大鳳 (空母) 艦歴

大鳳 (空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 02:15 UTC 版)

艦歴

建造

大鳳の原型は、1939年(昭和14年)に策定された第4次充実計画(通称④計画)において計画された排水量27000トン級航空母艦「W102」である[53]昭和13年の大蔵省説明資料での初期案は、15.5cm砲6門を搭載する、かつて計画された「蒼龍原案」のような仕様であった[54]。これは、味方攻撃隊の中継基地になるために前方に進出するという作戦構想から来たもので、敵艦隊との水上戦闘を考慮する必要があった為である[54]。しかし航空機の高性能化に伴い、中継基地として使用する案は破棄され、通常の艦隊型空母として開発されることになり、この際かねてから懸念されていた空母における飛行甲板の脆弱性を補うべく、翔鶴型航空母艦の船体を基にして、それに飛行甲板に装甲を張り巡らせた重防御空母として計画が進められることとなった。大鳳以前の日本空母の飛行甲板は、同時期のアメリカ海軍空母と同様にほとんど無防御で、主に自らの直掩戦闘機によって敵攻撃機の攻撃を防げばよいという考えが支配的だった。また飛行甲板に装甲を張ると重心を下げるため艦の容積を圧迫し、格納庫面積が減少、すなわち攻撃力が低下するということも懸念され、さらに、航空機の大型化と高威力化する爆弾に対する限界も指摘され、飛行甲板装甲化もすんなりと決定を見たわけではなかった[55][41]。なお、装甲空母は1940年(昭和15年)にイギリス海軍が先んじてイラストリアス級航空母艦を竣工させている。

軍艦大鳳1941年(昭和16年)7月10日川崎重工業神戸造船所にて起工[56][57]。仮称艦名「第130号艦」[58]。川崎造船所、第六七〇番船[56]。同社が建造した空母としては、加賀型戦艦1番艦改造空母加賀(船体部分のみ)、翔鶴型航空母艦2番艦瑞鶴に続く3隻目となった。1943年(昭和18年)秋頃に進水予定であったが、起工から半年後に太平洋戦争が起こり工期繰上げが要求される[30]

1943年(昭和18年)3月5日、第130号艦は正式に大鳳と命名された[28]。同日附で夕雲型駆逐艦11番艦藤波秋月型駆逐艦7番艦霜月等も命名される[59]。 命名と共に、3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された[3]。 同年4月7日[31]昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王皇族軍人、天皇弟宮、海軍大佐)[60]臨席のもと午前8時30分に大鳳は進水した[58][61]8月15日隼鷹型航空母艦2番艦飛鷹艦長を務めていた澄川道男大佐は大鳳艤装員長に任命される[62][57]。12月23日附で、艤装員長は菊池朝三大佐(前職瑞鶴艦長)に交代した[63][57]。菊池大佐は、空母赤城飛行長・鳳翔艦長・瑞鶴艦長(1943年6月20日[64]〜12月18日[65])等を務めた経歴を持つ[66]

1944年(昭和19年)1月19日、呉海軍工廠で建造中の雲龍型航空母艦3番艦葛城高松宮宣仁親王昭和天皇弟宮、海軍大佐)臨席のもとで進水する[67][68]。翌1月20日、宣仁親王は神戸川崎重工業を訪問し大鳳を見学した[69]。宣仁親王は進水式などで幾度か川崎造船所を訪れて大鳳に関わっており、大鳳の工事促進を要請する[56][57]。 2月上旬、大鳳は神戸港から備讃瀬戸来島海峡を通過して呉軍港に移動、2月3日から呉海軍工廠第四船渠に入渠して最終的な艤装が施された[61][57]。 2月15日、吉岡保貞(予備役中将、川崎重工業専務取締役)は高松宮(軍令部大佐)に「大鳳の完成を3月10日に繰り上げ」と報告する[70]。 約8ヶ月分の工事量を約5ヶ月に短縮(日数換算40%)、艤装予定を約3ヶ月短縮し[71][56]3月7日に竣工した[72][73]。同時附で正式に舞鶴鎮守府所属[6][66]。菊池艤装員長も制式に大鳳艦長(初代)となった[74]。 3月10日、第一航空戦隊に編入[75]。瀬戸内海で訓練を実施する[76]。3月28日、『陸攻の神様 海軍の至宝』と謳われた入佐俊家中佐が大鳳飛行長に任命され、同時に第六〇一海軍航空隊司令を兼職することになった[77][78]

