伊地知幸介 評価

伊地知幸介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 19:26 UTC 版)

評価

伊地知の評価には否定・肯定両論が存在している。

否定側の考えを代表するものとして、昭和40年代に新聞連載され後に単行化された司馬遼太郎小説坂の上の雲』での描写が挙げられる。この中では、伊地知は作戦・指揮能力に欠けた無能者として否定的に評価され、これが一般的に広く知られている。総じて、旅順要塞攻撃において融通の利かない硬直した作戦指揮を行い、損害を拡大させた点が批判されており、これは伊地知個人への批判に留まらず、このような人材を参謀長に据えたのは、閨閥・藩閥調整・情実等のお手盛り人事[注 7]の弊害であるという批判に拡大される事が多い。また、戦後に日露戦争の戦功により男爵となったことも総花的人事であると批判されている。また大将に昇進せずに中将で退役した点を挙げて、伊地知の評価はさほどのものではなかったとする指摘もある[10]

このような否定的評価は、2000年代以前の出版物で広く記述されていた[注 8]

近年の研究調査によって、上記のような否定的評価は、下記のように論拠を以って否定する意見も見られる。

  • 第3軍参謀長への任命に関して日露戦争勃発当時の伊地知の評価を客観的に見れば、英独仏への数度の海外留学を経験した人材であり、また砲兵科出身であり、日清戦争時の旅順攻略戦に於いて現地を踏んだ経験があり(当時第2軍参謀副長)、さらに欧州留学中に乃木希典と懇意であった。これら諸々を考慮すれば、伊地知が第3軍参謀長に任じられるのは何の不思議もない[13][注 9]
  • 2011年に伊地知の日誌など一次史料や未翻刻史料が研究されはじめると、伊地知は日露戦争時のみならず、日清戦争時にも情報将校として活動しており彼の報告が開戦への重要な材料となったことや、日露戦争開戦直前・直後期の韓国公使館付時代の役割などの功績を評価すれば、伊地知が男爵位をもらったことは妥当であると判断されている[14]
  • 旅順に於ける作戦・指揮能力の評価については、第3軍が要塞攻略に固執したことによって、旅順艦隊の無力化という目的も達成されていたことになる[15]
  • 当時は第6旅団長として勇戦し、後に第3軍参謀長となる一戸兵衛少将は戦後の述懐で、「終始軍司令官は何故情況に適せぬわからぬ命令を下達したものだろうかと疑ったが、後に第三軍参謀長に栄任後、機密作戦日誌などにより当時の事情を詳らかにし、初めて成程と氷解した」[16]と述べている[注 10]

伊地知の評判が悪かったのは、以下の要因が示唆されている。

  • 乃木希典が日露戦争後に軍神・聖将として祭り上げられたことから、乃木への批判も併せて参謀長であった伊地知に批判が集中したこと[10]
  • 旅順攻撃失敗の原因は弾薬の不足であるとして、総司令部や大本営に対して厳しく補給を請求したことが、陸軍内において、伊地知の評価を下げた。大正昭和に至るまで、日本陸軍は日露戦争の経験と第一次世界大戦の観察から、日本の貧弱な国力と工業力をもっては近代戦の莫大な消耗に到底耐え得ないという判断から、精神力を基盤とする白兵戦力、指揮官の意志力、統率の妙などの無形的戦力に大きな期待を寄せることになる[18]

軍参謀長としての評価であるが、優柔不断[19][注 11]な点が批判されている[20]


