伊地知幸介 栄典・授章・授賞

伊地知幸介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 19:26 UTC 版)

栄典・授章・授賞

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

注釈

  1. ^ この少し前(明治40年(1907年)11月頃)に、特科出身者の師団長就任に関する是非論(後述)が持ち上がった。
  2. ^ 総司令部は既に北方に進んでおり、井口は病気のため大本営に残っていたのを総司令部に合流する途中に立ち寄った。
  3. ^ 後年、井口は大本営が早期攻略を迫った為に第一次総攻撃で大損害を被った事を大本営の誤りと認めている[7]
  4. ^ 「偕行社記事臨時第28号」(明治39年2月発行)には、「1885年地雷弾の世に現出せし以来、多数の戦術家殊に砲兵科将校の多くは、未来は砲兵の射撃と歩兵の勇敢なる突撃とにより要塞を陥落せしめ得べく、往時の如く対壕及坑道を掘開し徐々正攻を企つることを敢えて要せざるものと信ずるに至れり。就中フォン・ザウエル将軍の説に...」との記述がある。
  5. ^ これにより第二次総攻撃以降は第三軍の損害は著しく低下し露軍守備隊の方がそれを上回る様になった。完全包囲された旅順に対し消耗戦を仕掛ける事で徐々に追い詰めた第三軍は要塞正面への攻勢と、続く203高地を巡る戦いで露軍の予備兵力を枯渇させて反撃の手を奪い、要塞正面の突破に成功し降伏に追い込んだ。
  6. ^ 『機密日露戦史』(p.208-209)においては、当時参謀次長であった長岡外史は、総攻撃失敗ののち第3軍に「攻城用トシテ28センチ榴弾砲4門ヲ送ル準備ニ着手セリ、2門ハ隠顕砲架、2門ハ尋常砲架ニシテ9月15日頃迄ニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」と電報したと記しているが、これは上記経過と相違する。更に長岡は、伊地知から、巨砲到底間に合わず送るに及ばずとの返電があったと記している。それに対したとえ不用になっても構わぬから送ると電報したところ、伊地知から「ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ今後ノタメ送ラレタシ」との返電があったと記している。
  7. ^ 当時の四個軍司令官・参謀長の8人中6人が薩長出身者で占められ、満州軍総司令官・総参謀長も薩長出身者であった。
  8. ^ 例えば寺田近雄は、大連近くの剣山山頂において満州軍・第3軍・連合艦隊の首脳が集まり会議が開かれ、その席上で伊地知は海軍からの重砲提供を断ったと述べており[11]、上田滋は「大山元帥の甥の伊地知某という砲兵出身の男だが、これが石頭でおよそ近代兵学を知らない」としている[12]
  9. ^ また桑原は「平時ならばとにかく一国の存亡を賭けた大戦争で、一軍の安危を担う将帥の人事を、まるで自民党の派閥人事と同一視している司馬氏の浅薄な考えは、彼独特の偏見と独断から生まれたもので、ただ滑稽というより他に言いようはない」と藩閥調整人事であるという司馬の見方を厳しく批判している[13]
  10. ^ この述懐が「旅順戦の最中は司令部に疑問を持つこともあったが、参謀長になり作戦日誌を読み返して、当時の司令部の作戦指導は妥当だったと得心した」というように、『成程と氷解』を『妥当だったと得心』と変更して紹介されている[17]
  11. ^ 長南 2012, p. 109によれば、優柔不断の根拠として、次のような当時の関係者の見解が列挙されている。「気の長い人で、容易に決定を与えない」(井上幾太郎)「事に躊躇逡巡して決断力に乏しい」(佐藤鋼次郎)「伊地知等が優柔不断の説を講じ」(山縣有朋)。

出典

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 秦 2005, pp. 269–288「期別索引」
  3. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 41.
  4. ^ 長南 2011, pp. 62–65.
  5. ^ 原書房 1994.
  6. ^ 『長岡文書 書簡・書類篇』
  7. ^ 別宮 2005.
  8. ^ 『井上幾太郎伝』(昭和41年発行)より
  9. ^ 原書房 1994, pp. 54–55斎藤聖二「解題 ―井口省吾小伝-」
  10. ^ a b 歴史群像S59 1999, p. 104桐野作人記述
  11. ^ 成美堂出版 1998.
  12. ^ 歴史群像S24 1994.
  13. ^ a b 桑原 2000.
  14. ^ 長南 2011, p. 65.
  15. ^ 成美堂出版 1998, p. 88.
  16. ^ 『機密日露戦史』p.228
  17. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 49無記名コラム
  18. ^ 前原透『日本陸軍用兵思想史』(天狼書店、平成6年)405P
  19. ^ 長南 2012, p. 109.
  20. ^ 長南 2012.
  21. ^ 『官報』第261号「叙任及辞令」1884年5月15日。
  22. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  23. ^ 『官報』第3396号「叙任及辞令」1894年10月22日。
  24. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  25. ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
  26. ^ 『官報』第6707号「叙任及辞令」1905年11月06日。
  27. ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  28. ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
  29. ^ 『官報』第1342号「叙任及辞令」1917年1月25日。
  30. ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  31. ^ 『官報』第2376号「叙任及辞令」1891年6月3日。
  32. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  33. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  34. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  35. ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
  36. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  37. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  38. ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
  39. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。


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