訓練

1944年(昭和19年)3月28日[79][80]、大鳳は兵員輸送を兼ねて、秋月型駆逐艦2隻(初月若月)に護衛されてを出航した[81][82]。601空の零戦・彗星・天山のほか、司偵・月光零式水上観測機零式水上偵察機、計64機を搭載した[83]。 4月4日-5日、シンガポール到着[84][85]。入港直前に舵取装置が故障し、さらに配電盤火災となり一時操舵不能となるが復旧に成功した[86]。月光や水偵、兵員を陸揚げした後、4月9日リンガ泊地に回航され、4月15日より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎第三艦隊長官)となる[75][76]。リンガ泊地では第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴)や第十戦隊所属各艦とともに着陸訓練を主に行った。

大鳳は5月6日に航空機をすべて収容し5月11日(12日とも)リンガ泊地を離れ[76]、内地からの第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳)、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳)と合流するためにタウイタウイへ移動、14日に到着した[87][88]。タウイタウイ泊地では、周囲に大きな陸上飛行場がなく、泊地の中では発着艦訓練を実施できなかった[89]。また泊地周辺にはアメリカ軍潜水艦が出没しており[90]、泊地の外に出ての発着艦訓練もできず、航空隊の技量も充分とは言えなかった[91][92]。また、潜水艦の雷撃により駆逐艦多数(谷風風雲水無月早波)等が逆に撃沈されたほどである[87][93]。 6月13日、陸上基地を利用して搭乗員の訓練をおこなうべくフィリピン中部のギマラスに向かった[94][95]。同海域では対潜哨戒をしていた天山が着艦に失敗、着艦のやり直しをしようとしたが失速し、大鳳飛行甲板の九九艦爆に追突し炎上[96]。零戦2・九九艦爆2・天山1を喪失、天山1大破・九九艦爆1小破、搭乗員1名・整備員7名が戦死した[97][98]。この事故と火災は大鳳関係者だけでなく周囲の艦にも目撃され、乗組員達に不吉な予感を与えたという[99]。同日、アメリカ軍のサイパン攻略公算大としてあ号作戦決戦用意が発令される[94]。6月14日ギマラスに入泊し燃料を補給した[94]。6月15日、ギマラスを出航しマリアナ沖に向かった[94]

マリアナ沖海戦

1944年(昭和19年)6月18日以降、マリアナ沖海戦に参加する。小沢機動部隊甲部隊(旗艦大鳳)の戦力は第一航空戦隊の大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)、第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の重巡2隻(妙高羽黒)、第十戦隊(司令官木村進少将)の旗艦/阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧と麾下の駆逐艦7隻(第10駆逐隊《朝雲》、第17駆逐隊《磯風浦風》、第61駆逐隊《初月若月秋月》、秋月型《霜月》)だった[100]。指揮下巡洋艦3隻(羽黒、妙高、矢矧)のうち、大鳳には羽黒、翔鶴には妙高、瑞鶴には矢矧が随伴していたという[101]。 彗星(大鳳所属機)がアメリカ軍機動部隊を発見し前衛艦隊は攻撃隊発進を開始したが、攻撃隊の帰還は夜間となるため夜間着艦の危険性を考慮され、この日の攻撃は見送られた[102]。また、この反転により第一機動艦隊はアメリカ軍潜水艦の行動圏に入ってしまった[103]