注釈

  1. ^ この少し前(明治40年(1907年)11月頃)に、特科出身者の師団長就任に関する是非論(後述)が持ち上がった。
  2. ^ 総司令部は既に北方に進んでおり、井口は病気のため大本営に残っていたのを総司令部に合流する途中に立ち寄った。
  3. ^ 後年、井口は大本営が早期攻略を迫った為に第一次総攻撃で大損害を被った事を大本営の誤りと認めている[7]
  4. ^ 「偕行社記事臨時第28号」(明治39年2月発行)には、「1885年地雷弾の世に現出せし以来、多数の戦術家殊に砲兵科将校の多くは、未来は砲兵の射撃と歩兵の勇敢なる突撃とにより要塞を陥落せしめ得べく、往時の如く対壕及坑道を掘開し徐々正攻を企つることを敢えて要せざるものと信ずるに至れり。就中フォン・ザウエル将軍の説に...」との記述がある。
  5. ^ これにより第二次総攻撃以降は第三軍の損害は著しく低下し露軍守備隊の方がそれを上回る様になった。完全包囲された旅順に対し消耗戦を仕掛ける事で徐々に追い詰めた第三軍は要塞正面への攻勢と、続く203高地を巡る戦いで露軍の予備兵力を枯渇させて反撃の手を奪い、要塞正面の突破に成功し降伏に追い込んだ。
  6. ^ 『機密日露戦史』(p.208-209)においては、当時参謀次長であった長岡外史は、総攻撃失敗ののち第3軍に「攻城用トシテ28センチ榴弾砲4門ヲ送ル準備ニ着手セリ、2門ハ隠顕砲架、2門ハ尋常砲架ニシテ9月15日頃迄ニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」と電報したと記しているが、これは上記経過と相違する。更に長岡は、伊地知から、巨砲到底間に合わず送るに及ばずとの返電があったと記している。それに対したとえ不用になっても構わぬから送ると電報したところ、伊地知から「ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ今後ノタメ送ラレタシ」との返電があったと記している。
  7. ^ 当時の四個軍司令官・参謀長の8人中6人が薩長出身者で占められ、満州軍総司令官・総参謀長も薩長出身者であった。
  8. ^ 例えば寺田近雄は、大連近くの剣山山頂において満州軍・第3軍・連合艦隊の首脳が集まり会議が開かれ、その席上で伊地知は海軍からの重砲提供を断ったと述べており[11]、上田滋は「大山元帥の甥の伊地知某という砲兵出身の男だが、これが石頭でおよそ近代兵学を知らない」としている[12]
  9. ^ また桑原は「平時ならばとにかく一国の存亡を賭けた大戦争で、一軍の安危を担う将帥の人事を、まるで自民党の派閥人事と同一視している司馬氏の浅薄な考えは、彼独特の偏見と独断から生まれたもので、ただ滑稽というより他に言いようはない」と藩閥調整人事であるという司馬の見方を厳しく批判している[13]
  10. ^ この述懐が「旅順戦の最中は司令部に疑問を持つこともあったが、参謀長になり作戦日誌を読み返して、当時の司令部の作戦指導は妥当だったと得心した」というように、『成程と氷解』を『妥当だったと得心』と変更して紹介されている[17]
  11. ^ 長南 2012, p. 109によれば、優柔不断の根拠として、次のような当時の関係者の見解が列挙されている。「気の長い人で、容易に決定を与えない」(井上幾太郎)「事に躊躇逡巡して決断力に乏しい」(佐藤鋼次郎)「伊地知等が優柔不断の説を講じ」(山縣有朋)。

出典

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 秦 2005, pp. 269–288「期別索引」
  3. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 41.
  4. ^ 長南 2011, pp. 62–65.
  5. ^ 原書房 1994.
  6. ^ 『長岡文書 書簡・書類篇』
  7. ^ 別宮 2005.
  8. ^ 『井上幾太郎伝』(昭和41年発行)より
  9. ^ 原書房 1994, pp. 54–55斎藤聖二「解題 ―井口省吾小伝-」
  10. ^ a b 歴史群像S59 1999, p. 104桐野作人記述
  11. ^ 成美堂出版 1998.
  12. ^ 歴史群像S24 1994.
  13. ^ a b 桑原 2000.
  14. ^ 長南 2011, p. 65.
  15. ^ 成美堂出版 1998, p. 88.
  16. ^ 『機密日露戦史』p.228
  17. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 49無記名コラム
  18. ^ 前原透『日本陸軍用兵思想史』(天狼書店、平成6年)405P
  19. ^ 長南 2012, p. 109.
  20. ^ 長南 2012.
  21. ^ 『官報』第261号「叙任及辞令」1884年5月15日。
  22. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  23. ^ 『官報』第3396号「叙任及辞令」1894年10月22日。
  24. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  25. ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
  26. ^ 『官報』第6707号「叙任及辞令」1905年11月06日。
  27. ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  28. ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
  29. ^ 『官報』第1342号「叙任及辞令」1917年1月25日。
  30. ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  31. ^ 『官報』第2376号「叙任及辞令」1891年6月3日。
  32. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  33. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  34. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  35. ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
  36. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  37. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  38. ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
  39. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。






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