号に記載された京阪三条駅時刻表
  83. ^ 出典:『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』(日本交通公社関西支社編)1957年1月号および1957年11月号に記載された京阪三条駅時刻表
  84. ^ 出典:『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』(日本交通公社関西支社編)1957年1月号および1957年11月号、1968年7月号に記載された京阪三条駅時刻表
  85. ^ 出典:『京阪百年のあゆみ』(京阪電気鉄道編、2011年)資料編216頁
  86. ^ 鉄道ピクトリアル』アーカイブスセレクション25「京阪電気鉄道1960 - 1970」、2013年4月(電気車研究会刊) 159頁
  87. ^ 1972年から「快速急行」となる。
  88. ^ 近鉄買収後はモ430形と改称された。1969年の昇圧時、対応改造が難しいことと運用年数が長いことから、救援車に改造された1両を除き廃車となった。
  89. ^ 近鉄買収後は順にク595形・ク590形となる。昇圧時にク400形に整理・統合された。
  90. ^ ただし電装品は従来通りの東洋電機製造製で、三菱電機製品を採用したモ600形とは一線を画していた。近鉄買収後はモ670・ク570形に改称された。
  91. ^ デトボ351(旧デワボ502)とデワボ501の機器を流用して車体を新造。近鉄合併後、モ455形を経てモ455形およびク355形となり、さらに1969年の昇圧でモ400形およびク300形となった。
  92. ^ 合併後、それぞれモ680・690形となった後、特急車として大改造を施され、モ680・ク580・モ683形となる。
  93. ^ 寺本光照「近鉄の列車運転アラカルト」『鉄道ピクトリアル』第954号、電気車研究会、2018年12月、137頁。 


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