6月19日午前6時30分、軽巡能代(第二水雷戦隊)所属水偵がアメリカ軍機動部隊を発見した。午前7時45分より大鳳以下第一航空戦隊は128機の攻撃隊を放った[104]。大鳳攻撃隊は42機(零戦16、彗星17、天山9)[98]。7時58分には予定どおり発艦作業が終了し、小沢機動部隊には楽観的気運さえ漂った[105]。「手空きは上甲板で見送れ」の下令により乗組員の大部分が攻撃隊を見送っており[106]、対潜警戒がおろそかになっていた可能性も指摘される[107]。また無線を傍受していた軍令部でも勝利の気運が高まっていたという[108]

そのころ、アメリカ潜水艦アルバコアが小沢艦隊を追跡していた[109][110]。アルバコアでは攻撃直前に魚雷諸元調停盤が故障、潜望鏡を出し直接照準で空母を狙うことにした[111]北緯12度22分 東経137度04分 / 北緯12.367度 東経137.067度 / 12.367; 137.067地点に於いて、やや遠距離から6本の魚雷を発射した(アメリカ軍記録時間8時9分)[109][112]。上空では発艦した第一次攻撃隊が編隊を組みつつあったが、彗星1機(搭乗員 操縦:小松幸男兵曹長/偵察:国次萬吉上飛曹)が編隊に加わろうとせず、右に旋回して海に突入した[113][114]。母艦から右5000mくらいの海面だったという[115]。これは同機が雷跡を発見し、自爆突入して魚雷を阻止しようと試みたものである[116]。また、大鳳の右舷に配置されていた秋月も雷跡を視認したという[117]。 大鳳の見張員は雷跡を直ちに報告し[118]、当時28ノットで直進中であり取舵一杯が下令されたが[119]、午前8時10分に魚雷1本が大鳳の右舷前部に命中した[120][121][122]。初月の対潜掃蕩[123]を振り切り帰投したアルバコアは、「魚雷1本命中により翔鶴型1隻を撃破」と報告した[112]。 この時点で前部がやや沈下し速力は26ノットとなったものの内務科・補機分隊による左舷後部への注水によって艦首沈下は是正され、戦闘続行可能状態であった[124]。だが前部昇降機(揮発油タンク直上)が下部の戦闘機格納庫から1mほどのところで、零戦を乗せたまま前側に傾いて停止した[125][121]。昇降機(エレベーター)の重量は100トンあるため、艦内作業での修理は不可能だった[118][126]。小沢長官の命令により、工作兵が総動員で作業にあたる[127]。艦内にあった応急処置用の丸太をかき集め、停止した昇降機の上に食堂の椅子や机を櫓状にくみ上げて昇降機の穴(14m四方)を塞いだ[128][129]。9時20分頃、作業完了[130]。攻撃隊指揮官の小野大尉がその強度を確認し、搭載していた魚雷や燃料を降ろして軽くした零戦1、彗星1、天山4-5機が発艦し瑞鶴に移動した[131][121]。午前10時30分、第一航空戦隊(小沢長官直率)から第二次攻撃隊が発進している[132]

