功山寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 01:59 UTC 版)
歴史
嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。
室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。
慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
文化財
国宝
- 仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。
県指定文化財
市指定文化財
- 山門 - 安永2年(1773年)
- 経蔵 - 輪蔵とも。寛政11年(1799年)
- 書院 - 七卿潜居の間。実際に滞在したのは5卿
- 韋駄天像 - 鎌倉時代末期
- 千手観音菩薩坐像 - 鎌倉時代末期
- 二十八部衆像 -
- 金岡用兼画像 - 室町時代中期
- 毛利秀元画像 - 江戸時代初期
- 大洞覚仙画像 - 江戸時代、狩野陽信作
国の登録有形文化財
- 総門 - 軸部は室町時代中期の形式を残すが、軒回りは江戸時代に改変されている。禅宗様、四脚門、木造、瓦葺き、間口4.4m[1]
- 旧長門尊攘堂 - 1933年築、鉄筋コンクリート造平屋建、瓦葺、建築面積315平方メートル。2016年まで、下関市立長府博物館本館として使用
境内
- 総門
- 山門
- 仏殿
- 法堂
- 書院
- 庫裡
- 鐘楼
- 経蔵
- 毛利家廟所
- 地蔵堂
- 高杉晋作像
墓所
その他
固有名詞の分類
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