しかし、被雷直後より下部格納庫の前部昇降機付近よりガソリンの湧き出しが始まっていたという証言がある[40]。魚雷命中の衝撃で破壊されたガソリンタンクから漏出したガソリンが、周囲の浸水によって格納庫にまで押し上げられていたと考えられた[40]。気化したガソリンは艦内に充満しつつあり、まず揮発油タンクのすぐ後ろの区画(弾薬庫)はガス侵入のため退去を余儀なくされた[129]。続いて第二格納庫も出入りが困難になるほどの状況になった[121][130]。また缶室との距離も短いために、ガソリンそのものの流出抑制作業を並行して行うも、気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出[133][106]。火花を恐れて工具の使用が憚れた[133]、応急作業班の交代などの理由により[122]、作業は捗らなかった。続いて「気化ガス充満、タバコ禁止、防毒マスク着用、火花が出るような作業も禁止」との伝達が艦内各部署になされた[133][134]。格納庫の側面の扉はすべて開かれたがそれでも換気が追いつかず、舷窓や[130]、格納庫の側壁の鋼鈑を故意に破壊して穴を開けている[133]。後部昇降機を下げる[135]、発電室などの扉も開放するなど[136]、必死の換気作業が行われた。 大鳳への着艦は以上の状況により上空警戒の戦闘機と緊急を要するものに限定されたが、翔鶴がアメリカ潜水艦カヴァラの雷撃で落伍したため(午前11時20分魚雷4本被雷、午後2時頃に沈没[137])第一次攻撃隊の収容も担当することになった[131]。午後12時20分以降に小沢艦隊第一次攻撃隊が帰還してきたが、アメリカ軍の反撃により膨大な未帰還機が発生しており、大鳳から発艦した機で帰還したのは4機(零戦3、偵察彗星1)であった。

沈没

午後2時過ぎて間もなく翔鶴が沈没した[138]。大鳳はアルバコアの雷撃で航空機燃料が漏洩し、引火したため大爆発を起こした[139][140]。アメリカ艦隊を発見できず損害もないまま艦隊上空に戻ってきた第二次攻撃隊を収容中の午後2時32分(被雷から約4時間後)、気化したガソリンに引火した[120][141]。大鳳の艦橋に勤務していた近藤敏直少尉によれば、最初の着艦機が胴体着陸した直後に爆発が発生したという[142]。瑞鶴整備下士官は、大鳳の甲板上に駐機していた機に着艦失敗機が突入した直後、大火災が発生したと回想している[143]。第二次攻撃隊前路偵察の天山1機、二航戦の零戦4機を収容したところ、5機目の零戦が着艦せず通過、直後に爆発が起きたともいう[131]。羽黒下士官によれば、哨戒機が着艦した瞬間に大爆発が発生した[101]。発電機室の後方にあった缶室にガソリンが拡散して爆発した可能性や[80]、換気用モーター、運転中モーターの過熱など、他にも様々な原因が指摘されている[144]。第二次攻撃隊は旗艦の着艦不能により、瑞鶴に着艦した[145]

爆発の原因が何であれ、大鳳の損傷は重大だった[146]。エレベーターを塞ぐ作業を終えて大鳳艦橋で休憩していた塩山技術大佐は、関東大震災のような揺れでアメリカ軍重爆の大型爆弾の直撃と直感した、と回想している[147]。厚い装甲板を張った飛行甲板が飴板のように盛り上がり、前部飛行甲板は瞬時に炎に包まれた[147][148]入佐俊家中佐(大鳳飛行長)は、おそらく飛行甲板上で爆発に巻き込まれ行方不明となった(戦死認定)[149][148]。大鳳後方に位置していた重巡洋艦羽黒の艦橋からは、大爆発と共に火柱が大鳳側面の隔壁を突き破り、艦載機や乗組員が吹き飛ばされる光景が目撃された[150]。このように、昇降機周辺や甲板上にいた乗員は爆発の衝撃で吹き飛ばされ、多数の死傷者を出した[147][146]

大鳳では航海士が艦橋後部に設置されている遠隔操作の消火装置を作動させたが、鎮火しなかった[136]。また、機関部との連絡がつかないため、消防管のバルブが開けられず消火活動は全くはかどらなかった[148][136]。大鳳は急速に速度を落とし停止、艦橋の将校達は「機関部は爆発時の火炎によって全滅した」と判断している[151][152]。実際には機関科将兵には生存者がおり、退去に成功している[106]。艦の機械停止の原因は、爆発の衝撃で潤滑油を送る注油ポンプの管接手が外れ、機械が焼損するに至ったからである[153][106]

周囲の艦(羽黒、若月等)は大鳳への接近を命じられたが、爆発が続くため接近できていない[150]。 小沢司令長官は大鳳に残るつもりだったが、周囲に説得されて退艦を決意した[154]。小沢長官や古村啓蔵参謀長は艦橋が盾になったため爆風を免れた唯一のカッターボートに乗り、秋月型駆逐艦若月(第61駆逐隊)に移動[155][141]。その後16時6分に羽黒(第五戦隊)へ移った[156][141]

大鳳では小爆発が連続し[101]、駆逐艦磯風(第17駆逐隊)や初月(第61駆逐隊)等が脱出者の救助にあたった[157][158][159]。羽黒もカッターボートを派遣している[101]。最終的に磯風が大鳳の艦尾に接艦して乗組員を救助している[160][161][162]。 大鳳は左舷に大きく傾斜し[162][148]、磯風の離艦後間もなく午後4時28分(爆発から約2時間後)に沈没した[120][153]。大鳳爆発時に搭載していた零戦5機、九九艦爆1機、彗星4機、天山3機も共に失われている[163]。沈没位置(北緯12度5分 東経137度12分 / 北緯12.083度 東経137.200度 / 12.083; 137.200[164][153]。小沢中将以下司令部は20日になり瑞鶴へ移動し、以降の航空戦の指揮をとった[165][101]。 6月22日、生存者は沖縄の中城湾で瑞鶴に移乗し[166]、また負傷者の一部は病院船天応丸に収容され[122]、日本本土へ向かった。結局、大鳳が母港の舞鶴港へ帰港する事は一度もなかった。 また、大鳳の沈没を含めマリアナ沖海戦の敗北はミッドウェー海戦以上の完敗であり[167]サイパンの戦い[168][169]およびその後の戦局[170]に決定的な影響を与えた。

1945年(昭和20年)4月30日、昭和天皇米内光政海軍大臣と対面した際[171]、アメリカの潜水艦に空母2隻(大鳳、翔鶴)が撃沈された件について

「『あ号作戦』はあの辺に敵潜水艦の出没せることは判って居ながら之を強行して失敗に了ったが、あれは連合艦隊長官がさせたのか、機動部隊長官が自ら決行したのか」

と下問している[172]

8月31日、戦艦4隻(山城武蔵扶桑大和)、空母4隻(翔鶴信濃瑞鶴大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[9]1969年(昭和44年)6月22日、第一回大鳳戦歿者慰霊祭が開かれる[173]1974年(昭和49年)9月23日、大鳳慰霊碑も舞鶴に建立された[173]

大鳳の沈没は、まず魚雷1本の命中によりガソリンタンクが破壊され、艦内各部に充満[174]。続いて胴体着艦をした戦闘機の衝撃で格納庫内に充満した気化燃料(ガソリン)に引火し、爆発したことが原因だった。これは閉鎖式格納庫が持つ弱点が最悪の形で現れたものだったが、たった1発の魚雷で沈没に至るまでにはいくつかの不幸な積み重ねが存在した。

  • 大鳳のガソリンタンクは機関部や弾薬庫のさらに前方水線下に設置され、重要区画から隔離されていた[174]。タンクからのガソリン漏れは被雷の衝撃で継ぎ目がはずれたために生じたが、この継ぎ目の溶接に不具合があったと言われている[175][80]。大鳳には電気溶接も部分的に取り入れられていたが、当時の電気溶接には強度に問題があった[注釈 47]。(ミッドウェイ海戦で4隻もの主力空母を一気に失ったときに建造中だった主力空母は大鳳だけであったため、装甲空母という工程の多い艦にもかかわらず戦時下、特に工事が急がされた)空母のガソリンタンクは元々装甲板で防御されていた。ミッドウエー海戦後は、さらにタンク周囲の空所に注水されるようになった。大鳳の教訓としてその外周の空所に水ではなく、鉄筋を組んだ上にコンクリートを充填するようになった(信濃雲龍など)。また格納庫の通風装置も強化された。
  • 日本の工業力の限界により使用部品の精度や材質劣化に悩まされ、さらに優秀な技能工が次々に召集されたため、未熟な徴用工の手で建造されていた[176]
  • 竣工間近での艦内点検においてガソリン圧送パイプが指定されていた衝撃などに強い白銅製ではなく衝撃に弱い鋼製であることが判明し交換を指摘されたが入手できず、そのまま出撃となったという話も残っている。
  • 被雷の衝撃で前部エレベーターが甲板下1mのところで故障・停止してしまったが、作戦続行のため急遽エレベーター上に机などを積み上げて応急処置をし、飛行甲板の開口部を塞いでしまった。舷側の開口部、換気扇とも全開にしたが、艦内には気化したガソリンが充満し、目を開けるのも辛い状態となった。さらに攻撃隊が帰艦してきたため、後部エレベータもまた上げ下げで換気の役割は十分に果たせなかった。戦闘継続を放棄して前部、後部のエレベータとも換気のために開放すれば、気化燃料を[135]、あるいは万一引火したとしても爆風を、開口部から逃がすことができたかもしれなかった[33]
  • 格納庫の天井は全面10ミリの鋼板、その上が95ミリの装甲で覆われていたため、他の空母なら上に抜けるはずの爆圧までが下部に強く向かった。ゆえに機関部などより大きい被害を受けることとなった。
  • 大鳳はエレベーターもまた格納庫上を覆っているという理由からエレベーターにも装甲が施され、その重量は100tにもなったが、これは一度故障すると(停止した原因は昇降用ワイヤーの滑車からの脱落)艦内作業ではとても修理しかねるものであった。
  • 艦内の工作兵がエレベーター開口部を塞ぐことに総動員されたため、揮発油タンクの修理があとまわしにされた[128]
  • ガソリンの臭気を抜くため総てのベンチレーター(換気扇)を全開にしたが、かえって揮発性ガスが閉鎖された艦内に充満、爆発が艦全体に及び致命的損傷を受けた[150]
  • 竣工してわずか3カ月であり、また従来にない新機軸を盛り込んだ艦であったので乗組員が不慣れであった。
  • 大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)を擁しながら護衛する駆逐艦は7隻(磯風、浦風、秋月、若月、初月、霜月、朝雲)、巡洋艦も3隻(羽黒、妙高、矢矧)のみで、対潜警戒に難があった[177]

注釈

  1. ^ 基準28,564、公試33,800トン(#軍艦基本計画資料Sheet11、同Sheet79等)や、35,300トン(同Sheet43)、満載36,602トン(同Sheet79)の値もある。
  2. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45には公試34,600トン、満載37,270トンの値もある。
  3. ^ ただし同3頁では四捨五入して36,809トンと記載。
  4. ^ 「一般計画要領書」や#空母大鳳・信濃pp.89-90掲載の大鳳艤装大体図では全長260.60mと記載、#USNTMJ-S-01-03p.45や#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図に記載のフレームスペースの数値などから計算すると250.50m。
  5. ^ #空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の正面線図、Aとされている線図では飛行甲板側線までの深さは22.000m、飛行甲板のキャンバー0.100mで計22.100m。大鳳の線図は2種類残されており、もう一方のBと仮称されている正面線図では飛行甲板側線まで22.100mとなっている(キャンバーは同一の0.100m)。Aは1944年5月8日付の完成図、Bは終戦後復元された図面の1つということなのでここではAに依った。#USNTMJ-S-01-03p.45、#昭和造船史1pp.780-781では22.00mとしている。
  6. ^ #海軍造船技術概要p.296では9.59mになっているが、#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図によるとこれは1WL(基本計画公試状態の吃水線)の値。
  7. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると180,000shp。
  8. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると8,000カイリ/18ノット。
  9. ^ 「一般計画要領書」p.41の130号艦(大鳳のこと)の計画欄には士官75(15)、特務士官46(5)、准士官61(1)、下士官(兵を含むと思われる)1467(77傭)で「括弧内は司令部定員ヲ示ス」と注があり、合計すると1649(98)。ただし、計の欄に1651(101)と書かれており、更に総計と思われる1,751の値も書かれているが何れも合計値と合わない。
  10. ^ #海軍造船技術概要p.296では3連装22基、表A「あ号作戦前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」#日本空母物語p.417では3連装18基となっているが、#日本海軍艦艇図面集図22の一般配置図では17基しか確認できない。
  11. ^ #日本の航空母艦p.294では13号電探を信号檣に搭載という。
  12. ^ 『達第四十一號 川崎重工株式會社ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎 軍艦 大鳳(タイホウ)』
  13. ^ 山内常夫大尉と田中次男大尉の大鳳艦上での写真。
  14. ^ 同一写真と人物について解説。
  15. ^ 「零戦34、天山12(3機は偵察型)、彗星18、二式艦上偵察機10、九九艦爆3」
  16. ^ 戦史叢書、機動部隊、マリアナ沖海戦の各著書でも、機数に相違点多し。
  17. ^ 『達第四十二號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦二隻、海防艦一隻、驅潜艇二隻及特務艇三隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 藤波(フヂナミ)|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 霜月(シモツキ)|三菱重工業會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號第四十一潜水艦、呂號第四十三潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 海防艦 六連(ムツレン)|函館船渠株式會社ニ於テ建造 第四十五號驅潜艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第四十八號驅潜艇|佐野安船渠株式會社ニ於テ建造 第十九號掃海特務艇|三菱重工業株式會社彦島造船所ニ於テ建造 第二十一號掃海特務艇|株式會社横濱ヨット工作所ニ於テ建造 第十號魚雷艇』
  18. ^ 『内令第三百九十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ部中「龍鳳」ノ下ニ「、大鳳」ヲ加フ|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「涼波」ノ下ニ「、藤波」ヲ、同秋月型ノ項中「若月」ノ下ニ「、霜月」ヲ加フ|潜水艦、二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十」ノ下ニ「、呂號第四十一」ヲ、「呂號第四十二」ノ下ニ「、呂號第四十三」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「隠岐」ノ下ニ「、六連」ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中「第四十四號」ノ下ニ「、第四十五號、第四十八號」ヲ加フ』
  19. ^ 『(昭和十八年四月)七日 水曜日(略)神戸市川崎重工業株式会社において軍艦対応の命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。』
  20. ^ 『一月十九日(水)晴(略)一一三〇〜一一五五「葛城」進水式(以下略)』
  21. ^ 『(昭和十九年一月)十九日 水曜日(略)呉海軍工廠において軍艦葛城の命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。』
  22. ^ 『一月二十日(木)晴(略)〇九〇〇〜一一一〇川崎重工業ニテ「大鳳」ヲ見ル。一一二〇〜一三一〇、三菱重工業ニテ海防艦建造状況ヲ見、昼食(以下略)』
  23. ^ 『二月十五日(火)晴、冷、夕方雪チラツク(略)吉岡(川崎造船)氏(「大鳳」完成三-一〇ト繰上ゲシ話)』
  24. ^ 『七(天候略)|大海機密第〇八一三四九番電ニ依リ大鳳ヲ一艦戰ニ編入セラル(略)大鳳竣工引渡(以下略)』
  25. ^ 『二八(天候略)一.大鳳出撃/一.伯空 九三一空 前路警戒直衛及対潜警戒実施/一.三十四掃 水道端末附近ノ対潜掃蕩実施』
  26. ^ 『二六日〇八三二呉防戰(司令官)|二六日一四一七 豊後防備部隊 伯空(司令) 九三一空(司令)〔大鳳 呉鎭(長官)〕|呉防戰機密第二六〇八三二番電 電令作第四六八号 三月二十八日大鳳駆逐艦二隻沖ノ島出撃南下ノ予定速力二六節(以下略)』
  27. ^ 『(ヲ)二十八日初月及若月大鳳護衛内海西部発昭南ニ回航ス』
  28. ^ 『(1)初月 大鳳護衛内海西部発昭南回航中ノ所四日昭南着五日「リンガ」ニ回航六日瑞鶴着艦訓練警戒艦トシテ湾内出動七日第一哨艦ノ配備ニ就ク(以下略)』
  29. ^ 『四月五日 水曜日 晴(略)大鳳内地より昭南着、郵便物齎す(以下略)』
  30. ^ 『五月十四日 日曜日 晴 機動艦隊タウイタウイ基地集結。』
  31. ^ 訓練時、空母が一直線に突っ走るため広さが必要。
  32. ^ 『右訓練不足特ニ飛行隊ノ訓練ノ不足ハ航空戦ニ少カラザル影響ヲ及ボシタルモノト認ム』
  33. ^ 『<35>「あ」号作戦参加機動部隊兵力部署 指揮官 第一機動艦隊司令長官 小沢治三郎中将』(駆逐艦名は補足)
  34. ^ 『大鳳潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ魚雷1本命中 前部軽質油庫漏洩シ上下格納庫ニガス充満一時出入困難トナリ 前部「リフト」ハ二次攻撃用戦斗機搭載ノ儘中間ニテ停止セリ 直ニ応急處置ヲナシ第二次攻撃用飛行機ヲ瑞鶴ニ移載セリ(fo天山×5、fc×1、fb×1)』
  35. ^ 塩山策一海軍技術大佐談。艦隊司令部付で大鳳に乗艦した。
  36. ^ 『1120/翔鶴ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ(四本命中)火災トナリ1401沈没セリ』
  37. ^ 『六月十九日 月曜日 晴 雲あり時に少スコール』
  38. ^ 『1432/大鳳誘爆ヲ起シ1628沈没ス KdB(将旗)ハ若月ヲ経テ1606羽黒ニ移乗ス』
  39. ^ 『1432大鳳爆発当時航空戦酣ナル時機ナリシヲ以テ速ニ通信可能ナル艦ニ移乗スルコトニ決意シ当時視界内ニアリタル若月ヲ経テ1606羽黒ニ移乗シ当面緊急事項ヲ処理シ作戦指揮ヲ続行 翌20日1200瑞鶴ニ旗艦ヲ変更セリ』
  40. ^ 塩山大佐は峯風が接舷したと回想しているが、磯風の誤認。他資料の回想では磯風と修正。
  41. ^ 『大鳳ノ爆沈/大鳳ハ19日0810(位置12-24北137-20東)第一次攻撃隊発進終了直後敵潜ノ雷撃ヲ受ク(一本命中)1422突然大爆発ヲ起シ1628沈没セリ(位置(12-5北138-12東)』
  42. ^ 『6月22日1500/本隊中城湾着 午後大鳳(瑞鶴) 翔鶴(摩耶 601空ハ瑞鶴) 飛鷹(隼鷹)乗員ノ移乗ヲ実施ス』
  43. ^ 『六月二十日(火)曇、雨 〇八三〇軍令部。戦況詳カナラズ。好マシカラザルモナルハ明カナリ。殊ニ「サイパン」ノ問題ハ致命的ノコトナリ。夜、総長、次長、作戦課方針打合。二二〇〇皈。ニュース映画間ニ合ハズ、御所オ誘ナシ。』
  44. ^ 『(昭和十九年六月)二十二日 木曜日(略)宣仁親王と御対面/マリアナ沖開戦の大本営発表』
  45. ^ 『(昭和二十年四月)三十日 月曜日(略)午後、御文庫において海軍大臣米内光政に謁を賜う。その後、海軍人事上奏書類を御裁可になる』
  46. ^ 『内令第七五〇號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃|呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣』
  47. ^ 日米ともに電気溶接を広範囲に導入した戦時標準船では船体破損が続出している。造船における電気溶接の技術が完全に確立されたのは溶接性鋼が普及してからである。

出典

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